田浦地区をあるく    地図                             船越地区  長浦港・倉庫街    長浦地区

JR田浦駅 

 JR田浦駅の付近は、失鎌(しっかま)という。明治22年、横須賀線がこの海岸近くの谷間をとおり横須賀へと通じたが、当時この地には駅(停車場)はなく人家もほとんどないところであった。田浦駅ができたのは、日露戦争が激しさを加えてきた明治37年のことで、駅舎は海側だけであった。交通も不便で人家もほとんどなく、せまくてさびしいこの場所が選ばれたのは、路線の勾配の関係ともいわれている。大正7年に海軍の水道トンネル、昭和2年に国道が開通してから、この谷戸も急激に家屋が建てられるようになり、昔の面影は失われた。
 JR田浦駅はホームが2つのトンネルにはさまれ、ホームの長さが約200mしかないため、11両編成の場合、先頭車の1車両がトンネル内に入って停車する。停車したときに、上り列車(大船方面)、下り列車(久里浜方面)の先頭車の1両と2両目の一番前のドアが締め切りとなり、全国的にもめずらしい駅として鉄道マニアにも知られている。



(田浦)神明社 

 横須賀線の田浦踏切に隣接して上り線の山側に旧村社の(田浦)神明社がある。祭神は御食津神(みけつのかみ)、吉備霊、闇?神(くらおかみのかみ)。正長元年(1428)に祀られたと伝えられている。神明社はもと田浦町5丁目にあって、明治6年村社となる。大正2年12月に小山田(大作谷戸入口)にあった「谷戸」(大作、泉町)の鎮守の貴布禰(きふね)神社と向田(田浦町2丁目)にあった池の谷戸・小山田、田浦町4・5丁目などの「浜」の鎮守の御霊(ごりょう)社、御伊勢山皇大神宮(田浦村の鎮守で田浦町4丁目の京急ガード脇の山の上にあった)と暗雲(やくも)社(天王様をまつり貴布禰神社のとなりにあった)を合祀した。神社名も「神明社」と改称された。大正8年、もと御霊社の境内であった現在地にうつり、このとき社殿を改築し、境内も広くした。
 現在の拝殿はもとの貴布禰神社の社殿で、本殿はもと御霊社の社殿だった。両社殿は、ともに江戸時代の天明年間(1781〜88)に造られた市内緑が丘の諏訪神社の本殿・社殿だった。明治22年に諏訪神社で社殿を新築したため不要となり、田浦に移された。境内にある3本のイチョウの木は、左側にある舞楽殿が昭和2年に落成した際、鳥居の代わりに植えられたという。

 


 

長善寺 

 京浜急行のガード近く、旧浦賀道ぞいに浄土宗の西林山長善寺がある。寺が開かれたのは永禄元年(1558)といわれ、開山和尚は天正4年(1576)に亡くなった嘆蓮社讃誉長善(たんれんしゃさんよちょうぜん)といわれる。本尊は阿弥陀如来像。江戸時代に入り、元禄のころ災害によって創建の建物がこわれたため、享保15年(1730)に村民の石川太右衛門や多数の檀家の協力により復興した。
  明治になり、吉水幽誉(よしみずゆうよ)和尚が伊勢の津市からきて住職となった。明治7年(1874) 長善寺本堂に田浦学舎ができる(後の田浦小学校)。明治30年、本堂などの改築を行い、明治37年に完成した。
 寺には、室町時代前期の地蔵菩薩像や古文書など貴重な文化財がある。明治のはじめまで大作谷戸にあったといわれる久遠寺の本尊像も移されている。また、境内にある不動明王像は、三浦道寸の守り本尊で、落ち武者の菩提を弔うために安置したといわれている。
 ここは浦賀道の難所・十三峠の山越えに備える所であった。享保年間(1716〜1736)に祀られたというお地蔵さまが、山門正面にある。浦賀街道を往来する旅人が「旅の安全」や「家内安全」を願って、お参りしたという。

   

道六神 

 長善寺を通り、「城の台」へ向かう坂道(大田坂:おったざか)の途中に小さな石碑がある。天保12年(1841)に建立された道祖神(道六神)だ。道祖神とは村境や道の辻、峠道などに祀られ、そこから内へ伝染病などの悪霊が入り込まないようにと境を守る神として塞の神、道陸神などとも呼ばれている。また、道行く人を守る神ともされた。十三峠を越えてきた悪霊をここでさえぎることができると、当時の人は考えていたのだろう。昔、旅人がこの道六神の前まで登ってきてやれやれと一休みし、旅の安全を祈り登っていったことだろう。この急坂(大田坂)も今は階段となっている。 この道祖神には、「念仏講中、世話人、七右衛門、六右衛門」と書かれていることから、夜集まり念仏(南無阿弥陀仏)をとなえてお茶やお菓子などを食べる念仏講の人たちがこの石碑を立てたと考えられる。

       

馬頭観音堂 

 田浦3丁目の静円寺下に、安政5年から明治に建てられた馬頭観音堂が残っている。当時、馬は農耕や輸送などに重要な働きをしたので、人々は馬を大事にし、馬の無病息災を祈る信仰が生まれ、馬とともに道中の安全を祈ったり、また道半ばで力つきた馬を供養するため、祀られるようになった。いぼとりや百日ぜきなどにも効くという。 馬頭観音は、正式には「馬頭観世音菩薩」といい、馬が周囲の草をむさぼるように、人間の煩悩を食べつくして救済するという考えから、日本では奈良時代以降に信仰されるようになったという。馬頭観音は梵名をハヤグリーバァといい、これは「馬の頭をもつ者」という意味で、もともとは、馬の頭の形をした宝冠をいただいた姿であった。馬の供養や無病息災の祈願がこめられていたが、やがて観音の像よりも、「馬頭観音」の文字塔が多くなり、また特定の馬の供養や、墓石の意味をもつようになった。
 なお、明治15年の旧陸軍迅速図作成にともなう付属資料である「偵察録」によると、当時の田浦地域の牛馬数は、船越新田0、田浦村は24、長浦村は0で、一方、牛はどの村も0で、特に田浦村に馬が飼われていたことがわかる。
 江戸時代、死んだ牛や馬は村境などの人里はなれた空き地や海岸などに埋葬することが多かったという。「馬捨て場」とか「ソマシキ場」と呼ばれた。古老によると、田浦にも昔は馬捨て場が海岸付近にあったという。このような場所は、「この世」と「あの世」の境とされる他界観から選ばれたのであろうか。
          


静円寺 

 横須賀線の田浦ガードに近い山腹に、日蓮宗の妙法山静円寺がある。本尊は三宝(さんぽう)祖師。「三浦古尋禄」では、「浄円寺」。開山はぶん永禄10年(1567)に亡くなった法泉院日保(ほうせんいんにちほ)で、寺の創建についてはいろいろな説があるが天文年間(1532〜55)という。開基は、石川清右衛門と伝えられている。江戸時代には住職のいないときもあったが、明治37年、石本日運が住職となり苦心をかさね寺を再興した。椎の大木があったが、鉄道の工事のためほとんどが切られてしまったという。現在の本堂は、大正12年の関東大震災によって破損したため大正14年に大修理を加えたもの。
  レンガ造りの池のほとりには、日蓮上人像が、その誕生の地である房州を見つめ、数珠を手に立っている。

   



 

盛福寺 

 横須賀線が通る田浦町5丁目の谷戸の奥、旧浦賀道ぞいに臨済宗円覚寺派の田浦山盛福寺がある。江戸時代初期に円覚寺管長の隠居寺として建てられ、元禄3年(1680)ごろ、七堂伽藍(がらん)が建立されたが、二度の火災で面影を残すのは山門だけという。開山は延宝元年(1673)に亡くなった玉峰法葩(ぎょくほうほうは)和尚と伝えられている。本尊は、釈迦如来座像。天保7年(1836)に寺が焼けてしまい、それ以後畑や田となり、住職もおらず荒れはてていた。明治19年行応和尚(山崎曽?)がきて寺の再興につとめ、明治29年本堂を完成させた。山門は禅宗様式で、天保の火災にも免れた。昭和36年銅板に葺き替えたが、昔のおもかげを残している。

 山門わきには六地蔵と石仏が46体もならび、お花やお菓子がたえることなく供えられている。その横には、貞享4年(1687)の庚申供養塔がある。

   

 


田浦稲荷 

 盛福寺境内右手に田浦稲荷がある。ここには、稲荷のほかに白山(歯の神)、天神(勉学の神)、弁天(福富の神)もまつってある。歯が痛むときに拝むと治ると言い伝えられていた。古老によると、地元では「石宮」と呼んでいたという。 
 この稲荷は、昔は城の台にあり、この地に屋敷をかまえ住んでいたとされる鎌倉時代の武将、秋田城之介義景の守り神だったという。地元では他に畠山重忠・重保の畠山家の守り神だったとする説もある。慶長年間(1596
1614)に、盛福寺の守り神(鎮守)として境内右側の小高い場所に移された。

    

田浦梅林 

 田浦梅林は昭和9年(1934)皇太子殿下(現在の天皇陛下)のご生誕を記念して、山の所有者である石川金蔵さんを中心とした地元の人たちによって梅林組合がつくられ、700本の梅を植樹したことにはじまる。

 面積は約6000平方メートルあり、三浦半島でただひとつの梅林として知られている。現在では横須賀市の管理になっているが、昭和57年ごろからこの梅林に隣接して、田浦緑地(現在は田浦梅の里)に市が梅の植樹を行い、いまでは、青軸・白加賀の白梅・養老の紅梅など約2700本の梅の花を楽しむことができる三浦半島随一の梅の名所となっている。美しい花と香りをいっせいにただよわせる2月中旬から3月中旬のころは大変みごとで、例年約4万人もの梅見の客で、終日にぎわう。また12月〜3月にはスイセンの花も楽しめる。梅林のある梅の里の付近では、毎年親子たこあげ大会や演芸大会などのイベントを中心に、盛大に田浦梅林まつりが開催される。
 この梅の実を原料とした「梅わいん」、「梅りきゅーる」は、横須賀の名産として好評で、市内の酒販店で販売されている。

    




大六天神 

 田浦梅林のある山の中腹に立っている樫の大木の下に大六天神の祠がある。田浦大六天神由緒記によると、鎌倉時代に村人たちが海の幸、山の幸を願うために、大山咋命・萱の姫・山神・水神の4神を合わせて祀ったのが始まりと伝えられている。村人たちは、石の祠に大六天神を祀り五穀豊穣を祈り、火難・水難・病難からの守り神として信仰をよせていた。また、この大六天神の森は、魚見台として海上の船の位置を知る森として大切にされてきたという。その後、時の移りかわりとともにいつしか信仰もうすれ、祠も忘れ去られて森の中に埋もれたままとなっていたという。

 昭和6年に大六天神の森の下に住む地元の人の「お告げ」を聞き、森の所有者が、森の樫の大木付近を掘り起こし調べた結果、地下から数個の礎石を発見し石造りの祠があったことがわかった。さっそく地元の人に呼びかけ有志とともに、昭和7年白木造りの祠を現在の場所につくった。その後、発掘した礎石をご神体としてまつり、毎年2月21日に例祭を行ってきた。しかし、その祠は年月とともに老朽化したため、地区住民や企業の浄財によって昭和55年2月立派な祠が完成した。

    

 

庚申塔 

 田浦小の近くの田浦町3丁目に庚申塔という石碑がたっている。これは庚申の日(60日に1回まわってくる)に体の中にいる虫が人の寝ている間に天の神にその人の悪い事をいいつけるという言い伝えがあったため、講をつくり皆で集まりその日は夜どうし起き、食べたり飲んだりして夜を過ごす。また、おまいりをするために塔を建てた。

 ここには4塔あるが、一番古いものは、見ざる、聞かざる、言わざるの三猿が刻まれている延宝4年(1676)に建てられたものだ。田浦泉町と田浦小のそばにあったものを、現在地に移した。

  

海軍通信教育発祥記念碑 

 海上自衛隊第2術科学校内にある。明治34年無線電信術の教育を、日本ではじめて行った記念の地として建立したもの。無線電信術の教育は、明治37、8年の日露戦争など当時の国際関係のさしせまった中で、その重要性を増していた。ここでの通信術教育は昭和5年水雷学校から分離独立して、同じ敷地内に海軍通信学校が開校、昭和14年に久里浜に移り、その後、横須賀海軍通信学校と改められた。



  
  海軍通信学校

旧船越トンネル 

 田浦側からみて国道16号の下り線の船越トンネル入口の右手には、明治26年に掘られた素掘りの小さな旧トンネル(当時は「田浦トンネル」といった)がある。現在は閉鎖されているが、南側の入口は見える。この旧トンネルが開通するまで、元禄時代に埋め立てられてできた船越新田には田浦から船に乗り海を越えて田畑の耕作に来るしかなかった。このトンネルにより、田浦と船越は一本の道路で結ばれ、山越えをする必要もなくなり、田浦方面から船越へ買物に来る人や造兵部へ通う人たちは大変楽になったという。トンネルの中の田浦から見て右側には観音様が祀られていたという。この素掘りのトンネルは、現在の船越トンネルができるまで大事な交通路として使用されていた。第一次世界大戦後、この地域の海軍関係施設に通う人や車の往来が激しく、軍事上からも自動車交通路の整備が必要になり、大正12年に現在の船越トンネルが開通した。
  入り口はレンガ積みで、「船越隧道」と書かれた古い銘板が残っている。現在ではまったく使われていない。

  

海軍水雷学校跡碑 

 船越トンネルを田浦方面へ通りぬけると、左手長浦湾沿いには、現在関東自動車工業(株)がある。この関東自動車ととなりの海上自衛隊第2術科学校をふくめて、旧海軍水雷学校の敷地だった。水雷学校は、水雷や通信技術を身につけることを目的としたところで、明治12年、横須賀に水雷術練習所を設置したことにはじまる。その後、明治19年、水雷術練習艦の「迅鯨」を長浦湾の鯛ケ崎(現在の関東自動車工業の岸壁近く)の近くにおき、陸上にも講堂をつくって練習をひろげた。明治37年、「迅鯨」が古くなり役にたたなくなったため、練習所を陸上に移すことになり、庁舎や兵舎などを現在の関東自動車工業(株)構内に新築移転し、翌明治40年名称も海軍水雷学校となった。創立当時の教育科目は電気器具・防御水雷・攻撃水雷・通信術の4科目であった。 日本がはじめて魚雷を導入したのは明治17年である。この魚雷の導入によって、それまで機雷が主であった水雷は防御水雷(機雷系、時代によって敷設水雷、機械水雷、機雷と呼んだ)と攻撃水雷(魚雷系、時代により自動水雷、魚形水雷、魚雷と呼んだ)の2系列となった。
 明治37、8年の日露戦争で活躍した広瀬中佐も、練習所時代のこの学校に入り、練習艦「迅鯨」で水雷術を学んでいたという。
 その後、海軍水雷学校の敷地を拡張するため、大正9年、海岸沿いにあった通称「丸山」を崩し始め、池の谷戸から小田までの何十軒もの家が移転した。丸山を崩したときの土は、埋め立てに使われた。その結果、「屏風坂」と呼ばれた池の谷戸から船越に向かう坂もなくなった。

 昭和5年、「海軍通信学校」が水雷学校から分離独立し、昭和14年、「海軍通信学校」が田浦から久里浜に移転する。
 一方、その後の内外の軍事情勢の推移や将来戦の予想にもとづき、対潜戦や機雷戦など防備関係の教育を一段と強化する必要にせまられた。昭和16年、水雷学校機雷部関係が分離独立して久里浜に移転し、海軍機雷学校が設立された。さらに昭和19年、機雷学校は海軍対潜学校(その後、水雷学校久里浜分校となる)と改称された。

 昭和19年3月戦局を挽回するため、海軍は臨時魚雷艇訓練所を田浦から長崎県川棚町に移し、海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所として魚雷艇と特攻兵器震洋艇の教育訓練を実施した。昭和20年8月15日、終戦により海軍水雷学校は廃校となる。
  昭和58年、関東自動車工業本社前に、この「海軍水雷学校跡碑」が卒業生や関係者によって建てられた。 
 現在、関東自動車工業の敷地内には、当時の第四兵舎や水雷神社(現・関東神社)、海軍のマークの入ったマンホール・消火栓などが保存され使用されている。また当時の生徒が富士山の溶岩で築き上げた富士塚(模型)も保存され、山側には防空壕(地中工場)入口跡がある。しかし、民間施設内のため立ち入りはできない。


    

    
  ↑写真をクリックすると拡大     現在も残る当時の海軍マーク
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海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

 海上自衛隊第2術科学校内に立つ。明治28年日清戦争のときに、清国の北洋艦隊を攻撃するため、水雷術練習所時代の3期生の上崎上等兵曹は、水雷艇に乗り威海衛の港に突入したが、不幸にも敵艦の目前で発射管が寒さのため凍りつき、魚雷を発射することができなかった。この責任を感じた上崎上等兵曹は、一度は班長の鈴木貫太郎(後の大将、首相)にとめられながらも、艇内で自決。

 この忠勇義烈な死をとげた故人の碑は明治29年市内の竜本寺に建てられたが、昭和3年国道沿いの現在の横須賀基督教社会館近くの田浦派出所わきに移され、昭和43年現在地に再移転した。

    

JR沼間トンネル 

 JR横須賀線のトンネルは、ほとんどが田浦周辺に集中する。田浦町4丁目にあるのが沼間トンネル(逗子市沼間〜田浦)だ。横須賀線は明治22年横須賀−大船間が開通し、このトンネルも同時に完成した。(現在の下り線)大正13年の複線化に向けて大正9年に完成したトンネル(現在の上り線)と並ぶ。
 レンガ積みのレトロ感あふれるさび色は、当時のたしかな職人の技(わざ)を伝える。

    

田浦山トンネル 

 かつて旧海軍の軍事的な役割として欠かせない施設の一部であったトンネルが、盛福寺谷戸の奥まった地にある田浦山トンネルだ。旧海軍が水道専用のトンネルとして建設し、大正11年に完成後、海軍から民間の通行が許された。後ろの山側にある盛福寺管路トンネルとは同時の完成と伝えられている。



盛福寺管路トンネル 

 盛福寺管路(田浦〜沼間)トンネルは田浦山トンネルの逗子(沼間)寄りのところにある。掘さくは大正の初期で、中津川から横須賀軍港へ水を引く海軍専用の水道トンネルとして掘られ、素ぼりのせまいものだった。住民が通行できるようにと海軍に要請し、大正11年許可され、昭和3年まで通行できた。当時、葉山・逗子方面から海軍軍需部や海軍工廠造兵部への通勤者には近道で便利だったという。
 戦後、大蔵省の管かつになり、その後、横須賀市に移管され、今は中には入れないが、手前まで行ける。

    

田浦青少年自然の家 

 田浦梅の里の山頂付近にあり、キャンプ場がある。昭和61年に設置された。近くには展望台や芝生広場もあり、市内のアウトドア派や家族づれに好評。休館日:月曜、祝日の翌日、年末年始、冬季は週末、祝日のみ開館。

    

城の台(しろんだ) 

 長善寺の前をとおり、まもなく左手に折れて太田坂といわれる坂道をあがる。この坂道は旧浦賀道で、丘陵上に出て右手に道をとれば、十三峠を経てやがて按針塚だ。東京湾をのぞむ左手は市営月見台団地で、団地ができる前、一帯は畑地だった。この丘陵上の平地を「城の台」(現在の田浦町1丁目、月見台)というが、土地の人は「しろんだ」と呼んでいる。約700年前、鎌倉幕府の家臣、秋田城之介景盛、義景親子の下屋敷があったと伝えられている。長浦湾を眼下に、眺望の良いこの地も、戦争中は兵舎や砲台があり、一般の人は立ち入りできなかった。


 

田浦梅の里の広場 

 田浦泉町や田浦大作町の京急線ガードわきから山道をのぼりつめると、田浦梅林をとおって頂上近くの広場に出る。長浦湾から東京湾まで一望することができる眺めのよい一帯には、梅林のほか展望塔をはじめ、フィールドアスレチックや「青少年自然の家」などの施設があり、「田浦梅の里」(旧田浦緑地)と呼ばれている。
 昭和51年地元の石川宏氏がこの山一帯の33万7千平方メートルを横須賀市へ寄付したことに始まる。市では市制70周年記念事業として野外レクレーションの場づくりをすすめ、昭和57年4月に「田浦緑地」(現在は田浦梅の里)として開園した。その後、昭和61年にはキャンプ場がある「青少年自然の家」も完成し、休日ともなれば緑に囲まれた園内は、家族連れなどでにぎわっている。
 子供たちには、16の種類があるフィールドアスレチックも大人気。梅の花の咲く季節には、梅見のあと展望のよい芝生広場でゆっくりくつろぐ人たちや、逗子・葉山側に通じるハイキングを楽しむ人たちの姿が多く見られる。

   


  

十三峠 

 長善寺わきの大田坂をあがり、尾根道を右にとり安針塚へと向う道がつづくこのあたりを、十三峠という。この旧浦賀道も現在では自動車も通る舗装された道に変わっているが、昔はけわしいところで、登り下りする旅人や村人たちにとって非常につらい山道であった。このあたりを半ケ広(半ケ城、坂ケ拾)というが、文化9年(1812)に出された三浦古尋録(こじんろく)のはじめにも、「陸路ハ難所ニテ七里八坂ト云是坂ケ拾(はんかひろい)通リト云風波悪キ時ハ此山路ヲ往来ス」とある。ここから遠く横浜ランドマークタワーや長浦湾、千葉の臨海工業地帯の工場群が眺望できる。
  十三峠の名の由来には、いろいろな説がある。保土ヶ谷より13番目の峠ということで名づけられたという説や、峠に十三仏をまつった寺か神社があってそれにちなんだもの、あるいは十三塚の信仰にまつわる説などがある。

   

 

白赤(はくせき)稲荷 

 田浦大作町の谷戸の奥にある児童公園を少し過ぎた右手の山の中腹にある。赤い鳥居をくぐり登って行くと、耕作地に出る。このあたりは昔、「善応」と呼ばれたという。さらに登ると、白と赤の鳥居が交互にならんで立っている。白赤稲荷は、梅、桃、つつじ、さつき、あじさいなどが植えられた境内と、朱の鳥居のトンネルとが、まわりの山々とみごとな調和を見せている。昭和41年に京都の伏見稲荷大社の分霊を祀った。地元の人や遠方の人にも信仰され、50本以上も並ぶ鳥居は、三浦半島でも珍しい。毎年、旧の初午と分霊として祀られた11月はにぎわう。

    

JR・田浦トンネル 

 JR田浦トンネルは、JR田浦駅の上り方面に接する。横須賀線は明治22年横須賀〜大船間が単線として開通したときにトンネル(現在の下り)が完成した。上り線のトンネルは、大正9年の逗子沼間〜田浦間が複線化、大正13年の田浦〜横須賀間複線化工事にともなって建設されたものである。はじめは、すべてレンガ造りだったが、大正14年の電化工事にともなって、側壁の大部分がコンクリート造りに改築されている。

       



 

16号線・田浦トンネル 

 田浦社会館側から見て左が田浦トンネルで、大正15年につくられた古い幹線トンネルである。その右は上りの新田浦トンネル(昭和17年国道トンネルとして完成)となっている。この新田浦トンネルは、もともとは海軍の水道路トンネルで、大正7年に民間の通行が許可された。現在、わずかな分離帯をはさんでふたまた風に分かれているところに、昭和15年から昭和27年まで田浦派出所(湘南信用金庫南田浦支店横に移転して田浦交番に)があった。

  



田浦船着き場(吉倉−榎戸・深浦)

昔、現在の関東自動車工業の海岸の角に吉倉や榎戸・深浦に行く渡し船の船着き場があった。すでに江戸時代には横須賀の本町から金沢方面への渡船があったが、軍港の拡張によって渡船がむずかしくなり、吉倉・逸見方面に行くには陸路を浦賀道で十三峠を越えるしかなかった。このため明治20年ごろ吉倉運輸によって、吉倉−榎戸間(40分)の渡船ができた。

 当時、渡船は、浦郷はもちろん、六浦や金沢から横須賀への往復のただ一つの交通機関であった。明治の終わりごろ、5、6隻の船で毎日午前7時から午後6時までの間、1時間ごとに発着し、かなりの利用者があったという。横須賀市統計書によると、明治から大正にかけ毎年1万5千人から2万人近くに及んだ。

 しかし、明治37年に田浦駅(JR)ができ、また大正7年には海軍水道トンネルが一般の人たちの通行が許可されたため、しだいに田浦の渡船発着場の利用者が少なくなった。さらに海軍水雷学校の拡張のため、田浦の発着場は大正8年に廃止になった。吉倉−榎戸間の渡し船は、大正10年ごろ全盛期をむかえその後もつづいていたが、軍港水域拡張のため、やがて昭和6年に姿を消した。



温泉谷戸と鉱泉 

 長善寺から京浜急行のガードをくぐり、田浦泉町に入るとこのあたり一帯は、「温泉谷戸」と呼ばれている。もともとこの奥谷は、「矢落」(やおち)という地名であった。温泉谷戸の名は、昔、谷戸奥の市営住宅近くを流れる小川にかかる橋のたもとに鉱泉がわいたためだ。
 高熊川源流の山(昔は矢落山といった)の麓で、高熊川に沿った旧道横に1メートル四方の鉱泉の湧き出ている浅い井戸があった。鉱泉を利用して、明治の頃には温泉宿(田浦泉町27番地の駐車場付近)が開業され、皮膚病やあせもに効くということで、一時期、繁盛する。春はアヤメ、秋はコスモスが一面咲き乱れ、10ほどの部屋があり、東京からの温泉客でにぎわったこともあったという。また、パイプを高熊側に沿って敷設し、鉱泉を引き込み、それを沸かしたお風呂屋さんがあった。
  しかし、関東大震災で地形が変わって湯が出なくなったり管がこわれたりで、大正の終わり頃には温泉宿もお風呂屋さんも廃業し、温泉場はなくなってしまった。しかし地元の古老によると、その後も鉱泉の利用が多く、少ない量の鉱泉を毎日のように1升びんなどでくんでいく人たちが絶えず、またあせもやただれなどに効くということで、地元ではタライで子どもたちの体を洗う風景をよくみかけたという。

 温泉谷戸を流れる高熊川では、戦前の大正から昭和にかけてウナギやハヤもとれ、子どもたちの格好の遊び場であったという。また、当時、谷戸の川の水はきれいで、家庭のお風呂に活用したそうだ。

互楽館 

 互楽館は、現在の関東自動車工業本社前(田浦町4丁目6番地付近)にあった。大正12年にバラック式で建築されたが震災で壊れ、翌年改築された田浦の演芸常設館で、定員は437人。活動写真や芝居・浪花節などの演芸を見せた。

 「古老が語るふるさとの歴史」によると、当時は木造の建物で、正面の上の方には「互」という字が浮き出た丸い看板が出ていて、出入り口の手前に下足小屋があり、ここではきものを脱いで上がったという。2階にはさじき席があった。1階は大衆席で仕切りはなく、板の間にムシロ敷きだったが、5銭を出せば座布団が借りられたという。1階中央には物売りの専用通路があり、物売りは飯台をかつぎながら「えーい、おセンにキャラメル。えーい、ラムネにミカン。えーい、アンパンに南京豆。えーい、おいしい味付けイカもあるよ!」と言って売り歩いていたそうだ。

 大正末期から昭和初頭、子供は親の同伴でなければ芝居も活動写真も見られなかったという。

 昭和20年6月、旧海軍水雷学校正門前周辺が建物疎開の地域に指定され、このとき互楽館も取り壊された。




旧海軍下士官兵集会所 

 現在の社会館のところに、戦前、海軍下士官兵集会所田浦支所があった。海軍の下士官兵の慰安と娯楽のため昭和3年、海仁会により建設され、娯楽室、食堂、浴場、売店などがあった。夏になると夜、軍楽隊の演奏が聞こえたという。
  終戦の翌年、旧海軍から建物を譲り受け、横須賀基督教社会館が創設された。昭和42年、旧建物は社会館の改築のため取り壊された。

   

 

横須賀基督教社会館 

 昭和21年、旧日本海軍の施設(海軍下士官兵集会所)を当時のアメリカ海軍基地デッカー司令官の好意によって譲りうけ、日本基督教団社会部の責任でコミュニティセンターとして横須賀基督教社会館が設置され、トムソン氏がキリスト教による新しい社会事業の場として開いた。

社会館にはその後、日曜学校や児童クラブ、授産部、図書館、のちに保育所となった善隣園などが開設された。また、社会事業の一つとして、現在の田浦郵便局のところに建っていた海軍の独身寮を払い下げてもらい、母子寮として一時期使っていた。昭和32年、阿部志郎氏が館長に就任。昭和43年に改築されたが、平成7年再度改築され、翌年田浦高齢者・身体障害者ケアセンター、田浦地域福祉センター、田浦ふれあい住宅など福祉関係の施設が新たに開設された。

現在、児童福祉部で善隣園保育センターとその分園が、また在宅ケア部では在宅介護支援センター、身体障害者相談サポートセンター、介護保険サービスセンター、ホームヘルプステーション、希望の園デイサービスセンター、高齢者デイサービスセンター、身体障害者デイサービスセンター、障害者地域活動センターが開設され、また地域福祉部では地域活動事業などが行なわれている。


   


田浦泉町の石山(石切場) 

 大正のころ、田浦泉町の奥の方に通称石切山と呼ばれていた石を切り出した山があった。東京の浅野セメント会社が開発したもので、ハッパ(ダイナマイト)で砕いた石をトロッコに積んで、線路を越し長浦湾の海岸の船着場に運び、そこから船にのせ、東京のセメント会社まで運んだといわれている。この光景は大正10年ごろまで続いたという。その後、線路とトロッコは昭和のはじめ頃まで残されていた。このトロッコ道が田浦泉町のいまの広い方の道路だ。古老によると当時、地元の子ども達がトロッコに乗って遊んだり、ひっくり返して現場の作業の人にしかられたりもしたそうだ。

 現在、石切山は半分以上は土砂に埋まり、大きな杉の木に囲まれているが、上部にかすかに石を削り取った跡を見ることができる。

畠山城跡

 十三峠の付近に、畠山城跡と伝えられるところがある。これには2つの説があって、一つは、昔ある武将がこの城にたてこもったのを水路を断って亡ぼそうと計ったが、武将は馬を敵の見えるところに引き出して白米をもって馬を洗って見せた。それを遠くから見て米を水と思った敵将はついに水攻めをやめて、軍を解いたという。また、一説には三浦大介の妹の長子である畠山重忠が衣笠城を攻めるときに作った城(または館)だとも伝えられている。この山は、当時畠山勢の進軍の先兵の物見にでも使われたのではないかといわれている。この北方の山の下には、「矢落」(やおち又はやおとし)と呼ばれる地名も残っている。

 

朝井閑右衛門

 朝井閑右衛門は、戦後洋画界の代表的画家として知られ、昭和22年から約22年間、田浦(田浦町4丁目54番地)ですごした。古い二軒長屋に住み、雨漏りもけっこうあったらしい。日本間の天井には雨漏りの染みができて、その形がいろいろに見えて面白いと言って、「悪霊もの」の作品「善雲と悪雲」、「悪霊と道化」などの作品が描かれたという。田浦時代にその画風を特徴づける「電線風景」や「ドン・キホーテ」など、多くの傑作を発表した。電線に対する執念はかなり強く、昭和41年に鎌倉へ行ってからも描かれている。平成8年、遺族から油彩画、水彩画、デッサンなど多数の作品が横須賀市に寄贈された。

 「朝井閑右衛門」の著者門倉芳枝さんは、その「忘れ難い言葉 今も残る言葉」として、「・この家にきたら常識をはずせ 先ず挨拶をするな 気配で示せ ・感動なくば描くべからず ・時を逆さにして見よ ・いじけるな、達者になるな」などをあげている。

 

 

 

名主・石川清右衛門

 15代続いた名主の石川清右衛門家は、御場谷戸(おんばがやと)、旦那谷戸(現在は田浦町4、5丁目)一帯が屋敷だった。江戸時代、代官の田戸庄がお出ましになり名主の家で裁判が行われ、お仕置きの声が外まで聞こえたという。静円寺は石川家が建立。石川家が名主を続け、村いちばんの旦那さまということから、いつしか一帯の谷戸が「旦那谷戸」と呼ばれるようになった。

 

戸の橋田浦町4丁目)

旧浦賀道沿いの田浦町4丁目17番地付近(旧日の出湯近く)に小さな橋がある。江戸時代、大水が出て土橋が流されてしまったが、浦賀奉行がお通りになるということで、盛福寺の山門の扉をはずして橋にしたと伝えられている。以後、この川を「戸(と)の川」、橋を「戸の橋」と呼んでいる。

 

御倉橋(田浦町3丁目) 

 社会館裏手の田浦町3丁目12番地付近の高熊川にかかっている橋。江戸時代、代官や村役人がきびしく年貢米を取り立て、保管するための米の倉庫が近くにあったので、「御倉橋」(おくらばし)といわれたという。


松竹庵酔月句碑 

 盛福寺境内に俳人・松竹庵酔月句碑がある。昭和17年、船越の松竹庵梅月の死後、梅月に師事していた酔月(本多隆)が2代松竹庵を受け継ぎ、太平洋戦争中にもかかわらず俳道の再興に努めた。昭和27年、盛福寺前の自分の庵で亡くなる。辞世の句は、「夏影の奥に御法(みのり)の光(か)げ深し」。

    

判官城址 

 城の台の南、十三峠から按針塚にいく中央右側の高台に判官城址がある。北条時代に塩谷判官正憲が城壁をつくり居住したが、小田原北条氏のために亡ぼされたという。判官城はその後「半ケ城」(はんがしろ)と呼ばれた。以前は「半官城址」という案内板があったとされるが、現在はない。

 

白狐(しろぎつね)稲荷 地図P18 - 45

 城の台の北側のがけにあるシイの大木の根元(田浦町2丁目28番地付近)に、白狐稲荷がひっそりとある。鎌倉幕府の重臣秋田城之介が城の台の屋敷で観月の宴を催した。小姓に化けた狐が唐衣がひく琴の音にさそわれて聞いていたが怪しまれ、斬り殺され頭部を城の台の森の大木に白狐稲荷として祀られた。

泉稲荷 

 判官城(現在は半ケ城)下(田浦泉町18番地付近)の大きな木の下にある稲荷で、唐衣と白狐の伝説に出てくる胴体を判官城の真下にあたる場所の大樹のもとに稲荷神社を建て、まつったと伝えられている。横に由来が書かれた立て札が立っている。

         

開拓記念碑 

 十三峠から安針塚へ向かう坂道の途中右手に「開拓記念碑」ときざまれたりっぱな石碑がある。碑のうらに「十三峠開拓農業協同組合」とあり、昭和32年1月に建てられた。このあたりを新しく切り開いて、農地などをつくり始めたのは戦後のことだ。戦後の食糧不足の対策として、自作農創設特別措置事業法が公布され、農地開拓の一環として県の指導で開拓事業が行われた。昭和23年に開拓組合によって鍬入れ式が行われた。当時の入植者は20世帯で掘っ立て小屋を建て、ランプの下で寝起きしたという。

    


 

田浦の木遣り

 田浦の木遣り・囃子は、慶応年間に地元有志が川間(現在の西浦賀)の先駆者から習得し、地元の保存会によって今なお伝えられている。木遣りというのは木を遣り渡す(運ぶ)という意味で、重い木や石を大勢で運ぶときに息を合わせるために歌ったもの。もとは,労働歌だったが、のどの良い者たちが酒宴などで披露するようなって、祝い歌としての性格をもつようになり、建前や祝儀、祭礼などの練(ね)り歌になった。

 戦前、祭りのときには、山車の前の稚児行列の前に祭半天、花笠、股引、腹巻、草履で口もとに扇をあててしゃなりしゃなりと歌いながら歩いた。消防組の事務所で木遣囃子を練習したという。戦後は、長年使用された山車は破損したため、トラックに紅白の幕を張りめぐらし、囃子の太鼓と笛とともに、木遣りが車上から歌われている。歌い方は、歌詞の1節を「師」といわれる先輩が歌いだすと「側」といわれる他の一同が「師」とともに第2節を唱和する。歌詞は約30種類もあり、同じ歌詞でもメロディは5〜10通りもあるという。 

 石渡藤吉氏口伝「布目」:「向い小山に光るは何よ 布目こまんが塗り傘なれば 布目こまんが塗り傘なれば 一夜かりよとも  主と共に 富士のお山にちんちらつくは 御山行者か 白鷺か・・・・・(以下略)」 

 

JR田浦駅前の桜 

JR田浦駅前には、淡黄緑色と変わった花の色で八重咲きの里ざくらの一種の「御衣黄」(ぎょいこう)の桜が見られる。これまで、よく似た品種の「鬱金(うこん)」といわれてきたが、最近では鬱金は誤りで御衣黄であるとする説が有力になっている。樹齢約50年。4月下旬が見ごろで、あたりの桜が葉桜となるころ咲くので見すごしやすい。

小林牧場 

明治から昭和初期まで、城の台の山すそにあった。当時の牧場は、丸太材をつなぎ合わせた柵の中に乳牛45頭などが放牧されていたという。牛乳はびん詰めにされ「小林牛乳」として販売・配達された。当時、牛乳は高価な飲み物で、病人や幼児・乳児の飲料であった。現在、この地は住宅地になっている

昔の池の谷戸 

明治37年水雷術練習場が現在の関東自動車工業の位置に移転するまで、この地域一帯も池の谷戸といい、丸山や宅地があったという。

 昭和初期、池の谷戸の斜面にびわ園があった。収穫期には夕方、トンネル口の左側で安売りをし、お客には造兵部の職工さんも多かったという。池の谷戸は田浦の谷戸では狭い方だが、大正時代から奥にテニスコートがあったり、当時の先端をいく職業の写真館や食料・雑貨・米酒・塩・味噌、郵便局を代行して赤ポストを置き、切手・ハガキも販売した商店などもあり、田浦でもすすんだ地域であったようだ。

横横道路 

 三浦半島をつらぬく高速道路の開通は、横須賀市民にとって長年の悲願であった。昭和59年、横浜横須賀(横横)道路として開通。逗子・衣笠間は山間部を通るため、山をけずった部分が多く、また谷戸の上に高架橋を上り下り14カ所設けた。最高は、高さ60メートルの田浦第2高架橋(田浦大作町)で、鉄製の橋脚を斜形にして橋を支える構造(方杖ラーメン橋)になっている。

  

小田原北条氏代官屋敷跡

 小田原北条氏の代官屋敷跡が現在の田浦大作町自治会館近くの田浦大作町15番地付近にあったと伝えられている。初代は菅谷源次郎が治め、小田原城が豊臣秀吉に収められた後、徳川家の所領となったが、その子孫が田浦の里に長く住み継いでいたという。

 

轢死者・溺死者追弔塔 

 田浦町4丁目の静円寺踏切のわきにある。列車にひかれて亡くなった人や水の事故で亡くなった人の霊をなぐさめるため、大正13年9月に在郷軍人会田浦町分会田浦班によって石碑が建てられた。

          

 

JR七釜トンネル 

 JR田浦駅の下りホームとつながる七釜トンネルは、JR横須賀線の人気のトンネルの一つだ。明治、大正、昭和と3代のトンネルがあり、顔だちがそれぞれちがう。
  一番古いのは中央のトンネル(下り線)で、
横須賀線開通の明治22年に完成。その後、電化により大幅に改造されてしまった。次は大正13年の複線化により増設されたみごとなレンガ造りである(上り線)。一番新しいトンネルは、昭和18年の戦時中に、海軍の要請で造られた軍需輸送専用の引込み線でコンクリート製だが、いまは廃線となっている。この地は字「失鎌」だが、蒸気機関車の「釜を失う」をきらい、当て字の「七釜」に変えたと伝えられている。




大震災殃死者群霊宝塔 

 田浦町6丁目の素掘りの旧船越トンネル入口わきにある。大正12年の関東大震災でトンネル内の落盤のため亡くなった人の霊をなぐさめるため、大正13年9月に在郷軍人会田浦町分会田浦班によって石碑(供養塔)が建てられた。




関東大震災のころの田浦

 「わたしたちの田浦」によると、そのとき、屋根のかわらがバラバラと落ちたり、家はかしいだりして、人々は驚いて逃げようとしたが、地面が大きくゆれて歩くこともできなかった。はいずって、山の上の畑に避難したりしたが、中には、逃げ場がなく、田浦町の3丁目の静円寺のあたりのJRの線路に避難した人もいた。田浦町では、建物がかしいだぐらいでおさまったようだ。

箱崎半島にあった重油タンクが燃え、空一面真っ黒なけむりでおおわれてしまったのが、田浦の町からも見えたという。やがて、地震がおさまり、食糧の配給所が設けられ、米や乾パンなどが配られた。


のの字坂 

 JR田浦駅を下りて国道16号線を横切り、まっすぐに山の方向へ歩くと、約5分でこの道が立体交差するところが「の」の字になっていることから、土地の人が呼ぶ「のの字坂」だ。戦前、城の台砲台を築き、物資を運び上げるためにつくられた道路である。道をつなぐ陸橋を「のの字橋」(いわゆるループ橋)といい、はじめは橋も木製であったという。ループ(輪)は、直径40mぐらいで、輪の中は児童公園(田浦1丁目公園)になっている。桜の木が植えられ、春は美しい。1回転半以上まわって登った先は、旧浦賀道・十三峠となり、東京湾を望むハイキングコースとなっている。


阿部志郎氏

 横須賀基督教社会館館長。大正15年東京青山で、後に青山学院長をつとめる牧師の子供として生まれる。終戦後、一橋大学に進み社会事業への道をめざし、アメリカに留学、ニューヨークの施設でボランティアをする。昭和27年、アメリカから帰国し、明治学院大学助教授として教壇に立つ。
 横須賀基督教社会館の初代館長だったトムソン氏とはアメリカ留学中に知り合ったことが縁で、横須賀へ来るようすすめられ、昭和32年トムソン氏が辞任し、阿部志郎氏が館長に就任する。誠実な人柄と深い学識は、多方面の講演活動や著作などを通して、多くの人々の心に感動を与え続けている。平成15年4月から神奈川県立保健福祉大学初代学長。田浦町1丁目在住。

        

田浦緑地記念碑 

 この碑の建つ田浦梅の里(旧田浦緑地)は、昭和51年、碑の表に刻まれた詩の作者石川宏さんが横須賀市に寄付された山林約36万平方メートルを中心に造成・整備された。石川さんは先祖代々、地元の田浦町に住む大学教授、詩人である。「土の呼吸を肌で感じる丘の広場に 私は 翳りなき魂の故里をみる」。碑は昭和61年に建てられた。

   


 

 

善太の店 

 明治から大正にかけて、田浦町2丁目に「善太の店」と呼ばれる」雑貨屋があった。屋号は「ミセ」とか「ゼタミセ」。江戸時代は、浦賀道をとおる旅人の休憩所だったという。店の正式の屋号は「室崎屋(むろきや)」という。5代目善太郎氏が店を開いたのは、代々名主役を務め終わってからのようだ。明治22年の横須賀線開通以後、人通りが少なくなり、また大正の初期に国道(現在の16号線)が開通したことによって、浦賀道も忘れさられていった。そのため、昭和のはじめには、閉店してしまった。現在、善太の店があった地は駐車場になっている。

 

矢落(やおち又はやおとし)山 

 高熊川の源流地であり田浦泉町谷戸の奥にある山は、昔は矢落山といわれていた。東は葉山の畠山に、西は桜山や二子山に、南は木古庭に、北は浦郷に通じている。「矢落」の由来は、弓にすぐれた源為朝は保元の乱で敗れ、とらわれて伊豆の大島に流された。あるとき、弓を引く力がにぶっていないか確かめるため、力いっぱい遠くへ射った矢がこの地に落ちたとかや畠山重忠にまつわるもので、攻防両軍の矢が落ちたところといわれている。 
  戦前は、木古庭から温泉谷戸に出て、船越の海軍工廠造兵部まで歩いて通った人がかなりいたそうだ。また、畠山、木古庭、山口、桜山、二子山方面へ山仕事や山菜取りなどの人の出入りが多かったという。
付近一帯は山野草が自生し、珍しいコタニワタリなどのシダの宝庫としても知られている。

田浦泉町にあった萱(カヤ)場 

 田浦泉町の奥の旧石切山の奥に萱の群生地(萱場)があった。昔は、この萱を使って屋根の修理やふき替えをした。この萱場は、地元の人たちが大切に守り、共同で管理していたようである。古老によると昭和のはじめ頃、田浦泉町や田浦町2丁目付近で萱ぶき屋根の家は、30数軒あったという。この萱場は、山百合のたくさん見られる場所でもあったらしい。


地蔵尊像 

 田浦トンネルの上り線出口に3体の地蔵尊像が祀られている。その中の1体は、大正時代にトンネルの中に放置されてあった無縁地蔵尊を住民の一人が祀ったもので、昭和20年ごろ、近くに住む有志の人たちが会を発足させ、毎年住職を招き供養を行っている。交通量の多い場所なので、事故から身を守ってくださるようお参りする人もが多くなったという。通学路でもあるので、子供たちが頭を下げ手を合わせ拝んでいる姿も見受けられる。

     

旧海軍の標柱 

 盛福寺の前は、水道路である。明治に軍艦の製造が盛んになると、走水からの水道だけでは不足し、相模川の支流の中津川からも補給することになり、逸見浄水場が造られた。そして水源地の愛川町半原から逗子市沼間を経て、田浦、長浦、逸見までの水道管を明治45年から10年間かけて敷設した。現在、海軍水道の敷地の境界を示す「海」を刻む石柱が、田浦町4丁目の京急ガード下の道路沿いに数ヶ所、残されている。

      

田浦観音堂 

 田浦山盛福寺前の水道トンネルを出て右側の階段を登ると、駐車場に出る。さらに階段を登ったところに杉林に囲まれひっそりと観音像を祀ったお堂が建っている。昔、このあたりには、守り神として馬頭観音が祀られていたが、戦前、軍がトンネルを作るとき埋めてしまったそうだ。戦後になって田浦在住の婦人がある夜、観音様が夢まくらに立ち、埋められたところがわかった。その人が成田山の住職に相談し、田浦観音と名づけた像を彫ってもらった。昭和36年にお堂が完成し、稚児行列をくりだして観音様を奉納した。古老によると、昔は下の現在駐車場になっているところ(当時は広場)に舞台が造られ、いろいろな催し物が行われ、出店もたくさん出て、大変なにぎわいであったという。
 お堂内の観音様は木像で、奉賛会の人たちが維持している。
    



 


御嶽(みたけ)稲荷神社 

 国道16号線から田浦小学校方面への道を行くと、右手に古い庚申塔があり、そのすぐ先に赤い鳥居が見える。御嶽(みたけ)稲荷神社で、もともと静円寺の鎮守として境内にあったものを、明治のはじめの神仏分離令により現在地(田浦町3丁目)に移された。静円寺が管理し、現在も初午には稲荷講の人たちが集まり供養されている。
 急な階段の上にある社殿の周囲には、スダジイなどの常緑樹が生い茂っている。

     

鈴木明仙句碑 

 長善寺境内に、俳人鈴木明仙の「池涸れて石にぬしある寺苑かな」の句碑が立っている。明仙は本名を敬明という。山梨県の人で大正10年田浦町に移り住み、2代松竹庵の本田酔月について俳句をならい、松風軒明仙と号して昭和26年「松の華」という俳誌を創刊している。同じ年に3代松竹庵となり、昭和31年、58歳で亡くなった。辞世の句に「愛しさや曙を啼く巣立鳥」がある。

     

広重の「田浦の里」

  安藤(歌川)広重は寛政9年(1797)〜安政5年(1858)に活躍した浮世絵師の第一人者である。

  作品には、「武相名所旅絵日記」をはじめ、一躍世に名をなし不動の地位を確立した保永堂版の「東海道五十三次」や「東都名所」、「近江名所」、「木曽街道六十三次」、「名所江戸百景」などの数々の名作がある。
  嘉永6年(1853)広重は三浦半島にも足を運び、「武相名所旅絵日記」に「大津」、「浦賀総図」、「三浦の郷」、「毛見(逸見)の山中風景」、「田浦の里 農家に休足」と「浦賀道.田浦山中」などを描いた。「田浦の里 農家に休足」の絵は、4人旅の折の絵で、田浦の農家にひと休みしたとき、主人が「記念にご一筆を」と紙を出すのに、心安く矢立の墨を使って筆を走らせているようすが描かれ、ほのぼのとした温かいものを漂わせている。

  眺めのすばらしい十三峠は、広重も描いている。「浦賀道 田浦山中」は古道の浦賀道をたどり、昼なお暗い難所の山道を越えて十三峠の山頂に立ち、眼下に繰り広げられた風光明媚の眺望、遠くつらなる房総の山々に目をうばわれ足をとめて描かれた絵である。