体言止め

意味もわからず、「体言止め」という言葉だけ知っていませんか?

  ○心なき身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行法師)
「『夕暮れ』は名詞ですね。名詞で終わらせる表現技法を『体言止め』といいます。」
と習ったのではないでしょうか。でも、それが何だというのでしょう。なぜ教えられたのか、それを考えてみたいと思います。
 最初から複雑な短歌だとわからなくなってしまうので、もっと簡単な文で考えてみましょう。
  ○光る海。
  ○海が光る。
 上が体言止めの文、下が動詞で終わる文です。だいぶイメージが違うのではないでしょうか。
 体言止めだと、絵や写真のように、そこにその景色がポンと置かれるような感じでしょうか。一方、「海が光る」だと、「光る海」よりもなんだか力強いというか、生々しいというか、そんな感じがしませんか?

動詞や形容詞はネバネバしている

 名詞は、物や物事の名前です。物や物事の「ことがら」だけを表す言葉だと言われています。
 一方、動詞や形容詞は、動作や様子の具体的な「ことがら」の他に、他の単語をくっつける接着剤のような働きを持っていたりします。たとえば、「僕」という名詞に、「本」という単語をくっつけようとすると、
  ○僕
のように、「の」という単語と単語をくっつける接着剤が必要になります。ところが、動詞や形容詞だと。。。。
  ○厚い本
のように、接着剤を使わずにくっついてしまいます。動詞や形容詞自体が、接着剤も持っているのです。その接着剤は、何をくっつけるのかで種類が違います。調べてみると、6種類の接着剤を使い分けているようです。その種類のことを。。。そう、活用形というのです。

文末が名詞だと何が起こる?

 「終止形」という活用形があります。これは、文末をくっつける接着剤だと思ってください。日本語の文末には、「断定」「疑問」「共感」「驚き」など、様々な表現者の主観があらわれます。終止形や、その他の接着剤(たとえば「ね」「よ」「さ」などの終助詞類)で文が終わるということは、表現者の主観をしっかりとくっつけているということになります。
 一方、接着剤を持たない名詞で文を終わらせると、表現者の主観をしっかりとくっつけることができません。つまり、表現者の主観が見えにくくなってしまいます。そうすると、文というよりも、本の表紙に「国語」「数学」と書かれているのと同じような、客観的な「ことがら」だけをそこに、ポン! と置いたような感じになってしまうのです。
 体言止めは、写真芸術に似ています。主観を抑えて「ことがら」だけを相手に見せることで、聞き手・読み手の心を揺さぶるわけです。大げさに言えば、読み手がどのような人生を歩んできたか、どのような経験をしてきたかによって、そこにわき起こる感情も違ってくるのかもしれません。

  ○夕立の雲も止まらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声(新古今和歌集、式子内親王)

 「あの日」のヒグラシの声が、清冽に頭の中に響き渡りませんか?

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