さて、この掛軸については、私にとって後日談がある。
築地に「小すが」という料亭がある。ここは、女将の「小すが」こと丹羽政子さんの先代丹羽美智子さん(新橋芸妓小すが)が、昭和13年築地に「和光」という料亭を開かれた際、当時海軍次官であった山本元帥が、その看板の文字を揮毫された程の深い御縁のあるところで、現「小すが」にも、山本元帥の書や沢山の書翰が残されている。特に開戦直後の昭和17年1月の、この戦争は決して前途楽観できない旨の書翰は貴重である。 この「小すが」で、私は昭和57年春頃36会同期の橋芳平君、粕谷又一郎君等と共に会食したことがある。その際私は、元帥揮毫の掛軸を持参し、「小すが」所蔵の元帥の書の掛軸も出してもらい、床の間に竝べて掛けて見たものである。「小すが」の掛軸の書は、「禍莫大于恣己之慾悪無大于云人之非(禍は己の慾を恣にするより大なるはなく、悪は人の非を云うより大なるはなし)昭和辛巳秋 山本5書」とある(写真6)。「昭和辛巳秋」とは、昭和16年秋のことであり、正に日米開戦直前の筆蹟である。
私のものは、前述のとおり昭和10年6月とあるから、「小すが」の書との間に6年半近くの隔たりがある。われわれは、書について全くの素人ではあるが、この両者の筆の運びの間には明らかな差があり、昭和10年のものの豪快とも言うべき筆勢に比し、昭和16年のものは、むしろ円く、しなやかな文字になっているのではないか、などと「小すが」の女将をも交えて、語り合ったものであった。
それは、昭和10年夏という第2次ロンドン軍縮会議予備交渉代表からの帰国直後、海軍航空本部長に就任直前の時期、帝国海軍の前途を見据えての元帥の昂揚した気分の表象と、昭和16年秋という、本来戦うべからざる戦(元帥の海軍次官時代、本省次官室に「百戦百勝不如一忍」という軸が掛けられていたという)に、武人として先陣に立たざるを得ない心境(諦観と言っては言いすぎであろうか)の表象との差とでも言いうるのではあるまいか。その両揮毫において選ばれた字句そのものも、それぞれ筆勢にふさわしいもののような気がする。
敢えて言えば、開戦に直面した元帥の心境は、建武の昔大楠公の湊川出陣の際にも比すべきものがあったのではあるまいか。「小すが」に残された元帥の前述昭和17年1月の書翰を見ても、そんな推測すらされるのである。
この拙文を綴るに当り、私はどうしても、「小すが」の山本元帥の筆蹟を、もう一度確認し、できれば私の掛軸と比較できる写真を載せなければ、という気持になった。
かくて、先日(平成14年8月初)、36会同期の古賀梶夫、矢吹二郎の両君と共に「小すが」を訪れ、山本元帥の掛軸や書翰を再び出してもらって写真を撮ると共に、女将から元帥の想い出を語ってもらうという、極めて感銘深い一夕を過した。
日米開戦以後すでに60年、そして昭和18年戦死の際の元帥の享年60歳。元帥の筆蹟に触発されてこのことを想い、我等馬齢を重ね間もなく喜寿を迎えんとすることをかえりみるとき、些か感慨をもよおす昨今である。
なお、冒頭にあげた朝日新聞社編「元帥山本五十六傳」には、「山本元帥の筆蹟」と題して、次のような記事がある。
「元帥の能書と筆まめは有名である。 その書は殆ど天稟に
して祖父厳父ともに また書に堪能であったところより見て、
元帥の一家は能筆の家系ともいえる。戦陣の間にあっても筆
をとって知友への便りを缺かさず、慰問の手紙にも一々必ず
自ら返事を認めたことなど、筆まめとともに禮に篤いその人
柄がうかがわれる。」
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