王貞治・ホームランの軌跡
王 貞治 (おう さだはる)


1940(昭和15)年5月20日(5月10日) 東京都墨田区で中華民国籍(浙江省出身)の父・仕福、日本人の母・登美の間に生まれる。

二卵性双生児の弟として生まれるが、超未熟児であった為両親が出生届を遅らせたことから5月20日生まれとされる。 

(双子の姉であった広子は、1歳3ヶ月で死亡)



野球との出会いは小学4年の頃。クラスでチームを作りエースで4番のポジションを獲得。実力の片鱗を見せる。

本所中学時代は野球部が休部中のため、陸上部や卓球部で活躍。中学2年の時に野球部を復活させ復活させ

3年の時には東京都大会にまでチームを導く大活躍を見せる。

この頃、当時毎日オリオンズの外野手であった荒川博と出会い、その薦めにより早稲田実業へ進学する。

入学後、即レギュラーに抜擢、5番・レフトのポジションと同時に控え投手も務める。

初年度から甲子園に出場、2回戦で敗退するが、2年に進級するとエースで4番となり、1958年・春の選抜に出場。

決勝戦で高知商業を破り優勝。夏の選手権にも出場し、1回戦で寝屋川高校を相手にノーヒットノーランを達成する。



1958年9月、巨人と阪神との激しい争奪戦の末に巨人に入団。

翌年の春期キャンプにて、その打撃の非凡さに目をつけた当時の水原円裕監督は打者転向を決定。

開幕の対国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)戦に「7番ファースト」として出場するが

球界を代表する大エース・金田正一の前に3打席2三振(1四球)を喫する。

その後も26打席ノーヒットであったが、27打席目に待望の初ヒット、しかもホームランを国鉄の村田元一投手から放つ。

初年度の成績は打率1割6分1厘・7本塁打・25打点であった。


プロ入り4年目の1962年に恩師・荒川博が巨人打撃コーチに就任。

川上哲治新監督から「王を本塁打25本以上打てる打者にしろ」との命を受けてのコーチ就任であり

ここから二人三脚の猛練習と試行錯誤の末、「一本足打法」を完成。この年38本塁打・85打点と2冠王に輝く。



以降、長嶋茂雄とともに、巨人軍の第3期黄金時代を支え、9連覇の主軸選手として

また日本プロ野球最強の打者としてその名を欲しいままにする。

1973〜1974年には三冠王。13年連続本塁打王という大記録を達成。

1976年にはベーブ・ルースの通算本塁打記録714本を超え、翌1977年9月3日には

ハンク(ヘンリー)・アーロンの持つ通算本塁打記録755本の世界記録を上回る756号を記録。

野球ファンのみならず日本中の大衆を興奮の坩堝に巻き込んだ一大フィーバーの主役となる。

この記録を称えるために当時の福田赳夫内閣は「国民栄誉賞」を創設、初の受賞者となる。


1980年11月、シーズン30本塁打を達成するも「王貞治のバッティングが出来なくなった」と

現役を引退。翌年から巨人軍助監督。1984年から第11代巨人軍監督に就任。

1987年にリーグ優勝。1995年からは福岡ダイエーホークスの監督に就任。

1999年にリーグ優勝、日本シリーズ優勝。翌2000年にもリーグ連覇優勝。

2003年にはリーグ優勝後、阪神タイガースとの死闘を制し二度目の日本一を達成。


2006年。「ワールドベースボールクラシック」日本代表チームの監督として、世界一に輝く。




身長 178センチ   体重 85キロ    左投左打                              
                           
現役時代の背番号1は巨人軍永久欠番。

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