山本元帥の筆跡    垣水 孝一
 平成13年夏満75歳になった機に、足腰の丈夫なうちにと思って、身辺の整理を始めてみたが、仲々進まない。
 そんな中、手始めに着手した書籍の整理をしていると、思いがけない本が出てきた。
 亡父の所蔵印の押された昭和18年7月25日発行の朝日新聞社編「元帥山本五十六傅」である。そしてその中に挟まれていたのが、何と「軍艦長門 山本五十六」の署名のある小封筒に封入された私あての年賀の名刺である(別紙コピー)。
 すでにこの年27回忌を過ぎた亡父が、生前郷里でこの本を手渡してくれた時の経緯には、全く覚えがない。しかし旧制中学校低学年であった私が、この年賀の名刺を当時の聯合艦隊司令長官山本五十六大将から頂いたことは、たしかに記憶している。

 恐らくは、昭和16年12月日米開戦直後に、父に勧められて書いた、山本長官に対する私の慰問(?)文に対する長官の御返書であり、昭和17年初頭に頂いたものと思われる。旗艦長門の長官室で、片田舎の一中学生に対して「御健康御精励を祈る」とまで添書きの返書をされた山本元帥の律義な御性格に、今更ながら感激を覚える次第である。
 ところで、なぜ亡父が私に、直接山本長官あてに手紙を差上げさせるようなことをしたかについては、推測される理由がある。
 亡父の兵役は、いわゆる1年志願の幹部候補生出身の陸軍歩兵少尉であったにかかわらず、大の海軍びいきであり(従って長男の私にも陸軍ではなく、海軍の経理学校を選らばせた)、 特に山本元帥は、最も尊敬する海軍軍人として、すでに中将時代の元帥に直接依頼して揮毫して頂いた書を所有していたのである。
 そこで、いよいよ日米開戦となった際、聯合艦隊司令長官としての山本提督に、いずれ海軍士官の道を歩ませようとした息子に、自分に代って慰問文を書かせたのではないかと思われる。
 そもそも亡父は、田舎の旧制中学校の一介の数学教師であったのに、変った道楽として著名人の筆蹟を収集することに凝っていた。しかもその方法は、主として現存の著名な方々に対して、直接御本人に或は執事や夫人等を通じて揮毫を依頼するというやり方であり、これは、同じ中学校の先輩の国漢教師から教えられたノウハウであったようである。
 いずれにしても、私の記憶にある当時の著名人の筆蹟をあげてみると、例えば、近衛文麿(掛軸)、若槻}次郎(掛軸)、高橋是清(扁額)、斎藤実(扁額)、林銑十郎(扁額)、東條英機(色紙)の各総理大臣級の方々の他、島崎藤村(色紙)、西田幾多郎(色紙)、湯川秀樹(色紙(写真1))、中村不折(扁額)、竹内栖鳳(短冊)、南極探検隊長白瀬(矗)中尉(書面)等の方々と各方面に亘っていた。
 そして勿論海軍関係の方々の書も多く、前掲の斎藤総理の他、小笠原長生、山本英輔、加藤寛治(扁額(写真2))、末次信正(扁額)の各提督等々である。特に斎藤総理の場合には、郷里の実家に残されている「至誠感~」と書かれた額装のもののほか、郷里の氏~様の社号碑として、亡父の依頼により、同総理が昭和10年内大臣の時代に執筆された「櫻ケ岡八幡~社 海軍大将正二位子爵斎藤實敬書」と刻まれた石碑が、現存している(写真3)。また、更には、森山慶三郎海軍中将からの、兵学校同期の故秋山真之提督の遺墨(同中将あて書翰及び葉書各1通)を「提督の熱烈なる欽慕者たる賢台に」譲るという書翰(写真4)などもある。
 さて、そこで山本五十六元帥の書であるが、この書は掛軸に仕立ててあり、現在私の手元にある。昭和30年代私が東京で一家をかまえた時、その祝として亡父が贈ってくれたからである。写真(5)に示されている通り、「義氣凌日懷亘海雲(義気秋日を凌ぎ、懐海雲を亘る。(編者註;[]は偏と旁とが左右逆に書かれており現在のパソコンソフトには存在しない。) 
 昭和1
0年6月 垣水君嘱  山本五書」とあり、明らかに亡父の依頼に応じて揮毫されたものであることが判る。亡父の残した覚書によると、昭和10年4月1日東京市赤坂区青山南町あて山本れい子夫人を介して揮毫依頼、同年6月13日小包便にて送付を受けた、となっている。

垣水孝一あて山本五十六の年賀状 湯川秀樹博士の筆跡
加藤寛治海軍大将筆跡 斉藤海軍大将筆社号碑
森山慶三郎海軍中将書簡 秋山真之提督森山中将あて書簡及び葉書
小すが所蔵山本元帥筆跡 垣水所蔵山本元帥筆跡
 さて、この掛軸については、私にとって後日談がある。
 築地に「小すが」という料亭がある。ここは、女将の「小すが」こと丹羽政子さんの先代丹羽美智子さん(新橋芸妓小すが)が、昭和13年築地に「和光」という料亭を開かれた際、当時海軍次官であった山本元帥が、その看板の文字を揮毫された程の深い御縁のあるところで、現「小すが」にも、山本元帥の書や沢山の書翰が残されている。特に開戦直後の昭和17年1月の、この戦争は決して前途楽観できない旨の書翰は貴重である。 この「小すが」で、私は昭和57年春頃36会同期の橋芳平君、粕谷又一郎君等と共に会食したことがある。その際私は、元帥揮毫の掛軸を持参し、「小すが」所蔵の元帥の書の掛軸も出してもらい、床の間に竝べて掛けて見たものである。「小すが」の掛軸の書は、「禍莫大于恣己之慾悪無大于云人之非(禍は己の慾を恣にするより大なるはなく、悪は人の非を云うより大なるはなし)昭和辛巳秋  山本5書」とある(写真6)。「昭和辛巳秋」とは、昭和16年秋のことであり、正に日米開戦直前の筆蹟である。

 私のものは、前述のとおり昭和10年6月とあるから、「小すが」の書との間に6年半近くの隔たりがある。われわれは、書について全くの素人ではあるが、この両者の筆の運びの間には明らかな差があり、昭和10年のものの豪快とも言うべき筆勢に比し、昭和16年のものは、むしろ円く、しなやかな文字になっているのではないか、などと「小すが」の女将をも交えて、語り合ったものであった。 
 それは、昭和10年夏という第2次ロンドン軍縮会議予備交渉代表からの帰国直後、海軍航空本部長に就任直前の時期、帝国海軍の前途を見据えての元帥の昂揚した気分の表象と、昭和16年秋という、本来戦うべからざる戦(元帥の海軍次官時代、本省次官室に「百戦百勝不如一忍」という軸が掛けられていたという)に、武人として先陣に立たざるを得ない心境(諦観と言っては言いすぎであろうか)の表象との差とでも言いうるのではあるまいか。その両揮毫において選ばれた字句そのものも、それぞれ筆勢にふさわしいもののような気がする。
 敢えて言えば、開戦に直面した元帥の心境は、建武の昔大楠公の湊川出陣の際にも比すべきものがあったのではあるまいか。「小すが」に残された元帥の前述昭和17年1月の書翰を見ても、そんな推測すらされるのである。

 この拙文を綴るに当り、私はどうしても、「小すが」の山本元帥の筆蹟を、もう一度確認し、できれば私の掛軸と比較できる写真を載せなければ、という気持になった。
 かくて、先日(平成14年8月初)、36会同期の古賀梶夫、矢吹二郎の両君と共に「小すが」を訪れ、山本元帥の掛軸や書翰を再び出してもらって写真を撮ると共に、女将から元帥の想い出を語ってもらうという、極めて感銘深い一夕を過した。
 日米開戦以後すでに60年、そして昭和18年戦死の際の元帥の享年60歳。元帥の筆蹟に触発されてこのことを想い、我等馬齢を重ね間もなく喜寿を迎えんとすることをかえりみるとき、些か感慨をもよおす昨今である。
 なお、冒頭にあげた朝日新聞社編「元帥山本五十六傳」には、「山本元帥の筆蹟」と題して、次のような記事がある。
  
  「元帥の能書と筆まめは有名である。
その書は殆ど天稟に
  して祖父厳父ともに
また書に堪能であったところより見て、
  元帥の一家は能筆の家系ともいえる。戦陣の間にあっても筆
  をとって知友への便りを缺かさず、慰問の手紙にも一々必ず
  自ら返事を認めたことなど、筆まめとともに禮に篤いその人
  柄がうかがわれる。」

小すがにて (左より矢吹・古賀・垣水)