その女の存在が明らかになったのは、一本の電話からだった。
 電話は竹田の兄の家にかかってきた。
 受話器を取ったのは兄嫁だ。
 「これからよぉ〜」
 「アンタの亭主、刺しに行くからよぉ〜」
 「ちゃぁんと、覚悟しとけよぉ〜」
 ・・・・・
 「よぉ」
 「聞いてんのかよ〜」
 「あのな〜」
 「アンタのダンナ、俺の女房、たぶらかしてんだよ〜」
 兄嫁は店に来る客の予約電話だろうと気軽に受話器を取っていた。
 しかし、低い男の声の主は言葉使いも荒く、少々緊張気味になる。
 間違い電話ではないかと正せば、男の言う電話番号は確かである。
 それにしても、心当たりの無い相手であった。
 「どうしてウチの電話を知ってるんですか?」
 「オレよぉ、アンタんちの店の名刺持ってんだよ」
 ・・・
 男が名刺に刷られた店名を上げていく。
 自分の所の店、義弟の店、それに加え義弟が最近開店したスナックである。
 それらの代表取締役として、男が最後に読み上げた名が亭主だった。
 どうも、間違い電話とは言い切れない話の展開である。
 だが、亭主は一体、人に刺されなければならない、どんな事をしたのだろう?
 ああぁ〜
 亭主に女が居たなんて、全く気が付かなかったではないか・・・
 今になって、露見して来たのだ。
 知らずに過ごしていた自分に腹が立つ。
 うまく騙してきた亭主にも腹が立つ。
 あんな男でも、もてていたんだ・・・
 「ウチのはハゲでデブなのにねぇ・・・」
 兄嫁は思わず呟た。
 「えぇ?」
 「デブ?」
 「そんなこと、ねぇだろー」
 「オレ、ちゃんと見て知ってんだよー」
 「アンタのテーシュよぉ、昼の二時ごろ、いっつもアパートに来てるじゃねぇかー」
 あぁぁ・・・
 兄嫁は次第に具体化してくる話に胸の騒ぎを覚える。
 「仕事の白衣着てさぁー」
 「デブじゃねぇーし、頭もハゲてねぇだろうー?」
 ???
 「あの・・・」
 「あなたの奥さんとは・・・」
 「何処で、知り合ったんですか?」
 「それはよぉー」
 「アンタんとこでやってるスナックだよー」
 「ウチのヤツ、そこで働いてんだろ?」
 ースナックー
 兄嫁はその一言で、ようやく、頭に靄っていた疑問が晴れる。
 どうやら相手の男は、自分の亭主と義弟を同じ人物だと思い込んでいる様子だ。
 ほぼ十年前の話になる。
 亭主は横浜で所帯を持っていた義弟をこの地に呼んだ。
 自分も飲食店をしていたが、弟にも定食屋を持たせた。
 義弟がスナックを始めたのは最近である。
 ところが、そのスナックは瞬く間に経営破たんに陥った。
 多額の借金だけが残った噂を世間の人から聞いている。
 亭主は実弟の身の上だから、詳しい話をしたがらないのだ。
 その義弟が、またもや、別な所でスナックを始めているのは全くの初耳である。
 開店資金などはどう工面したのだろう・・・
 また、ウチの亭主が助けたのだろうか?
 先の借金だって、返し切れて無い筈だのに・・・
 ママを雇い、何人かのホステスを大事に抱えていた義弟は、彼女等に支払う金を捻出するため、酒屋の支払いを止め、経費を後回しにし、家賃などは一番に滞納し、それでも、足りなければサラ金から借りたと聞く。
 「何だか変なんですが・・・」
 「ウチのおとうとは、借金があるんですよ・・・」
 「もう、スナックなどしていないはずですが・・・」
 男は、兄嫁の悠長な応答に苛立ちはじめる。
 「何、言ってんだよっ!」
 「店の資金は、ウチのヤツが出してんじゃないかょ」
 自分の女房は男にそそのかされたと言うのだ。
 彼女が金融機関から融資を受ける際、役所に届けた住所を書き込まなければならなかった。
 そこからの通信事務が自分の所へ配達された。
 女房は家出をして、行方が分からなかったが、今回の事で現住所を突き止められた。
 家には未だ、小さな子が居る。
 女房に戻るよう、これまで何度もアパートへ出掛けて行ったと言う。
 その時、あの男と鉢合わせもした。
 すると、男は悪びれるどころか、オレを追い払おうと足蹴にする。
 女房も又、そんな男を非難するどころか、男の方の顔色を窺がうのだ。
 何時だったか、女房の頬に青黒い痣が出来ていた。
 オレが、ヤツに殴られたのかと聞けば、階段から落ちて出来たのだと言う。
 痣の他に、かすり傷でもありそうなものだが、まるで見当たらない。
 女房は男を庇って嘘をついている。
 オレはねぇ・・・
 もう、我慢できないよ
 アンタの亭主を刺しに行くのに決めたからー
 「ちょっと、待って下さいよ・・・」
 「刺すのは構わないけど、ソレ、ウチの亭主じゃぁないわよ」
 「なにぃ!」
 「違う?」
 「そーんな事ねぇーだろ?」
 「今更、逃げてんじゃねぇーよぉ」
 「この名刺、女房のバッグに在ったんだし・・・」
 「はい・・・」
 「どうも・・・弟の方みたい・・・」
 「ふーーん」
 「そーかよぉ」
 「だったら、その女房に言っといてくれよ」
 「まぁ、別に言わなくったっていいけどさぁー」
 この電話のやり取りの後、兄嫁が里子の所へ走り来たのだ。
 
                  

 里子は一人畳に横たわり、うたた寝をしていた。
 里子ら家族はこの二階で生活をしていた。
 階下は定食屋である。
 昼の二時過ぎになる頃には客足も途絶えるので、準備中の札を出して休憩を取る。
 スナックの経営に大失敗をした竹田は、シラッとした顔で以前の日常に潜り込んでいた。
 彼は少しも悪びれず、狭い調理場で安い豚バラ肉をフライパンで煽り、近所の小売店で買った鯖の文化干しなどを焼いて客に出した。
 こんな廉価な定食を細々と売ったところで、今現在の暮らしの維持で精一杯なのに・・・
 彼の多大と推測される借金など、とても、とても、返して行くことは出来ない。
 竹田はどうして、今すぐにも外へ働きに出ないのだろう・・・
 それこそ何処かの店で雇ってもらうなり、或いは会社に勤めるなりをしないのだろう?
 彼は里子に借金の額や、その返済方法などの考えを話そうとはしなかった。
 だから一緒に働きながら、ノンビリ構えている風な竹田に強い腹立たしさを覚えた。
 どうせ、意見をしてみたところで、素直に向き合う男でもない。
 多分、今回も、義兄が何らかの指図を出しているのだ。
 「アノネ、会社なんかに勤めてもネ、大した金なんか貰えないと思うよ」
 ある朝、食堂の開店準備をしていると、珍しく竹田の方から話しかけてきた。
 「こんな店自分一人でするから、アンタこの辺の会社にでも勤めた方がいいんじゃないの?」
 いつか里子が言った話の返答が今頃である。
 いや、これを、二件目のスナックを開く理由にしたかったのだ。
 彼は、ずっとこのような語句を探していて、ようやく見つけたと言うところだろう。
 里子の預かり知らぬ所で、三人が集まり新たに開くスナックの話が生まれた。
 やっぱり、水商売が手っ取り早い!
 来る日も来る日も不景気な顔を突き合わせ、薄い茶などを飲みながら思案に暮れていた彼等は、偶然に飛び出た案に光を見たのだ。
 「オレがョー、適当な貸し店、探してやるよ」
 「心配すんな、まかしとけ」
 義兄のまん丸に太った顔の、細く鋭い目が女の曇った横顔をせっつくように刺し見ている。
 竹田といえば、ただ事がうまく運ぶのを願うばかりで、所在無く手を伸ばしテーブルの煙草を一本取る。
 誰も開店資金になる金の持ち合わせは無い。
 しかし、借金なら、まだ借り入れ可能な者が一人居たと言う展開だったと推測出来る。
 

                    

 「やっぱりね、水商売の方が収入はいいしネ」
 「だから、借金、早く返せるジャン〜」
 激情すると里子の全身を殴る蹴るする癖、普段の竹田は女のような話し方をする。
 「今度ネ」
 「オレ人、雇ってもらうからネ」
 へーー
 誰がこんな男を雇うのかしら・・・
 一度でも、成功したのなら、納得が行くけど・・・
 この男は一体どうしょうとしているのだろう???
 竹田の言うのには、雇われれば、給料も一杯貰える。
 会社に勤めるより、ずっと多くの金を手に出来る。
 妙にも、彼は今後の明るい確約でも取れたような明るい目をして、町子の不安を返って煽った。
 これから開くと言うスナックは、何処かの奥さんがスポンサーらしい。
 自分のスナックに来ていた常連客だと話した。
 スナックに一人来て、カウンターの端に陣取り、いつも同じ酒を飲んでいる何処かの奥さんが浮かび来る。
 彼女は時々カラオケでプロのように歌い、広くもないフロアーで竹田とチークダンスをする。
 何処かの奥さんだから、亭主が居る筈だ。
 家庭はどうなっているのだろう?
 まあまあ、よくそんなに頻繁に外へ飲みに出掛けられるものだ。
 きっと金持ちの人だろう。
 気ままに夜遊びが出来るのは、もう子供も大きくなっているからだ。
 そんな大事な人なのに、竹田はその人の名前や住んでいる詳しい住所などは一切明らかにしなかった。
 里子は彼女の事をある程度は知りたいと思い、竹田に尋ねた。
 「オレの店に来てた、ただの客だと言っただろっ!」
 「そう言ってんだからいいじゃないかっ!」
 「グジャ、グジャ、余計な事聞きやがってっ!」
 いいんだ、もう知らなくても・・・
 ここの所暴力も影を潜めていたのにまた呼び起こしても痛い目に会うだけだし・・・
 どれだけ多くの給料を貰えるのか、楽しみに待っていればいいじゃないか・・・
 一ヶ月を待った。
 期待に胸が膨らむ一方で、家族に対する気持ちも自然と優しく、また穏やかに日々を過ごす事が出来た。
 勿論会社ではないから、給料日などは決まっていないかも知れない。
 でも、月に一度の支払いはあるだろう・・・
 ところが、竹田は給料の(き)の字も口にはしなかった。
 月が新しく変われば、きっと遅れているんだと、里子は思った。
 その月も何の兆しも見せずに過ぎ去った。
 一杯貰って居る筈なのに、返済にこれまた、一杯回されてしまったのだろうか?
 里子は一人話を作り、納得するしかない。。
 その内、竹田はニコニコして、返済から余った少しばかりの金でも持ち帰って来る気がする。
 まぁ、竹田の金を当てにしなくても、里子の働く食堂の売り上げで日々の暮らしは保てるから。
 だが、竹田は半年経っても雇われたと言うスナックからの給料は持って来なかった。
 一杯貰う給料を返済に回してしまっているのだろう。
 それで、借金の額が減っていくなら、いいじゃないか。
 と、里子は思った。
 借金の足枷が外れたら、また、二人して力を合わせて働こう。
 子供も居る事だし、竹田は家庭を大事にするように変わるだろう。
 まあ、後ろ盾に頼もしい義兄が居るから、そう心配もする必要がなかった。
 どうせ、自分は彼等の居る蚊帳の外の人間だし・・・
 

                 

 「ん?」
 「アイツ、まだ寝てんのか?」
 里子が一人で開店準備をしていると、バイクの音がして義兄が現れた。
 「あ、いよいよ〜」
 「寝かしといてやれ、ウン」
 「こんで、ヤツもグッスリ寝れんだろう」
 義兄は大きな体を椅子に預けながら、顎を天井に振り振り言ったのだ。
 「死のうと思っても、なかなか死ねないネ・・・」
 ある日里子は竹田からそう話しかけられた。
 ソレを聞きながら、彼もとうとうサラ金地獄に陥ったのだと思った。
 近所のクリーニングのオヤジがサラ金に取り立てられて自殺していた。
 無人になったその家の表には、サラ金業者の乱雑に貼り付けた金返せのビラだけが残っている。
 竹田も全く水商売の経験など無いのだから、小さな店舗でも借りて始めたらよかったのだ・・・
 彼自身にスナックを開くはっきりとした目的意識が無いため、義兄の野望が容易く入り込んだ。
 兄の勧めで広いフロアを借りてしまった。
 そこに金を掛け、派手派手しい内装を施した。
 他人を使った経験も無いのに、水商売で海千山千の女など御し切れない。
 酒に酔い、ムードのある照明の下で、女等にマスターマスターとおだてられ心地良い気分に浸かっていた。
 女達に店の売り上げの殆どを持って行かれながら、その麻薬のような陶酔の甘い日々に居て、少しの危機感も起こらない。
 竹田はただ、生涯で初めて手に出来た、この上ない幸福な時間に溺れていたのだ。
 さすがの義兄も、毎晩見回りに来る訳でもないから見抜きようも無かったとみえる。
 「あーもしもし」
 「なんか、アノ人、死にたいって言ってるよ・・・」
 里子は義兄に電話した。
 「ん?」
 「なんだって?」
 「・・・オレんとこへ来るように言ってくれ」
 竹田はその夜もスナックへ出掛ける用意をしていた。
 あんな店なんか開けてる場合じゃぁないだろう・・・
 里子は彼に兄が呼んでいる事だけを告げる。
 彼は一瞬ギョッとしたような横顔を見せた。
 あれほどアニキアニキと頼りにしていたのに、その日は彼の元へ行くことを躊躇う風であった。
 自分でも兄が切り出す話の内容を分かっていたのだ。
 食堂では工場の夜勤に出てゆく人達の食事つくりで忙しかった。
 気がつくと竹田はもう居なかった。
 義兄の店には従業員が居る。
 彼は店をその人等に任せたきりで、空いた小部屋で弟の話を聞いた。
 竹田は始め長いことだんまりを決めていた。
 叱られている子供のように、首を垂れたままに居た。
 義兄はあれこれと話題を変えて竹田の口を開こうと試みるがダメだった。
 最後に子供の話をしてみると、俯いた彼はハラハラと涙を膝の上に落としたという。
 心がほぐれたのか、彼は兄から言われるままに借用証書を財布から取り出した。
 既に重症に陥る彼は幾社もの用紙をテーブルの上に並べたと話す。

      
  

                         
 


 「オレヨォ」
 「昨日の夜から、寝てねぇーんだょ」
 義兄が言う。
 里子は自分も世話を掛けたような、嫌な負い目を感じる。
 「今まで金策に走り回ってたからナ・・・」
 「ま、何とかケリ付きそうだ」
 まあ、まあ、麗しい兄弟愛だこと〜
 里子は竹田がノウノウと眠る部屋の天井を憎らしげに見遣る。
 今度こそ、義兄の口から、如何してスナックが経営破たんをしたのか、どれだけの額の借金が残ったのか自分に話してくれるかも知れない。
 里子は淡い期待をしていた。
 ところが義兄はそれに関した話など微塵も口にしなかった。
 まあ、いいだろう。
 義兄自身の甲斐性で解決したんだし・・・
 ああ〜
 自分は単なる都合の良い性の捌け口であり、無賃労働者でしかないではないか・・・
 不満があっても、まだ小さな子が居ては潔くここを出る訳にもいかないし・・・
 それにしても、刺しに来ると言う男の電話をこの義兄が取っていたなら・・・
 事態は全く違った方向へ展開していただろう。
 彼はお得意の小細工をせっせと巡すのだ。
 刺す男も現れず、また、竹田が女の部屋に入りびたりの話も浮かび出て来なかった筈だ。
      

                

 
 事の顛末の全く分からない兄嫁だから、長い時間を掛けても、今日に至る経緯を男からすっかり聞き出しメモをする。
 ソレを手に里子の所へ自転車で走り来た。
 距離にして、そう、遠くもないが来る時は上り坂のため兄嫁の息が弾んでいた。
 また、エライ事になったと言う、興奮も手伝っていたのだろう。
 里子が階下へ降りて行く視線の先に、兄嫁が居た。
 彼女は施錠しない裏口から入っていた。
 薄暗い店のカウンターに片身を寄せ、降り来る里子を待ち構える姿勢に立っていた。
 不思議だが里子の記憶の中で、兄嫁がこの店に顔を出したという覚えが無いのだ。
 また、外で出会う機会があっても、親しく口を利いたりする事も無かった。
 差し障りのない挨拶程度の言葉を交わすと、もう、早く立ち去りたい気持ちが募った。
 常に欺瞞的な義兄とは全く正反対の位置に居るような人だった。
 里子にしてみれば、義兄よりも更に取り付き難い印象があった。
 「あなた、この人知ってる?」
 彼女は言いながら、カウンターの上で手にしたメモへ視線を落とした。
 ???
 何の話だろう?
 里子は状況の見当がまるで付かない。
 しかし、何か切羽詰った雰囲気だけは感じられる。
 サンダルを突っ掛け、自分よりもずっと小柄な兄嫁の側に行く。
 メモを見ると、ボールペンで人の名や、住所らしきものが走り書きしてある。
 うーーん
 幾ら字面をなぞっても、閃き来るもの無い。
 「あなた、ヨシオさん、また、スナックやってるの、知ってた?」
 えっ・・・
 里子は兄嫁の言葉の方に驚いた。
 この人は何も知らされていないのだ・・・
 義兄は弟が二件目のスナックを始めた話を妻にしていない。
 「わたし、知ってましたけど・・・」
 里子は何だか申し訳ないような気になる。
 「そう」
 「それなら、いいんだけど・・・」
 「あのね」
 「ヨシオさん、この人と一緒に、スナックしてんだって」
 里子は彼女の指先の人の名を見る。
 だが、心当たりには無い。
 「これがね、この人の、ダンナサンよ」
 身辺の人間相関図を突然目の前に焙り出され、里子も戸惑うばかりだ。


                


 何処かの奥さんと言う話はこれかぁ・・・
 竹田も里子に事実を言い難い訳である。
 まさか、自分らの関係がこんな形で晒される日が来るとは思いもしなかっただろう。
 金と暇があって飲みに来ている人だと、里子が一人合点していたその奥さんは、竹田が始めたスナックで働いて居た女だった。
 彼女は店の業績がすたれ始めるや、サッサと辞めて行く女ばかりの中で一人残った。
 「オレ・・・」
 「家、帰っても、面白ないんだよね・・・」
 うつむいた竹田は閉店時間のカウンターの中に居て、少しばかりのコップを洗いながら呟く。
 ひっそりした店内に蛇口から落ちる水の音とガラスの振れあう音だけがある。
 端っこのスツールに所在無く腰掛け、カウンターに肩肘突いた女が居る。
 女は組んだ脚を小さく振りながら自分の胸に男への同情が芽生えるのを知る。
 しかし、里子の場合は女と違った。
 心地よい自分の遊び場と化したスナックへ喜々として出向く竹田の背にはいつも腹が立つ。
 暮らしの維持は里子に任せ、家に一円の金も入れない男。
 そんな男のお帰りなど、心優しく迎える事など出来ようもない。
 そういえば、竹田の無断外泊はあったなぁ・・・
 夜の遅い仕事だし、自分も食堂の仕事と子供の世話などで疲れていて、彼の外泊など重きに置いていなかった。
 いや、彼に外泊するほどの親しい女が居るなど思いもしなかったのだ。
 頼りはしていないものの、その方面の信頼のようなものがあったと言ってよい。
 ところが、ある朝、里子は仕事が出来ない程体調不良になった。
 時たま起きる、吐き気と頭痛だ。
 竹田に頼んで仕込みをしてもらおう。
 少し横になれば回復するのだ。
 里子はスナックに電話を入れた。
 随分呼び出し音を鳴らしたが出なかった。
 昼過ぎに戻った彼に今朝の話をした。
 すると、竹田はすかさず、そう言われてみれば、電話が鳴っていたような気がする。
 昨夜は疲れたので閉店と同時にソファーで寝込んでしまったと返した。
 彼の横顔には一点のやましさも浮かんでいなかった。
 しばらくして、里子の不調が起きた。
 また、朝だった。
 その日もスナックへ電話を入れた。
 やはり、頼る者は竹田しか居ないのだ。
 駆け引き無く物事を頼めるのは配偶者だけではないだろうか。
 電話の呼び出し音は鳴り続けるばかりだ。
 今回も竹田は起きられないのだろうか・・・
 里子は耳に受話器を当てたまま、暗いスナックのソファーで眠りこける竹田を想像していた。


               


 仕方ない・・・
 頑張って直接スナックへ行こう。
 店は自転車で五分と掛からない。
 歩けばキツイが自転車なら幾らか体も楽である。
 着いた里子は木のドアを叩いて待った。
 肉屋の二階にある店のドアは、朝日をまともに受けて暖かかった。
 もう一度叩く。
 耳を澄ましてみるが内部に動きの気配が無い。
 今度は少し強く連続して叩いた。
 それは鈍い音だが近辺の人達の視線を誘ったかも知れない。
 豆腐屋や八百屋、魚屋の朝の手作業が不意に止まったような気がしてひるんだ。
 いつものように、平坦と過ぎ行く時間の中で今朝は思いがけず好奇な場面に遭遇できた。
 彼等の目は生き生きとして、心は期待に弾んでいる。
 一体、どうしちゃったんだ(笑)
 あの、奥さん(笑)
 奥さんがスナックに来るなんて、めずらしいねぇ〜
 彼等は里子の胸に在る嫉妬心を想像してほくそ笑むのだ。
 ああ・・・
 ダメだぁ・・・
 竹田は気付いてくれない・・・
 聞こえないのかナァ
 エラク疲れてるんだ・・・
 里子は会うかも知れない視線を避けながら自転車で引き返した。
 その帰り道で真向こうからバイクで来る義兄と出会った。
 里子は事情を話した。
 「んん?」
 「そうかぁ・・・」
 「アイツ、まーた麻雀でもやってんだろ」
 「オレ、探して来てやるょー」
 義兄はいとも容易く請け負い、すぐにバイクを発進させた。


                


 食堂に戻ってみると、体の具合も幾らか良くなっていた。
 ついでに仕込みに掛かる。
 キャベツの千切り、味噌汁、茶の用意などをしていると、竹田が裏口から現れた。
 ???
 エライ早いお戻りだー
 流石に義兄だ、弟の麻雀先まで正確に把握している。
 いつものラーメン屋の奥だろうか?
 そんな所まで義兄は知っているのだろうか?
 ラーメン屋の夫婦だって仕事が在るのに、徹夜で遊ぶのだろうか?
 まぁ、戻って来たんだしと、里子は笑みを浮かべた。
 すると竹田は里子と会った顔をすぐに逸らした。
 その指先だけが慣れた手つきで、カウンターの端の柱の釘に触り、バイクの鍵を掛けている。
 不健康に青白くむくんだ横顔には、たった今まで麻雀を続けていた活動の名残りは見られない。
 瞼がぼってりふくれている。
 それは、ぐっすり眠りの底に沈んで居た体を、無理に引き上げられた様を語っていた。
 どうしたんだよぉ???
 竹田の細い目の端に、里子の無言の問いかけを素早く遮った名残りがある。
 ???
 竹田の頬はふて腐れた色を帯びる。
 唇を真一文字に堅く結び、まるで里子に挑む構えのように見えた。
 義兄は当初から竹田と女の関係を見知っていたのだろう。
 しかし、こう頻繁に寝泊りして来るのはマズイと感じた。
 その内に起きるかも知れない夫婦の悶着を危惧したのだ。
 弟夫婦が別れるとなれば、自分の世間体が悪くなるから心配している。
 竹田の不機嫌そうな顔は、突然部屋に入り来た、兄の注意や叱りを浴びた後をありありと見せていた。
 又、どんな里子の質問も受け付けないと言う、堅い構えも併せ持っていた。
 当時の里子は竹田の抱えた裏事情などを詮索する考えなどは皆無だった。
 仏さんだったんだなぁ・・・
 知らぬが〜(笑)
 

                 


 竹田のスナックは潰れたが彼に新たな身の振り方は見られなかった。
 サラ金の返済は義兄がしたものの、溜め込んだ家賃や酒屋の支払い、他にも色々と返さなければならない金が必要だろうに・・・
 彼は以前のように食堂で働き始めた。
 こんな所に居ても、せん無い事なのに・・・
 今後をどのように考えているのか里子は何も知らされていなかった。
 竹田は相変わらず昼過ぎの休憩時間になると白衣のまま外へ出掛けた。
 この習慣は、食堂を始めた頃からあったから、里子にしてみれば、特に変わった印象は無いのだ。
 彼には表通りに行きつけの喫茶店があった。
 そこでコーヒーを飲みながら、来ている馴染みの客らと談笑したり、将棋などを指して過ごした。
 生活時間帯も以前に戻った。
 又、喫茶店にでも顔を出しているのだろう。
 まぁ、仕事に失敗したバツの悪さはあるかも知れないが・・・
 里子は軽くそう思っていたのだ。
 ところがどっこいだった(笑)
 「あなたー」
 「今から、この女のアパートへ行きましょう!」
 えっ!!
 刺し男の話を終えた兄嫁は突然言うのだ。
 彼女のその意思に里子の方が驚いた。
 え、だって、どこのアパートかも知らないし・・・
 「もうすぐねっ」
 「ウチのダンナがここへ来るわよ」
 ???
 如何して義兄が来るの?
 里子はこの小柄な兄嫁の持つ亭主に対する力に感心してしまう。
 普段は素っ気無い人だと思っていた。
 だが、親身になってくれるような一面を見せられ意外さを感じた。
 とはいっても、兄嫁の意見にすぐさま賛同は出来かね、心はモジモジしていた。
 里子にとって、兄嫁のこの報告だけで充分だというのがあったからだ。
 この薄暗い食堂の中で、竹田と女、女の亭主らを、小一時間ばかりの茶飲みの話の種にする。
 最後は慰めと励みの言葉を掛けられオシマイになる、というのが里子の予想であった。
 兄嫁の方が当事者の里子より問題追求に積極的だ。
 意外な展開だ〜
 そう言われてみれば、竹田の女を見てみたい気持ちがある。
 自分一人なら、ありえない行動だ。
 やがて、義兄がノッソリと裏口から現れる。
 女房に強く指図され、もう断れる段階ではないと諦め、渋々来たという風だ。
 ここまでさらけ出されては、彼の得意な嘘も成り立たず、言い訳なども通じようがない。
 そんな苛立ちを胸中に無理やり封じ込めているため、不機嫌さが大きな膨れた顔一杯に滲み出ている。
 ところが彼はその大きな体を中に入れたものの、女達を細い目で刺し見ると、くるりと向きを変え出て行ってしまった。
 うっかり食堂の椅子に腰を下ろすと、女の話の追求に会うとでも危惧したのだろうか・・・
 「さぁ、はやく」
 「あなた、パパの後を追いましょッ」
 兄嫁の意思はもう次の行動を起こしていた。
 どこか、明るく弾んでいるようにも聞こえた。
 外へ出て自転車を道路に移すと、義兄のバイクは先の角を曲がった後だった。


                  


 「サ、いこ」
 「あなた、はやく」
 里子は兄嫁の先導で自転車を漕ぐ。
 当然だが、角を曲がった先の道にも義兄の姿はなかった。
 それでも、兄嫁はドンドン走った。
 細くくねった道の両側には家が建て込んでいた。
 その道を突っ切ると広い道路に出る。
 竹田の潰したスナックもこの道路に面した肉屋の二階にあった。
 八百屋も魚屋も豆腐屋も顔を見合わせるような店構えである。
 兄嫁が自転車を降りて止まったので里子も降りた。
 そこから、道路の方へ首を突き出せばスナックの入り口が見える。
 まだ取り払われず、ポールに残る店の名を記した看板が過ぎ去った時の流れを寂しく晒している。
 里子はこのスナックにも入ったことが無い。
 子供の世話と食堂の仕事で手が一杯という理由もある。
 いや、それより、竹田が嫌がるのを分かっているからだ。
 美しく化粧をして着飾る女達が不細工な女房を見る目を想像すれば、自分の価値までも下がるように感じる男なのだ。
 「チェッ」
 「いい女もらいやがって」
 すれ違った若い夫婦を振り返りながら、竹田の呟くのを聞いたことがある。
 何言ってんだ。
 こっちだって、アンタみたいな男好きで一緒になってんじゃないよ。
 なんだ、アンタの働きなど女房の加勢で成り立ってんじゃないか。
 稼ぎが良けりゃ、幾らだっていい女が寄ってくるよ。
 蛍光灯の一つも取り替えられない男じゃないか。
 里子は胸の内で反撥したものだ。
 ところで、竹田の心酔した女はどんな女だろう。
 やはり、実際に見てみたい気がする。
 兄嫁はしきりに首を左右し、何かを探している風だった。
 「あっ」
 「あそこだ」
 そして、急に声をあげた。
 里子も彼女の視線の先を見る。
 すると、道路を挟んだ斜向かいのアパートの前に一台のバイクが止まっていた。
 やはり、自分の亭主のバイクは遠くからでも分かるのだ。
 里子は竹田のバイクをこのように見つけられるだろうかと自信がなかった。
 バイクはあるが、義兄の姿は何処にもない。
 自転車を押して道路を渡る。
 義兄のバイクの後方に自転車と止める。
 そこには二棟のアパートがあった。
 ふーん。
 女はこの辺りに住んでいるのか。
 竹田のスナックも近く、働くのに都合が良かっただろう。
 この場所で不気味な鎌首をもたげた起点は、今回の未殺傷事件へと這い出して行ったのだ。
 兄嫁は勢い良くここまで来たものの、どの部屋へ向かうのか戸惑った。
 変な人だなぁ・・・
 義兄は一体何処へ行ったのだろうか?
 
 
                 


 彼の事だから、このまま雲隠れを決め込むのでは?
 女達が諦めて帰るのを待って居るのかも知れない・・・
 里子はそんな事をぼんやり考えながら、通りを見ていた。
 すると義兄が八百屋の前で談笑している。
 まあまあ、余裕のあること、この段に来て・・・
 一体笑いながら、どんな話をしているのだろう・・・
 しかし、彼の関心はこちらにあるらしく、里子の視線とバッタリ会う。
 兄嫁も彼に気付く。
 すると義兄は顔の笑いを残したまま、だが、八百屋には立ち去る挨拶もせず、こちらへ向かって歩き出す。
 ぎぇっー
 いよいよ劇的なシーンの始まりだー
 何か胸の内が、卑しい期待で小躍りを始める。
 頭の中に様々な空想が入り混じり、回りの状況が捉えられなくなってきた。
 気付くと義兄と兄嫁がアパートの前面を張る階段を走り上がっているのだ。
 小さな兄嫁の弾む足元が、古びた鉄の階段に鈍く太い音を残していく。
 義兄は慌てふためいて、しかし止めるのも変だし、ただ彼女の後を追い上がるばかりに見える。
 ドンドン
 ドンドン
 そのドアは激しく叩かれていた。
 里子がよく見てみると、叩いているのは兄嫁だけだ。
 彼女は人の名前を読んでいる。
 板ドアの鳴る音に紛れて聞き取り難いが、多分メモにあった女の名前だろう。
 太った義兄は彼女の後方にどこか引き気味と見える態度だ。
 女房を治めたいがしかし、そのことで変に思われるかも知れないし、とオロオロしている。
 「なによっ!」
 「うるさいわねっ!」
 ドアは今にも開いて、中から女が首を突き出すのではないかと思える状況だった。
 女は義兄を認めた瞬間しまった!と舌打ちするのだ。
 

                  


 彼女は飛んで火に入る夏の虫然である。
 もう、引き下がる事は出来ない。
 寝乱れた髪の下に気の強そうな視線を投げつけるものの、この相手では適いっこないのだ。
 女は兄嫁の正統派的口攻撃を、そのふくれっ面に浴びるばかりである。
 だが、いくら、この女一人を力尽くしに揺さぶってみても、今回の騒動の問題解決とはならない。
 痛め付けられている女を見ている内に、同情心さえ生まれてくる。
 ドンドンドン
 そのドアの音は、まるで、劇場の幕開きを知らせる太鼓のようだ。
 女には気の毒だが、やはり、どんな人か見ていたいという期待が膨らんでいた。
 が、ドアの音はもう鳴らなくなった。
 兄嫁は亭主と会話したが、下で待つ里子の所までは聞こえない。
 義兄が先に、二人は階段を下りてくる。
 なぁーんだ・・・
 出て来なかったじゃないか〜
 この展開になれば、やはり失望している里子である。
 「オェ、もう、やめろよ」
 「居ないんだよ」
 義兄が兄嫁に言ったのは、恐らく、こんなところだ。
 降り来た義兄はバイクに乗るとサッサと何処かへ消えてしまった。
 里子と兄嫁は途中まで一緒に引き返した。
 「冷静にね・・・」
 「ヨシオさんが戻ったら冷静に話し合ってね」
 激しい感情がむき出しになっていたのは、兄嫁の方ではないか?(笑)
 一体全体どうなっているんだ。
 夫婦といっても、竹田の影の部分はよく分からないのだ。
 薄暗い食堂に戻り、時計を見れば子供を保育園に迎えに行く時間が迫っている。
 今日はあんな騒動が持ち上がり、ゆっくり休憩も取れずじまいだ。
 里子は二階へは上がらず、食堂の椅子に体を預けて休んでいた。
 うな垂れて目をつぶるその耳に、微かな音の気配を感じる。
 顔を上げると、裏口からこっそり現れた竹田を見る。
 男は妙にひねくれた目つきで、それをプィッと逸らす。
 どうして、彼はこのタイミングに戻りくるのだろう。
 また、今日は随分早く、コーヒー屋を引き上げて来たものだ。
 妙な感じがする・・・
 と、またまた、義兄の登場です〜
 竹田の後から、この歓迎できない男が入って来た。
 あぁ〜 
 竹田一人なら、色々話も聞き出せただろうに・・・
 


               


 義兄を見た途端、里子の胸の中は消化不良の異物でも抱えたように重苦しくなる。
 電話の刺し男の話からすれば、この日も竹田は食堂の休憩時間を女のアパートで過ごしていたことになる。
 いつものように、女を抱いて寝て居たのだろう。
 と、殺気立って訪れた義兄に起こされたのだ。
 「おえ、お前、女房が来るゾッ」
 「早く、どっかへ、消えてろ!」
 竹田は咄嗟の事で、事情が理解出来ないが、兄の剣幕にただならぬ物を感じる。
 そして、バタバタと外へ出る用意をしたのだ。
 どうせ彼の行き着く先は、例のコーヒーショップだろう。
 「ヨォ」
 「ドアを叩かれても、絶対開けんなよ!」
 「分かってんね?」
 義兄はドスの利いた低い声で女にも言って聞かせる。
 里子と兄嫁は、彼等の策略の、すっかり整った後のアパートへ行った事になる。
 ま、事態がここまで来たなら、アパートぐらい知られても仕方ないだろう。
 義兄はそう、考えたのだ。
 しかし、決定的な事実を晒してはマズイ。
 これが彼の、いつものやり方だ。
 自分の思惑通り、二人の女にアパートまで行かせた。
 女達の疑惑を晴らす意欲も、当初より幾らか薄まったはずだ。
 後は時間の経過を待つうちに、この話もうやむやになって行く。
 彼は自分の策略の成功を実感しながら、竹田の居るコーヒーショップへとバイクを走らせた。
 義兄はコーヒーを飲む習慣がないから、このような店には入ったことが無い。
 彼はその大きな体に似合わず、店のドアをソーッと開ける。
 しかし、デカイ顔に埋まった細い目だけはどんな相手にも怯まないという力がある。
 竹田の座る前に陣取る。
 「おー景気はどうだぁ?」
 同時に店主に一言投げかける。
 後は店主の応答など耳には無いのだ。
 短い脚を組み、威張った風に太い腕を椅子の背もたれに大きく預ける。
 そして、店内の客の顔をユルユルと見遣り、やおら、姿勢を正面に戻すのだ。
 彼は竹田の方に前かがみになりながら、顔を近づける。
 
                 



 「オエ、危なかったよなぁ」
 兄の低い声は竹田の耳に届いているが返事がない。
 竹田は冷めてしまったコーヒーを一口飲むと、再びテーブルに視線を落とす。
 「はい、お待ちぃー」
 鼻の下に口髭を蓄えた色黒の店主が義兄にコーヒーを運び来る。
 彼は顔を上げようともしない竹田に、いつもと違う雰囲気を感じる。
 勿論この太った男が竹田の兄である事は知っている。
 「オ、ありがと」
 義兄の口調と目つきには、店主に対して早く立ち去れと言う意思が籠もっている。
 その後、彼はつい今しがた起きた危機の状況を話して聞かせる。
 恐らく、決定的な証拠は掴まれなかったから、安心しろという意味のことを最後に付け加えたと思われる。
 二人がこの後、食堂に現れた理由が里子には不可解だった。
 これまで、どんな不都合を起こしても、決して里子には経緯の説明、弁解、これからの自分の心構えなどを話してこなかった。
 竹田も義兄にしても、事実を放置して時間を稼ぎ、里子の胸に生じた疑問や、怒りなどがうやむやになるのを待った。
 実際、里子も、当初にはあった激しい感情が日々薄らいで行くのを経験している。
 どうせ、今回も、この手で来るんだろうと思っていたのだ。
 しかし、思いがけず、裏口から姿を現した竹田を見た時は、刺し男の現れる経緯を聞けるのかと期待してしまった。
 だが、考えてみれば、竹田の様相は、これから里子に謝りや、説明をして、今の暮らしの維持に努めるというような意気込みが全く無かった。
 里子と会った目をすぐに逸らすヒネタ顔は、無理やり背中を押されて来たことをアリアリと見せていた。
 案の定、義兄がその背後から現れたのだ。
 二人の男はカウンターのスツールに尻を下ろした。
 里子は彼等の背後のテーブルを前に座っていた。
 さあ〜
 これから、ナニが始まるんだろう???
 里子は二人がまだ休憩中の食堂に戻って来た意思に期待したのだ。
 竹田に女が居る事実もはっきり知ってしまった事だし・・・
 彼の話を待つ里子の胸はワクワクしてくる。
 彼がもし、里子と別れて女と暮らしたいというような希望を告げてもいいように気持ちを構えた。
 ひょっとして、そのために義兄が付いて来てるのかも知れない・・・
 ところが、竹田はまるで誰かの最初の発言を待つかのように、じっと押し黙ったままだ。
 それを、隣から義兄が見守っている。
 三人の頭の中ではそれぞれに、嫉妬や弁解、追求、虚偽の構想などが絡みあい熱を帯びている。
 それなのに、表向きは奇妙な沈黙が支配していた。
 わざわざ来たと思える男等だが、一体どうするつもりがあったのか・・・
 黙ってばかりいないで、はっきりと今の意思表示をしてもらいたいものだ。
 このまま態度を明らかにしないでやり過ごそうとしているのか・・・
 だったら、何も、ここへ来る必要が無いではないか?
 あぁ〜
 自分の気持ちをはっきりと示してくれェ〜
 竹田が今後、あの女と暮らして行きたいのなら、ソレはそれで仕方の無い事だ。
 思いはあちらに残したまま、子供のいる里子とも切れずにいたい。
 そんな自分勝手な男と今後を平穏に過ごせるわけも無いし・・・
 この男は自分の不利を悟ると、だんまりに逃げ込むズルイところがある。
 義兄も義兄だ。
 弟が話さないなら、自分が何か言ってもよさそうなのに。
 「悪かった」
 言い訳や嘘の構築の言葉探しに走らず、この潔い一言でお互いの胸の内がスッキリ治まる手もあるのだ。
 ソレさえも、口に出来ない。
 里子は次第に腹立たしくなって来る。

 
               


 そして、保育園へ子を迎えに出る時間になる。
 変な兄弟だ、全く・・・
 とうとう二人は一言も口を利かなかった。
 彼等はこの時間が来て、内心安堵したのではないだろうか?
 里子は二人を置き去りに裏口を出て自転車に乗る。
 走っていると無性に腹が立って来た。
 ヤレヤレ〜
 ながかったなぁ〜
 んん?
 義兄はユルユルとスツールを回転させながら笑みを浮かべ、大欠伸をすると、ようやく口を開けるのだ。
 刺し男の電話の件は、何処かの奥さんの正体を明らかにした。
 しかし、それだけで、里子らの暮らしの上には、どんな変化も起きなかった。
 竹田は相変わらず、夕方になると女名義のスナックへ出向いていた。
 一杯貰えると言った給料は、もう、里子にとって関心の無いものになっていた。
 実際竹田が、その給料を手にしているかどうかも怪しかった。
 同じ界隈に居て、一度スナックを失敗した男とその女の営む店など客の出入りの数は知れている。
 

               


 その朝、里子はいつものように階下の調理場で、キャベツを刻んでいた。
 道路に面したガラス窓に朝日が当たり始めた。
 それは、向かいの家の屋根端の影を貼り付け、曇りガラスを橙色にした。
 カウンターの黒い色が鮮やかに浮かび上がる。
 箸立てや、ソースや醤油の容器にも映える。
 里子はせっせとキャベツを刻み、大きなステンレスのボールに満たしていく。
 ガス台の端で、炊飯器の吐く蒸気が朝日に光る。
 今朝の味噌汁の実はジャガイモにした。
 店の裏から大根の糠漬けも出した。
 この一個のキャベツを刻んでしまえば開店準備がオッケーだ。
 ところがその作業中、不意に真っ黒な憤怒が里子の胸を一気に占め来た。
 手にした包丁を俎板に投げつけた。
 刻んだキャベツが跳ね上がる。
 弾んだ包丁が側の流しへ音たてて落ち、ひっくり返えるのをチラッと見た。
 里子は調理場のスノコを抜け、階段を走り上がっていた。
 「出て行けっ!」
 「オマエなんか、出て行けっ!」
 里子は勢いのまま、竹田の寝ている布団を何度も足蹴した。
 うんん???
 なんだぁ???
 深い眠りの中に沈んで居た竹田は、横臥した体をユルリと振り向けた。
 瞼はむくみ、顔全体に脂が浮き出ている。
 里子は激しい感情に扇動されハアハアと喘いだ。
 しかし、怯んだりして、相手に間を与えてはいけないという、脅迫観念があった。
 「アンタなんかー」
 「もう、いらないんだょー」
 「ここ、出て行けっ!」
 「今すぐ!」
 「ハヤクッ」
 その辺で散らかっていた子供の硬い絵本を手当たり次第に掴むと竹田の布団へ投げつけた。
 今にも竹田の反撃に会うといった、恐怖感があった。
 二人で食堂に働いていた頃は里子が呟く文句に気付いただけでも、飛んで来て足蹴にしたり顔面に拳をぶつけた。
 店に客が居たりすると、まるで自分の力を誇示するように、里子を蹴って得意顔になった。
 暴力で受ける痛みは、同じ値の、憎しみを生むのを知らないようだった。
 ところが、スナックを始めるとソレが無くなり、里子もホッと出来たのだ。
 出会った時のような、気弱な男に戻った気がした。
 だからと言って、安心はしておれない。
 竹田は今にも以前の暴力男になるかも知れないのだ。
 里子は攻撃を休まず、今度は足の辺りの布団を繰り返して踏みつけた。
 「やめろよ・・・」
 竹田は上半身をユルリと起こした。

 
     

                


 里子は、反射的に身を硬くしたが、構える構える必要の無いのを悟る。
 竹田は上半身をおこしたものの、その姿勢のままに居た。
 「出て行きなよ」
 「すぐっ」
 「女二人相手に、色男ぶって」
 「バカじゃん」
 竹田は黙ったまま、掛け布団を剥いだ。
 パジャマを着る習慣の無い彼はメリヤスのシャツとブリーフの体を起こした。
 彼は時間稼ぎのように、ゆっくりと洋服を着る。
 「はやく」
 里子はけしかける。
 竹田はズボンのベルトを締めている。
 その、穏やかな表情は、夫婦喧嘩の外に居る者のようである。
 おまえ、急にどうしたんだよ・・・
 オレが悪かったから、そう言うなよ・・・
 里子があらかじめ予想していたような言葉は竹田の口から出なかった。
 箪笥の引き出しから、彼の下着や靴下を出すと、畳に置く。
 竹田は押入れの奥から埃をかぶる黒いスーツケースを引っ張り出す。
 そこへ、手当たり次第に当座の洋服を詰めている。
 彼はこれから、何処へ行くつもりでいるのだろう・・・
 女のアパートにも行けない筈だ。
 刺し男の一件で、今後、そのアパートには行かないと言う条件を付けられている。
 遠く離れた所に住む男だから、常に監視するわけにはいかないが。
 まぁこの段に来れば、幾ら竹田でも女の部屋に住めはしないと思うが・・・
 そうそう、彼は以前、外泊の場所をスナックだと言い逃れていた。
 店のソファーを寄せ集め、客の忘れたコートを被ったなどと、もっともらしい事柄も付け加えていたではないか。
 竹田の手荷物はスーツケースの他に紙の袋が二つ出来た。
 階下へ下り行く彼のすぐ後を、里子も下りる。
 「オレ・・・」
 「昼、手伝いに来るからな・・・」
 下へ下りた竹田は靴を履きながら言う。
 「イーイー」
 「そんな事、せんでも」
 竹田は家族との繋がりの切れを危惧しているだけだ。
 里子は即座に彼の申し入れを断った。
 しかし、自分らはここに居て、何年掛かるか分からない竹田の借金完済を待っている。
 アンタが勝手に拵えたんだから、自分一人で返して欲しい。
 キレイな女達にマスター、マスターと煽てられ楽しい時間を過ごしたんだし。
 竹田がこれから何処へ行くのか里子は聞かなかったし、彼も当然話さない。
 里子は彼のバイクが発進した後はもう店の中に入って居た。
 昼時分は手伝いに来ると自ら言っておきながら、竹田は一度も現れなかった。
 彼は、あの日食堂を追い出されて以来、全く姿を見せていない。
 子供に会いたがったり店の様子も気にするかと思ったが、足跡はプッツリ途絶えたままだった。
 その彼が不意に、開けたままの裏口に姿を見せた。
 昼の忙しい時間帯も過ぎ、里子は洗物を片付けていた。
 人の気配を感じ、振り向いた先に竹田を見てギョッとなった。
 

                  


 手の動きが止まった。
 彼を見た途端、里子は胸に、えもいえぬ懐かしい感情がこみ上がるのを覚えた。
 そして、自然に微笑んでいる自分に気付くのだった。
 しかし、竹田は入り口の低い敷居を跨ぐ事が出来ないで居た。
 留まった体を戸口の柱に副えた腕で支えている。
 その姿勢で、店の奥を見るように首を傾げた。
 彼の不安そうな目が、里子の胸を痛めた。
 ー何してんだよー
 ーアンタの店じゃないかー
 里子は笑みを浮かべただけで、言葉にはしなかった。
 調理場を出ると表戸を閉めた。
 札も準備中にかえる。
 竹田の安堵する目に、里子は再び胸の痛く悲しい思いが生まれるのを知る。
 竹田は始終無言だった。
 そして階段に腰を下ろした。
 「どうしたんだよ?」
 彼は大きく脚を開いた膝の上に両肘を預けると、組んだ腕の中に顔を伏せた。
 フーー
 漏らした深い吐息が彼の苦悩を語る。
 会社なんかに勤めても、大した金などもらえない。
 そう言い放っていたのに、今は何処かの会社に働いている風だった。
 肉体労動をしているのか、底のぶ厚いスポーツシューズを履いている。
 彼は多分、昼も夜も仕事をしているのだろう。
 客足の少ないスナックで、竹田は借金を返すどころか、必要経費さえも捻出できないのではないだろうか。
 今頃言っても仕方が無いが、最初から食堂の二階に居て、何処かの会社に本腰を入れて働けばよかった・・・
 あの義兄は、今現在の弟の事情をちゃんと把握しているだろうか?
 それにしても、竹田はどうして食堂に姿を見せたのか?
 里子に言いたい話でもあったのだろうか?
 けれども竹田はどんな話もせず、立ち去った。
 次に里子が竹田を見るのは、彼が病に陥ってからになる。


                 


 その日の午後、食堂へ電話があった。
 近所の個人病院からだった。
 竹田は血液検査を依頼したらしかった。
 女の事務員の人から結果の報告である。
 ウチのセンセイの紹介書を出すから、国立病院へ行くようにという内容の話だった。
 当人が訪院する前にこのような電話をしてくると言うのは、検査結果が悪かったとしか思えない。
 竹田はとうとう、体を壊したのだ。
 どんな按配なのだろう?
 もしかして、今も昼の仕事に出ているのかも知れない・・
 「もしもし・・・」
 「あのさぁ〜」
 病院の知らせの二日ぐらい後の夜だった。
 竹田から電話があった。
 「保険証・・・」
 「持って来てくれる?」
 彼は意外にも元気そうな声をしていた。
 その理由を里子に聞いて欲しいと言うような暗い間を置いたのに気がつく。
 「あしたー」
 「あしたねぇー」
 「保育園に行く前に、寄るよ・・・」
 里子は竹田の胸の内を気付かぬ振りをした。
 「あぁ、そう・・・」
 竹田の声は少し落胆しているようだった。
 彼は、里子が驚いて走り来るとでも思っていたのだろうか・・・
 スナックからの電話だろうが、客の居る気配は全く無い。
 彼の横顔を見遣る、女の陰気な目が浮かび来る。
 翌朝、夜勤明けの客に朝定食を出し終えてから、いつものように保育園へと向かう。
 今日は少しだけ後戻りをする道を行かねばならない。
 エプロンのポケットに保険証を入れた。
 次男の小さな尻をハンドルに据えた椅子の中へ納める。
 呼び寄せた長男を右腕一本で抱き上げ後ろの荷台に乗せる。
 さぁー
 行くヨォー
 自分の肉の中で拵えた可愛い二つの生き物。
 彼等は自転車がいつもとは違う道を行っても何も言わない。
 里子がスナックの前に着くと、竹田が表の外階段から下りてくるところだった。
 きっと、店の中に居て外を窺がっていたのだろう。
 里子はわざと、階段から離れて自転車を止めた。
 ポケットの保険証を手探りし、竹田の方へ小走りした。
 今にも自転車が倒れて子供がコンクリートの上に投げ出されるような心配があった。
 保険証を差し出しながら竹田を仰ぎ見た。
 竹田は悠然と下りて来る。
 あの色白だった竹田の顔は茶黒に変色していた。
 目の白い部分も不健康な黄色系に濁っている。
 


                


 竹田は自分の足元を少しも見なかった。
 階段を踏み下りながら、しかし顔だけを里子の方に向けていた。
 ねぇ・・・
 このオレ、よーく見てくれ
 こんな体になってしまったよ
 彼の表情はそのように伝えていた。
 こうなる原因は彼自身が作っているんだし・・・
 竹田は久しぶりに見る息子には、どんな関心も示さない。
 「もう、こんなもん、要らないっ!」
 里子の憎々しげに見遣る赤子の横に居て、竹田は水色のベビー服を着た小さな息子を自分の布団に抱き入れた。
 その顔が泣き止んで、穏やかに眠ったあの日・・・
 赤子は自分を包み込む父の懐の温みに安心したのだろうか・・・
 その子が六歳になっている。
 兄ともなった子は、懸命に身をよじり父の方を振り向こうとする。
 その唇の奥に、どんな言葉になる感情が秘められていたか・・・
 里子は竹田の思惑を逸らし、息子の胸にも心を閉ざしたまま保育園に向かって自転車を漕いだ。
 国立の病院へ入院をするのかと思っていたが、どうも、そんな様子は漏れ来ない。
 入院をするまでも、無いのかも知れない。
 病人になってしまった竹田は、スナックの奥の物置で寝ていると言う話を聞いていた。
 ビールケースを逆さにして並べ、その上に布団を敷いているらしかった。
 まだ客の来ない早い時間帯にはパジャマ姿のままで、カウンターに出て来る。
 女がカウンターの狭い調理場で蜆の味噌汁を作る。
 竹田の弱った肝臓に少しでも力を付けたいと思うのだ。
 「ホラ、がんばって」
 元気な竹田は本当においしそうに何でも食べていた。
 今は病んだ目で、手にした汁椀の中をじっと見つめているばかりだ。 
 義兄もマグロの刺身を持って来る。
 竹田はマグロやレバー刺しがことのほか好きだった。
 新鮮な牛のレバーが手に入るとニンニク醤油で食べていた。
 彼の厚みのある舌がヌッと出て、箸から垂れるように引っ掛かった赤黒いレバーをツルリと絡め取ったのだ。
 それなのに、蜆汁の一口にも戸惑っている。
 食事が済んだところで奥の物置に引き下がらなければならない。
 酒場の妖しげな照明の中を、痩せた竹田の背中が去る。
 寝癖の付いてしまった後ろ髪が立ち上がり、よれたパジャマはブカブカだ。
 カウンターに居て、竹田の様子をじっと見ているお爺さんの客が一人。
 ひっそりした店内には、女が水音をたてながら鍋を洗う音ばかりだ。
 このお爺さんが、里子の食堂にも来てくれる馴染みの客だった。
 彼は食堂に現れると、必ず調理場と対面するカウンターに陣取る。
 まだ、会社に勤めていて、その仕事帰りに寄る。
 カーキー色の作業着のまま、痩躯を飄然と現す。
 先ずはビールを飲む。
 里子が調理の用をしている間、週刊新潮を読んでいる。
 里子の手がすくと顔を上げる。
 その、ニコニコした表情は、何か話を始める前である。
 彼はやおら、ビールの瓶を掴みグラスに傾ける。
 瓶をトンと置いたところから、話が始まる。
 彼に、里子の嫉妬心を煽ろうとするような邪心は無いと思っている。
 どう見ても、性根の悪い人には見えない。
 竹田が入院をしなかった事を知るのはこの人の話からだった。
 また、来た事もない中華食堂の女主までが昼飯を食いに現れた。
 顔立ちが日本的な彼女は、飯を色気無く咀嚼しながら自分の見たことを話す。
 彼女も中華食堂の他に小さな飲み屋を営んでいた。
 その店は竹田のスナックと同じ通りにあった。
 女主は仕事を終えた竹田の帰りの時間になれば、胸を踊らせて通りに目をやるのだ。
 彼女の店のドアは橙色をしたプラスチック製だ。
 その上半透明だから、店内に居ても外の様子が分かった。
 バイクに乗った竹田は自分の家とは反対の方向に走るという。
 ね、ねー
 今晩も、あっち、行ったよー
 ウッフフフ・・・
 彼女は振り返り、一人静かに飲む馴染みの客へ喜々として報告する。
 その台詞は、里子の耳へ実際に届いたような錯覚さえ起こすのだ。
 「オレ思うんだけどねぇ・・・」
 「マスター、また、なんで、あんな女と居るのかねぇ・・・」
 「変な、女なんだよー」
 これまで竹田の友達として飯を食いに来ていた男の客がビールのコップを手に一人呟く。
 ふ〜ん
 変な女なんだ・・・
 里子は皿を洗いながら聞いている。
 一体、どんな風に変なのだろう・・・
 竹田の好みである、かわい子ちゃんタイプではなかったんだ・・・
 「聞いたわよ!」
 「あんたサァ〜」
 「ダンナ、女んとこ、行ってんだって?」
 「どうしてんのよ?」
 「店、大変でショ?」
 人柄は決して悪くはない裏の家の奥さん。
 しかし、話はいつも単刀直入で、今回は特に輝いた目をなさる。
 これらの人々は皆共通して何だか嬉しそうな様子である。
 ごく平凡に暮らしておられる方々は、大した波乱も無く退屈のご様子だ。
 里子夫婦は彼等に受けの良いワイドショーを日々更新しながら提供していたんですねぇ。
 その後においても、竹田が入院をしたという話は聞こえて来なかった。
 まぁ、入院をするまでもなかったのだろうか。
 相変わらず、スナックの奥の物置で寝起きしている様子である。
 当初からすれば大分日にちも経っていたし、かなり回復して来ている筈だ。
 どんな風の吹き回しか、里子はある日そんな竹田を見舞う気になった。
 それまでスナックへは一度も顔を出した事がない。
 彼には実の兄が付いているし、親身に世話する女の存在も疎遠となる要因になっていた。


            


 まぁ、この病気見舞いと言うついでに、今度の店でも覗いてみたい気がする。
 最初の店のように、化粧して着飾る女達に囲まれた、元気な竹田の所なら行く気は起きないだろうが・・・
 食堂も定休日だし、子供等を保育園に預けて戻ったところだ。
 仕事休みのせいか、気分がゆったりと和んでいる。
 そうだなぁ・・・
 竹田に寿司でもご馳走するかなぁ・・・
 彼と二人並んでソファーに腰を下ろす。
 低すぎるガラスのテーブルの上には、里子が奮発した特上の寿司桶がデンと置かれている。
 「うん、うん」
 「うん、あっそぉー」
 「こどもー」
 「元気でしょ?」
 これまでの経験からして、竹田から里子の望むような会話は得られないだろう。
 だが、色々と想像していると、竹田の声が聞こえ、穏やかな目の、寿司を食む膨れた頬の動きまでが浮かび来る。
 里子は弾む気持ちで、まだ途中のままの洗濯物を店裏の物干しに並べて干す。
 シーツの皺も元気よく音発てて伸ばす。
 気持ちが次第に急いて来る。
 里子はつり銭箱から紙幣を取り出し手提げに入れる。
 入院をする必要が無かったのだから、大した病気ではないのかも知れない。
 竹田が元気になりさえすれば、自分たちの暮らしも穏やかな日を迎える事が出来る。
 色々と羽目を外してしまったが、今後は良い父良い夫になってくれるだろう・・・
 さあ、今日は何だか良い日になりそうだ。
 これまで里子は、なるべく竹田の方を見まいとして来た。
 この自分の頑なだった気持ちが解きほぐされていたのだ。
 すると、それは意外にも心地が良くなる現象を生むのものだと言うのが分かった。
 自転車のペダルを踏む足も軽快になる。
 思わすリリリンとベルでも鳴らしたい気分だ。
 イヤイヤ、それは止めよう。
 好奇な関心を潜める人々の目を覚ましてもツマラナイ・・・
 思い直すと家並みを走り過ぎ、バス通りへと角を曲がる。
 
 
              


 町工場の前の駐車場に入る。
 さあ、いよいよご対面だなぁ・・・
 気持ちの中が喜びでワクワクしている。
 居るかナァ・・・
 病気なんだし何処へ行くという事も無いだろう・・・
 工場の上にあるスナックを見上げながら自転車のスタンドを立てる。
 スナックは道路に面して洒落た小窓を三個並べている。
 その窓は白いレースのカーテンで塞がれている。
 それは返って品の悪さを押し付けてくるが・・・
 里子の来訪に竹田の喜びを含む驚いた顔がアリアリと浮かび来る。
 里子の胸もウキウキと弾んでいる。
 トントン
 脚の運びも軽く緩やかな螺旋の外階段を上がる。
 踊り場へ来てドアの前に立った。
 ドアは木製の格子戸だ。
 里子の大きな顔ほどの透明なガラスが嵌っている。
 ちょっと覗くか・・・
 ノックをする前、格子に両手をかざしながら顔を付けて中を見る。
 すると、視線のすぐ先に左奥へと伸びるカウンターの端っこが来ている。
 フンフンこんな感じなのね・・・
 ピンクの電話がある。
 丁度その真下が、カウンター内へ入る潜り戸だ。
 そうだなぁ・・・
 この店を始めるにしても、竹田はどんな覚悟も気構えも持たなかったんだろうナァ。
 そうこうしている内に、病魔に取り付かれてしまった。
 まだ、元気だった竹田が、酒を出したり、つまみを拵えるため、何度も潜った小さな出入り口だ。
 今は女一人が出入りするだけとなった。
 水色のポリバケツが覗いている。
 閉めた蓋の端から剥ぎ取られたラップが皺びたままに垂れていた。
 視線を上に移す。
 カウンターの背後の棚は意外に大きく、酒瓶の数々が並んでいる。
 グラスの数も大した物だ。
 まぁ、以前の経営者がそのまま残して行ったものだろう・・・
 さぁそろそろ、入れてもらいましょうか・・・
 ドアの取っ手を回してみる。
 当然ながら鍵が掛かっている。
 里子の手の中でほんの少し動いただけだ。
 その場所からは正面のカウンターしか見えないが、店の中は静まりかえっている。
 里子の耳に届くのは背後の道路を走り行く車の音ぐらいだ。
 格子戸の桟を叩いた。
 木枠の震えは、桟に嵌ったガラスをそれぞれに細かく鳴らした。
 居ないのかなぁ・・・
 それとも、今日は通院日だったのだろうか・・・
 もしかして、店の奥に寝ている竹田にはこんな音では聞こえないのかも知れない。
 今度は少し力を入れて叩いた。
 嵌りの緩いガラスがずれながら、賑やかに鳴る。
 何だか、このまま立ち去る気になれずに居た。
 せっかく人が、会う気になったというのに・・・
 今回を逃せば、もう、そんな気は起きないだろうと思うのだ。
 どうしょう・・・
 帰ろうかナァ・・・
 里子はまだ定まらぬ気持ちでユルリと後ろを振り返る。
 バス道路を挟んで向こうに電気会社の広い資材置き場がよく見えた。
 道沿いに小高い土手を這わせ、そこへ寄せて、数え切れないコンクリートの電柱が横たえられている。
 敷地の端向こうに作業小屋がある。
 その外階段を一人の男が下り来るところだ。
 作業着の顔は遠く判然としない。
 彼は今日もこの大きな会社へ働きに来ている。
 明日も、明後日も、いや、何十年の先までも、彼はここに来て働ける者としての約束を得ている。
 彼の安定した暮らしは、音の無い静かな光景の中にも窺がえた。
 と、全く人気の無かった店内から、その床をひどく慌てて乱れ踏む音を聞く。
 ん?
 居るの?
 里子は急いでドアガラスに額をくっ付ける。
 慣れてきた目を凝らせば、カウンターの棚のガラス戸に動く人影が認められた。
 道路側の窓から射す光線が人を映し出した。
 なーんだ・・・
 居るんじゃん・・・
 里子は待った。
 しかし、人がドアの方へ歩み来る気配が無い。
 ん?
 何やってんの?
 里子はもう一度ガラスに額を寄せる。
 そして、コップ類の並ぶガラス戸の上に瞼を歪めた視線を注いだ。


              


 動く影が二人分ある。
 ???
 影はそれぞれに走り動き、時にはガラス戸の上から食み出てしまう。
 しかし、すぐバタバタと現れてはその場に屈んで見えなくなる。
 なぁ〜だ・・・
 そうだったのか・・・
 里子の胸に意地の悪い感情がムラムラと湧き立ち上がる。
 それぇー
 慌てろー
 ほぅら、ほらー
 もっと急げー
 里子はまるで、狭い箱に閉じ込めた小動物でも苛めるような興奮に揺さぶられる。
 感情のままに、激しくドアを叩き続けた。
 「アンタ、アンタ!」
 「大変だよっ!」
 「ハヤク起きてっ!」
 「早くっ」
 もう〜
 こんな時間に誰だよー
 ウルサイナァー
 ドアの鳴る音に気付いたのは女だった。
 どうせ、客の誰かが忘れ物でも取りに来たのだろう。
 しかし、寝ぼけ眼の女は明るいドアの外に里子を認めて仰天した。
 「アンタ、たいへんだよぉ」
 「奥さんがそこに来てるんだよっ!」
 走り戻った女は布団の上から竹田の体を激しくゆさぶる。
 アイツは最初のスナックにだって一度も来た事が無い。
 この店にだって、来ていない。
 アレは、決してオレの居るスナックには来ないのだ。
 竹田の思い込みはもう、確信に変わり、安心しきって日々を過ごしていた。
 だから、モシ里子が来たらという仮定の場面などを考えておく必要が無かった。
 突然窮地に追い込まれれば、思考停止状態になる。
 床を音立てて踏み付けながら体ばかりが右往左往だ。
 クルクルと動く影はその荒い息遣いまでも届き来るようだった。
 と、一つの影がガラス戸の上を奥に去り行くのが見えた。
 ???
 さっきまでの慌ただしい物音は無くなっている。
 いやに、ひっそりしてしまった。
 ???
 どうなったの?
 が、今度はドア向こうに黙した姿を見せ、じっと立っている竹田に気付いてギョッとする。

 

             


 彼は背の高い植木鉢の葉陰に身を半分隠して居たのだ。
 紺系統の太いチェックのパジャマを着ていた。
 ふーーん・・・
 パジャマを着ているんだ。
 竹田は下着で寝る習慣だったので、家ではパジャマを着たことが無い。
 だから、彼のパジャマ姿は初めて見た。
 まぁ、ここはカウンターまで来て食事をしなければならないから、メリヤスの下着で居る訳にもいかないだろう・・・
 里子は女が竹田のパジャマを店で選ぶ表情を想像した。
 きっと彼女は妻のような目をし、その胸の内も同じようなものであったろうに・・・
 そうだった・・・
 彼と会うのは、頼まれて保険証を手渡しに来た日以来である。
 ホラこんなオレをよく見てくれ・・・
 彼は黄疸の症状の出た目をじっと里子に向けていた。
 あの日は、里子の助けを求めていた・・・
 だが、病も落ち着き、快方に向かっていると思える今日の竹田は違った。
 まるで、里子に近づかれるのを恐れている風に見える。
 ドアを隔てて留まったきりだ。
 「開けてよっ!」
 里子は取っ手を掴んで上下したが、金属音が短く鳴るばかりだ。
 ドンドン
 ドンドン
 腹いせに取っ手を叩いた。
 格子に嵌ったそれぞれのガラスが煽りを食らい、乱れたままにうるさく震えた。
 ところが竹田は少しも動じない。
 むしろ、里子の方が自分の発てる音で人の好奇を誘うのではと、落ち着かなくなる。
 竹田は同じ所に居て、悠然と腕組みをしたままこちらを窺がっていた。
 この男にドアを開ける気などは無いと見える。
 里子が諦めて引き返すのを待つ態勢だ。
 これが竹田の従来からの対処方である。
 里子は今更のように、男の胸の内を知り、歯軋りするほどの悔しい思いに襲われた。
 またこの一件も、ウヤムヤのままにお終いとなるのか。
 すぐそこまで来ている話の結末を、一方的に掬い取られ、ポイと破棄されたような、ひどく腹立たしい思いだ。
 いつも、キナ臭い臭いを嗅がせ、原因は覆い隠し決して露にしない。
 その上で、何も無かったかのように普段通りの暮らしを続けるのだ。
 チクショウッ!
 また、ヤラレタ!
 里子はこの踊り場に寝転び、子供のように駄々をこね大声で泣き叫びたくなる。


          


 竹田は安全な店内に居て、じっと時間の過ぎ行くのを待っている。
 女も居た筈だが、どうしているのか・・・
 竹田は閉まったドアで里子を阻止し、女を守ろうとしているのか・・・
 里子は生かされず、さりとて殺されずというところだ。
 砂利のようになった猜疑と怒りが、ガラガラと混ざり合い心の壁を容赦なく削る。
 悔しいけど、どうにもならない・・・
 が、その時視界の端でチラッとした動きに気付かされた。
 目を向けると、工場の側壁から人が現れたところだった。
 運び来た足を、顔を見上げたと同時にハッとして止めた風である。
 これだけ長く待ったんだし、もう、相手は帰っただろう。
 そのように判断した勢いが感じられた。
 ふーーん
 この、女なんだ・・・
 里子はニヤリと笑った。
 胸を膨らす竹田への怒りが意地の悪さのエネルギーになっている。
 同時に安全域に身を置く竹田への強力な一撃ともなる、快感があった。
 瞬時には驚いたものの、女の表情は変化してふて腐れた。
 カワイコチャン好みの竹田にしては、その基準から随分ずれている。
 まあ、彼の甲斐性では最後に残るのは里子か、この手の女が妥当といえよう。
 女は里子に高い所から見下ろされながら、決して怯まなかった。
 ダンナが病気してるって言うのに、今頃何しに来てるんだよー
 それに言っとくけどね、この店はネェ、金出してんのは私なんだよー
 里子に向ける女の細い目が彼女の意思を送りつける。
 背の低い女は派手なピンクのタイトスカートを穿いていた。
 寝起きの顔には眉が無く、血の気も艶もない肌である。
 キッと結んだ口元は彼女の強い気を表していた。
 女の方に気を取られていた里子は手首を掴まれギョッとなる。
 竹田がドアを開けた事など全く気付かなかった。
 ヌメッとした温みのある手の感触にゾッとした。
 まるで、剥ぎ取ったばかりの獣の皮を肩から被されたような不快な重量感と湿り気があった。
 他所の女と夫婦然と過ごす男に、自分の夫と言う清廉な親しみなど持ち得ないのだ。
 それにしても、女々しい男である。
 竹田は里子を懸命に店の中へ引き込もうとする。
 そのくせ、自分は決してドアの外へは出ようとしない。
 早く、入ってくれ・・・
 里子を引き込む竹田の腕が叫んでいる。
 この男は、里子が今にも階段を走り下り、女に殴りかかるのではと懸念している。
 バカめが!
 誰が、あんな女に飛び掛るかー
 アンタの脳細胞には、そんな単純な図式しか無いのかー
 色男の気分で、二人の女の争うのを見るのは耐えられませんか?
 安心しなー
 ワタシはそんなシンドイ事しませんよぉーだ
 第一、あの女を攻撃する必然性など全く感じませんよぉー
 アンタが作り出した悶着でしょう?
 ワタシを巻き込んで振り回すのはもう、止めてくれー
 触るな!
 気安い!
 体をドア向こうに腕だけを泳がす竹田の仕種は、檻の中の動物然としている。
 里子は乱暴に竹田の手を払う。
 その後自ら店に入る。
 女がその場を動かなかったし、これ以上向き合う間を持て余したのだ。
 

              


 今もこれからも、ワタシはアンタにどんな話もする必然性は無いんだし・・・
 ワタシが店に入った間に、自分のアパートに引き下がればいいのだ。
 ドアを入るとすぐの左手にあったのは、観音竹の鉢植えだった。
 その葉の茂る向こうには、意外にもゆったりと広い店の奥行きがあった。
 と、里子の視線は捕らえてしまった。
 今更晴天の霹靂でもないが、しかし、思いがけない驚きに出会ってしまった。
 店の中ほどにソファーが寄せ集められていた。
 その平らになった座席の上で、一組の布団が伸びている。
 使い古された賭け布団は綿の量が少なく、下品な赤色の多い生地も何処と無く薄汚れた感じに皺びていた。
 里子が竹田の借金の返済を待ちながら暮らしの維持に勤めている時でも、彼は女の温みに安堵しながらこの布団に潜っていた。
 今後一切女のアパートへは行かない事。
 これでも、あの刺し男との約束を守っているつもりなのか。
 彼の男もこんな選択肢があろうとは、夢にも考えられなかっただろう、気の毒に・・・
 交接後の布団を乱したままに寝入り、突然降りかかる驚愕に叩き起こされた今日の二人。
 捩じれた布団をならしに走る、慌てふためく影を残してしまった。
 汚い布団をただしてみたところで、彼等の抱き合って居た事実の消える事など無いのに。
 常々、店奥の物置に寝ていると言い続けていたのだから、それこそ、急いで布団を運び去れば、嘘つき男の体面も保たれたと言うのにねぇ(笑)
 営業中は物置に居るしかないが、女が店を終えてからはこの場に移動するのが慣習となっていた。
 昨日まではそれで、何の問題も無かったのに・・・
 すっかり安心しきって居たのだろうナァ・・・
 竹田にはこれまで幾度もきなクサイい臭いを嗅がされて来た。
 だが決してその原因を話さなかった男だ。
 そんな彼も、この有り様を晒してしまえば、得意な言い逃れも出来ないだろう。
 里子は布団を見ながら自虐的な笑みを浮かべた。
 全幅の信頼や情を寄せる相手に裏切られたと言うのではない。
 これが、せめてもの救いである。
 「さあ、さあ」
 「アンタ、そこに座ってよ」
 里子は空いていたソファに竹田を促がす。
 背後で困惑していた竹田を強気になった冷たい目で促がす。
 

            


 竹田は、ついさっきと変わって不安そうな顔になる。
 これまでは夫婦間のどんな危機に出くわしても、何となく自分の思惑通りに事態は運んだ。
 今回もそうなる筈だった。
 御しやすいヤツだ。
 竹田は里子をそう考えて居たかも知れない。
 「早くっ!」
 「すわんなよ、ここ」
 里子は顎でソファーを指す。
 何、すんだよ〜
 やめろよ〜
 渋々腰を下ろした竹田の見上げる目が訴えている。
 里子はそんな男の胸のを知りながら、冷たく無視することに快感さえ覚える。
 そして、手にしていた手提げの口を開けた。
 「ハイ、これ」
 「アンタ書いてよ、ココントコ」
 寿司の代金を取り出す筈だったのに、折り畳んだ離婚届けを掴むとガラステーブルの上に広げた。
 里子の記入する欄はもう、とうに、埋まっている。
 その書類の上へ、手提げの底からを探り出したボールペンを投げた。
 里子は急いで腰を屈め、跳ねて床に転げたペンを拾う。
 ボールペンを握った竹田は書類に目を落としたが、そのまま力なく手離した。
 「ちょっ・・・」
 「ちょっと、待ってくれよ〜」
 そう、言ったかと思うと、両手をテーブルに置き、勢いを付けて立ち上がった。
 しかし、足元の方がもつれ、再びソファーに体が沈む。
 沈みながらも掴んだ背もたれの上部に力を籠めて起き上がる。
 その痩せた背を覆うパジャマの弛みが左右し、彼の心の動揺を見ているようであった。
 なっ、なんだよぉ〜
 どうすんだ??
 竹田は里子を退け、カウンターへと進み行く。
 向かう先にはあのピンクの電話がある。
 あぁ〜あ
 マータ、義兄のお出ましかァ・・・
 どうして、この男、自分の事を自分の判断で出来ないのか・・・
 

         


 アニキに聞かなきゃ・・・
 アニキ・・・
 アニキ・・・
 里子の胸が空洞化して行く。
 感情が死んだようで、ただ竹田の背を見送っていた。
 そのブカブカのパジャマを揺らしながら歩く男の声はブツブツとよく聞き取れない。
 ダイアルの回転音がする。
 竹田が話し始める。
 この男にどんな正当性があるというのか・・・
 しかし、里子は竹田の話す内容が把握できない有り様だ。
 このままでは、あの欺瞞に満ちた大きな顔が現れる・・・
 事態がここまで来ていると言うのに、里子はまたもや治められてしまいそうな不安を感じ焦ってしまうのだ。
 「病み上がりが、女とねてたよー」
 里子は咄嗟に竹田の後ろから大声を出した。
 兎に角彼には今ここへ来てもらっては困る。
 彼の出現を阻止をしなければならない。
 しかし、里子に自信はなかった。
 来るなら、それでも仕方ない。
 そんな諦めも併せ持っていた。
 竹田は電話口でしばらく話した。
 彼の声は耳にするものの、彼が何をどう話しているのか少しも脳に残らない。
 しかし、竹田は受話器を置くと、サッサとテーブルに引き返す。
 竹田の勢いは窮地を救わなかった兄に向けられた怒りから来ていたのだろうか。
 ソファーにドンと尻を落とし、里子の示した箇所に字を埋め始めた。
 「子供は?」
 「どう、すんだよ?」
 ペンを止めた竹田が顔を上げる。
 何、言ってんだよー
 いまごろー
 こっちだって、わかんないよ・・・
 里子は無言で竹田を見遣り、顎で先へと促がす。
 書き終えた彼の指間から、力なくペンが外れた。
 竹田は体をソファーの背もたれに預けた。
 その寂しげな目が里子の胸を刺し来る。
 ダメだよ〜
 動かされそうになる感情を、息を止めて固める。
 竹田の目は顔の前方の一点を凝視するばかりだ。
 こんな男から別れよう。
 こんな男の居ない暮らしをしてみたい。
 里子の胸をこれらの思いが去来していた。
 離婚届けの用紙を取り寄せ、自分の記入欄を埋めてしまうと、何かフッと心が解き放たれた軽い気分になった。
 それを手提げの内ポケットに潜めたままに、日々暮らしていた。
 今日はその用紙を相手の前に出し、完成させてしまった。
 しっかり折り目の付いてしまった紙を畳み、手提げに戻した。
 そして、そのままドアの方へと歩いた。
 階段の踊り場に出てみると、辺りは寒々しい冬景色である。
 あれほど竹田とは別れたいと願っていたのに・・・
 それを可能にする書類が出来上がってしまうと、気持ちは晴れるどころか、暗く寂しく不安になるばかりだ。
 「買えよ」
 「買ってこいよ」
 里子が春咲きの球根を欲しがっているのを知って、声掛けてくれた日が思い出される。
 これからは、一円の金さえも、気安くくれとは言えぬ人になる・・・
 竹田の本心はどうなんだろう・・・
 「ちゃんと、女房と、別れるからーー」
 「なっ、もうちょっと、待ってくれょーー」
 竹田はこの台詞を何度も口にしながら、女の気を宥めて来た筈だ。
 けれども、別れが現実となれば、やはり、戸惑うのではないだろうか・・・
 子供を失い、これまで、里子と築いた夫婦としての世間での認証までをも捨て去らなければならない。
 竹田はドアの外には現れなかった。
 里子はノロノロと階段を下り始めた。
 とうとう、こんな事態を招いてしまった・・・
 そうかと言って、里子が留まれば図に乗る竹田の以後の姿がありありと浮かび来る。
 そこには、これまでよりもずっと、我慢のならない日々が待ち受けている気がする・・・



                


   完結です^^
   長い間に掛けて読んで下さいましてありがとうございました^^
                                 10月20日