真の「天才打者」である。


王貞治がその才能を凄まじい努力で開花させたとすれば、田淵幸一は

「その才能を持て余していた」と言えるような気がする。

そんな対照的な2人の大打者が、1970年代初頭のセントラルリーグのホームランダービーを

盛り上げ、プロ野球ファンを魅了していたのは「野球の神様」の粋な差配なのかもしれない。



60年代後半、長嶋茂雄の持つ六大学通算本塁打記録8本を大幅に更新する22本塁打を放ち

法政大学の黄金時代を山本浩司(浩二・広島)富田勝(南海・巨人・日本ハム・中日)と築き

「法大三羽ガラス」と呼ばれる。熱烈な巨人志望であったがここでも「運命の悪戯」で

ドラフトでは阪神タイガースが指名。9連覇中の巨人の最大のライバルとして立ちはだかることになる。


とにかく、巨人戦に強い打者だった。9連覇最後の年(1973・昭和48年)田淵のシーズン37本塁打のうち

巨人戦では16本塁打。5試合連続で9本塁打、7打数連続本塁打・・・

滞空時間の長い、美しい放物線を描くホームラン。豪快なフォロースルーの後に手から離されたバットが

これまた美しく舞う。「ホームラン・サイボーグ」と呼ばれ、質実剛健なイメージの王とは違い

「新しい時代のプロ野球」の象徴のような存在であった。



田淵が王の前に始めて立ち塞がったのは1973(昭和48)年。

前年34本塁打で王に次ぐ2位となり「ホームランアーチスト」の片鱗を見せていた田淵は、この年

8月上旬まで本塁打、打点の2部門において王と激しいデットヒートを繰り広げる。



5月15日(巨人24試合消化時点)の王の本塁打は僅か4本。トップを走る田淵の本塁打数は13本と9本の差。打点も16点差と大きな開きがあった。

しかし、この後田淵は
「王の底力」に恐怖することになる。

5月26日の大洋戦で5打数5安打をマークした王はここから調子に乗り、1ヶ月後の6月24日には本塁打で1本差、打点で3点差と田淵を追い詰める。

7月8日の中日戦。王は左腕松本幸行から20号本塁打を放ち、この年初めてトップを走る田淵に追いつく。その後は抜きつ抜かれつのデットヒートを繰り返すが

8月8日の大洋戦に王は29・30号と連発。その後は打撃3部門を独走し、自身初の三冠王に輝く。

翌年も王VS田淵の本塁打デットヒートは繰り広げられたが、最終的には4本差でまたも涙を呑んだ(王49VS田淵45)

45本塁打を放ちながら本塁打王になれない・・・田淵にとってはまさに「相手が悪かった」としか言いようが無い。



田淵が生涯唯一の打撃タイトルを獲得するのが1975(昭和50)年。2年連続三冠王に輝いた王がこの年オープン戦での肉離れがあり出遅れたシーズンに

43ホーマーで、王の14年連続本塁打王を阻止。怪我と死球渦に泣いた田淵が、怪我に泣いた王からタイトルを奪取したのもまた、皮肉であった。


「真の天才打者」と最初に書いたが、それを証明するエピソードをひとつ。


阪神タイガースから西武ライオンズにトレードされた田淵は、やはり王のライバルでもある本塁打王、野村克也と「同じ釜の飯」を食うことになった。

ある時野村が球場へ行くと、ベンチ裏の大鏡の前でバットを構えて立ち、グリップを上げたり下げたり、バットを身体にくっつけたり離したりしながら

真剣な顔で鏡に見入る田淵の姿があった。そんな田淵に野村は「なにしとるんや?」と訪ねた。田淵は
「構えさえ決まれば、僕は打てるんですよ」と野村に答えたという。



確かに構えは大切だが、バットも振らず「構えだけ」をチェックした打者は後にも先にもこの田淵だけであろう。


1990年から3年間、福岡ダイエーホークス監督として采配を揮う。ここでも王との因縁を感じさせた。





                                             

田淵 幸一 (阪神)