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インタビュー:大井浩明(全文版):"辛口の現代曲が無いとお嘆きの貴兄に、辛口のクセナキスを贈ります" このインタヴュー全文版は2002年5月7日に、録音を終えほっとしたた大井さんとリュクサンブール中央駅前のヴェトナム料理屋でビールと紹興酒で乾杯、昼食をとりながら収録した、大井さん自身言うところの「紹興酒飲みながら、各方面 メッタ斬りにした爆裂放談」のテープを下敷きに、それを基本線として使っていますが、その後スイスの大井さんとのメール交換により多少の加筆・訂正を行っています。本稿を素材として、クセナキス関連にテーマを絞って再構成したインタヴュー稿が、別 項の『レコード芸術』用インタヴュー記事(ダイジェスト版:2002年11月号所収)です。 (インタヴュー・構成:木下健一) |
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コンテンツ
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序章:…「おかはいさうに」の美学みたいのがあって
木下=現代音楽を専門にピアノをやる人って珍しくない?どういうきっかけでこうなったわけ?…
大井=ええと…ですね…ええ〜、ううん…
木下=…なんか独学なんだって?
大井=そうなんでございますね。それでですね…、
木下=独学でピアノなんて弾けるようになるの?…。オレだって先生に就かされたぜ。
大井=ならないから困っていたわけだが(笑)…。ただ、初めに申し上げておきたいのは、僕は一応1996年の秋にベルン音大に来て、いちおうそこの…。
木下=その前は、日本の音大なんかにも行ってなかったわけ?…、趣味で弾いていたというか、それとも先生なんかにも就いてなかったの?
大井=就いてなかったんですね。
木下=おいおい、それって、ちょっとスゴくない?…。僕の知ってる中じゃ、イタリアのジョヴァンニ・ベルッチというのが独学というふれ込みで、15歳くらいに突然、ピアノに目覚めて、ベートーヴェンのソナタ全曲を暗譜してピアノが弾けるようになったというのがいるんだけれど、10年くらい前モンテカルロのコンクールで注目された奴なんだけど、僕はあれは眉唾なんじゃないかと(笑)…。
大井=でも、昔の、古き佳き時代のゴドフスキとか、パデレフスキにしても、ピアノを始めたのは遅かったわけだから、当時は現在のように、音楽学校で何歳までにここまでのステップを踏まない限り、プロになれませんというのとはちょっと違っていたわけですね。
…つまり、何が言いたかったかというと、私は自分が独学であるということを売りにしようとは思ってないんですよ。事務所のサイトの経歴がああなっているというのは、1996年にベルンに来て4年間、そこの一番上のソリスト・ディプローム課程というのを終わったんですよ。だから、一応ベルン音大で訓練は受けましたし、卒業試験も通 りました。だから、今ベートーヴェンの後期のソナタを弾けと言われれば弾けるし、モーツァルトのコンチェルトを弾けと言われれば弾けるわけですね、ある程度の安定度をもって…。だから、今なら、今の演奏に関してなら独学でしたということを言ってもいいんだけれど、スイスに来る前は、独学とか何とかは一切書かなかったんですよ。つまり、例えば僕としては、独学の人にお金を払いたくないから…。やっぱり2歳の時からお母ちゃんにぎゃんぎゃんやられてきたミドリちゃんみたいな人にお金を払いたいっていうのが心情でしょう。なおかつ、今のクラシック音楽の風潮として、例えば、片耳の聞こえないピアニストとか、知恵遅れの作曲家とか…、木下=…こっちだったら、サリドマイドの歌手とか…。
大井=…そんなのあるの?…
木下=トーマス・クヴァストホフ…。僕はあまり好みじゃないけど、すごく優れた人だぜ。
大井=…「おかはいさうに」の美学みたいのがあって、和波孝禧さんのヴァイオリンと梯剛之君のドゥオを主催するみたいなノリなわけですよ。
木下=…それって、ちょっと悪趣味じゃない?…。なんかやたら日本的じゃない?…。一度フランス国立管で、ジェフリー・テイトの指揮でレオン・フライシャーがピアノ弾いたんだけれど、悪い奴が、身体障害者の共演だ(笑)なんて言ってたけれど、別 に、だから…ってことはないやね。そりゃ、ジェフリー・テイトが指揮台に立つのを初めて見る人はビックリするみたいだけど、だからといってテイトが過大評価されるってことはないやね。むしろ過小評価されてるくらいだね(笑)。
大井=ねえ!。梯側はかなり嫌がったという話なんですけど…、ただ、見てる人たちは感動の嵐なわけですよね。確かに、見ると素晴らしいと思うんだけど…それに実際、梯君は大変良いピアニストなんだけれど、彼はレパートリーとしてシューベルト、モーツァルトの人なんで、ショパンの《スケルツォ》の人じゃない可能性がある。…それが、あれだけ有名になっちゃうと、大ホールでショパンの《スケルツォ》を弾かなきゃならない羽目になってしまう…、まあそれはともかく…それから、例のデンオンの、可愛い女の子に美空ひばりを弾かせて、同時にライト・クラシックもやらせるといった…そういうことがあまりにも主流になりすぎている…。
それはそれで他人の商売だから、第三者の私が批判する筋合いではありませんが、少なくとも自分は活動を始めるにあたり、正規の早期音楽教育を受けないまま普通 大学に行っていたことを「キャッチ・コピー」にしたりするのは、馬鹿の極みだと思ったんです。もっとも、普通 大学に行ってその後音楽家になるなんてのは、欧米ではよくあるケースですけど。そうそう、武久源造さんなんて素晴らしいチェンバリストだけれど、彼はメクラを売りにメイジャーになったわけではないですよね。木下=実は、僕が今ここにいるといういのは、クセナキスの管弦楽曲がシリーズ物で録音されていることへの興味もさながら、名前も知らなかったような日本人若手ピアニストが、それも亡くなる前の作曲家自身の推薦で参加しているということがあったわけ。大井浩明ってのはどんな野郎なんだ?…、と興味津々でやって来たわけです。確かに、高橋悠治、アキ兄妹を筆頭に、クセナキスは日本人演奏家と縁が深いですよね。小澤征爾もパリ管で演ってるし、藤井一興がパリで弾いたのを聴いているし…、そういうコネクションかな?…とも思ったんですが。ただ、第一回メシアン・コンクール入賞者だというから、メシアン・コンクールといえば、ミシェル・ベロフやピエール=ロラン・エマールを輩出したコンクールというわけで、その第一回といえば、もう70歳くらいのおじいちゃんじゃねえの?…とかね。きぇーっ、そんな大ヴェテランの名前まで知らなかったと一旦は焦ったんだけれど、大井さんのサイトを覗いてみたら1968年生まれというから、安心してやって来た(笑)。
大井=そもそもこんなお話をいただくのも、突然のことだったので本当にビックリしました。じつは1996年7月に新日フィル定期(東京文化会館、オーチャードホール)で、同年11月に京都市響定期(京都コンサートホール)で、井上道義指揮により《シナファイ》を演奏しているんです。京都公演は、KBS京都放送により録画され、関西地方で2度放映されたんです。そのビデオと、3公演DATをサラベール出版社経由でクセナキスさんに送ったところ、噂に聞くところでは、どうもそれを御大が褒めたらしい。追って、サラベール社で顧問を務めておられるラドゥー・スタン氏から電話があり、クセナキスが喜んでいた由。同時に、スタン氏からクセナキスの譜面 なら何でも無償で送る、との申し出があり、ご好意に甘えて幾つか送ってもらったんです。昨年(2001年)6月のピアノ協奏曲《エリフソン》日本初演に際しても、多大の御協力を賜ったわけです。その《シナファイ》テープやビデオはパリ国立図書館内に移管されているというクセナキス・アーカイヴに所蔵する、と言われたのです。そのことをサラベール出版の人が憶えていてはって、実際に、あるピアニストがサラベール社に《シナファイ》の録音テープを照会すると、プロモーション用に渡されるのは私の録音だったという話です。そんなわけで、 Timpani レーベルが《シナファイ》を弾けるピアニストを探していたところ、サラベール社から推薦で、「クセナキスが評価していた」旨の証言(?!)も添えられていたので、突如、無名の東洋人が抜擢された、というわけなんです。
「吉本しゃべくり漫才路線」(笑)
木下=大井さんは今スイスのベルンの音楽院でブルーノ・カニーノさんに就いていらっしゃるんですよね。そういや、カニーノさんもクセナキスを初演されていたと思うんですが、僕なんかは専らベリオ弾きとしてしか知らない。そこでですね、大井さんのサイトを覗いてみたらですね、大井さんのレパートリーのリストが載ってまして、それを見るとベリオが一曲も入っていないじゃないですか!。
お嫌いですか?…。僕はこないだ庄司紗矢香ちゃんにインタヴューした時、指揮者ベリオと共演している彼女に、ベリオに一曲作ってもらいなよ、なんてけしかけているんですが、将来ベリオの新作で、紗矢香ちゃんと浩明君の共演なんてことがありましょうか?…。大井=…一回共演したくらいでなにも彼女がベリオの近作を弾いてあげる義理はないんじゃないかと(笑)…。
いい批評を教えてあげましょう。ブーレーズからシュトックハウゼンへの書簡というのがあって…、バーゼルのパウル・ザッハー財団が持っているんだけれど、若き日の可愛いシュトックハウゼン少年にブーレーズちゃんが宛てた書簡の中にベリオぼろくそという一節があって、どう言っているかというと、ツェルニーみたいだって言ってる。だから、自分たちはベートーヴェンかモーツァルトだと思ってったんでしょうね(笑)。ツェルニー、という形容は、なかなか言い得て妙だと思います。すなわち、饒舌であることそれ自体が目的になっているかのような、書法の表面 的複雑さ、華麗さ。私は、ベリオ、ドナトーニ、シャリーノなどの、特にピアノ作品の作風を一括して、「吉本しゃべくり漫才路線」と呼んでいますが(笑)、タカタカタカタカタカ…みたいな。「やあ今日はほんまによう来てくれはりましたな、やあ、暑いでんな、暑いでんな…」みたいな感じで、それ僕は非常によくわかる。ここ四半世紀のブーレーズの作風が、どんどんベリオ化しているのを見るにつけ、感慨深いコメントです。勿論それはそれで聞いていて非常に楽しく賑やかな音楽です。しかし私が取り組む仕事ではない、と思っています。それを弾く人が沢山いるから、なにも私がわざわざやらなくてもいいし…。木下=「吉本しゃべくり漫才路線」というのこそ、言い得て妙、というところですが(笑)、僕の場合もベリオを〜多分〜最初に聴いたのが《シンフォニア》でして、まさにそのブーレーズ大先生の指揮だったですが、あれこそまさに、おっしゃる「吉本しゃべくり漫才路線」の最たるもので、僕はああいうのは結構好きなんですよ。
大井=《シンフォニア》はちょっと毛色が違っているけれど、やはり「しゃべくり漫才」的なところもありますね。だからこそ(笑)、いまやラトル指揮ベルリン・フィルを初めとして大流行なのでしょうか。
カニーノ氏は特に50年代、60年代、ベリオ、ドナトーニを中心とする相当広範囲な現代音楽を手がけていらっしゃいました。一方、例えばノーノ、クセナキス、グバイドゥーリナなどにはシンパシーを感じないし、すすんで演奏しようとは思わない、とも仰ってました。これは興味深い。
「ブーレーズ、シュトックハウゼン、リゲティ、クセナキスの鍵盤作品のほぼ全てが、これほど名曲揃いであり、しかもいまだに一般 のレパートリーには全く入っていない」
私は英才教育を受けたわけでも、音楽大学に進んだわけでもなくて、たまたままづは「現代音楽演奏」で活動を始めました。今も、メインはモダン作品だし、目下勉強している古楽を一通 りやりおおせても、最終的には自分の得意ジャンルはモダン演奏になるだろうと思っています。現代音楽演奏家のなかには、「モダンのエキスパート」と呼ばれるのをなぜか毛嫌いして、「私は現代音楽のエキスパートではありません。音楽のエキスパートなのです」とわざわざ訂正したがる人もいます。そういう人に限ってバッハが弾けなかったり(笑)…。私としては「現代音楽のエキスパート」と呼ばれることに何の抵抗もありません。ただ、呼ばれるからには、「現代音楽なら何でも演奏出来るようにしたい」とは心がけています。そこで当然、「紹介・再演する価値が高いのに演奏される機会が稀である」ものにスポットを当てようとした結果 、私としては余り評価出来ないが演奏頻度だけは高い「しゃべくり漫才系」を、後回しにする結果 となりました。
ブーレーズ、シュトックハウゼン、リゲティ、クセナキスの鍵盤作品のほぼ全てが、これほど名曲揃いであり、しかもいまだに一般 のレパートリーには全く入っていない、ということで、私の「遊び場」には事欠かないのです。ケージの一部も素晴らしいし。木下=そこいらあたりのお話をきっかけにおいおいクセナキスへと話を持っていこうと思っているんですが、その前に、これは、聴く方と演る方の本質的な違いだと言ってしまえば、それまでなんですが、つまりベリオあたりに係わり合いになっている暇はねえよ。ということはよく判ります。ただ、僕みたいに聴く方一辺倒サイドからすると、それではあまりにもつまらないわけ。つまり、音楽史というものは、それこそ、モンテヴェルディ辺りから話を始めると、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン…ワーグナー…おっしゃる「ブーレーズ、シュトックハウゼン、リゲティ、クセナキス」…と超天才の作品だけから出来ているのではないわけ。
グスタフ・レオンハルトが一度、後半でJ・S・バッハを弾く前に、前半で、それこそ、名前さえロクに知られていないような〜…といったってゲオルク・ベームなんかも入っていたから、必ずしもそう無名な人ばかり弾いたわけでは決してないんですが…〜作曲家たちの作品を採り上げ、それが結構いいわけ。それで、後半にバッハを弾くと、ああっ!…ってなことになるわけなんだけれど、ただ、前半をよく聴いていると、ただ単に、群小マイナー楽匠の有象無象から、巨人バッハが抜きんでて現れたということばかりが言いたいわけではないわけ…だと思うんだ。群小マイナー楽匠群というのは、それはそれで、大バッハとは全然関係なく面 白いんだよね。というか、僕らにはそう聴こえるわけ。また、音楽史上の巨人、超英雄ばかり聴かされるわけでは決してない。それがバロックを聴く醍醐味の一つでもあるわけなんだけれど…。
まあ、大井さんみたいに、こいつらのために一生を捧げるのはゴメンだぜ、というのは非常によく判るんだけれど、逆から言うと、大井さんというのは柄にも似合わず、「ニッポン浪漫派」(笑)なんじゃないか?…。つまり、おっしゃることは、ロマン派直系の英雄主義と紙一重なんじゃないか?…という疑問が湧いてくるんだよね。吉本は吉本でも、大井さんの場合は、吉本興業じゃなくて、吉本隆明なんじゃないかと!(爆笑)…。我ら全共闘世代(爆笑)としては、大井さんの世代に昔の吉本隆明的感性を持った人が輩出してくるってのは、非常に嬉しいことでもあるんですが…。大井=吉本隆明的感性というのも吉本興業的感性というのも、出来れば避けたいところ…(笑)。
木下=…いや、昔の吉本隆明的に、やっぱり老舗はすごいと、すごい奴はすごい、「吉本しゃべくり漫才路線」なんてちゃんちゃら可笑しいや、とはっきり言う人も必要だよ。皆が皆「吉本しゃべくり漫才路線」一辺倒になっちゃったら、そりゃ面 白くないよね。僕は、ミニマル、わりと好きなんですが、年がら年中あればっかり聴かされたら、そりゃ、ウンザリするよね。
大井=「良いモノは良い(悪いモノは悪い)と頑固に言い続ける」のを「吉本隆明的感性」と呼ばれるのには「2002年現在としては」異論がありますが話が前に進まないので先へ進めます。
論点が幾つか出てきたので、総括的に。まず、日本人ピアニストとしての「仁義」というものがあります。私のモットーは、「駄 作を弾くのは、邦人新作でたくさん」(笑)。しゃべくり漫才系であっても、それが日本人作品、アジア人作品ならば、それらを委嘱・発掘・演奏する義務が私にはあると考えます。
レオンハルトが演奏会後半でJ.S.バッハを弾いたら、「ああっ!〜」と思っちゃうのは仕方ないところもあります。他方で、ルネサンス以来の自由な音の戯れが、ラモーとJ=S・バッハのせいでガチガチに凝固し方向付けられてしまい、それが西洋音楽として歴史的に継続している、という見方もあるでしょう。ヨーロッパで「受ける」日本人作品、「受けない」日本人作品ということと平行現象ではないでしょうか。
なお、ブーレーズ、シュトックハウゼン・リゲティという人々と、クセナキスという作曲家のスタンスは全然違います。前者がいわゆる西洋メインストリームです。私はそのどちらにも興味があります。木下=そのあたり、聴き手側としては非常に興味深いところなんですが、ブーレーズ、シュトックハウゼン、リゲティ、クセナキスというという選択は、どういうところから出てきたんでしょう?。…と言うか、大井さんの「評価の基準」と言っちゃったらなんですけれど、大井さんをやる気にさせる作曲家、作品というものはどういうものなんだろうねえ?…。武満とケージが入って、メシアンやミニマルなんかは入ってないし、僕の感じでは必ずしも現代音楽のエキスパートとして当然押さえておかなくてはというだけのことでもないようですが…。その辺を僕なんかにも判るように説明できませんか?…。
「問題は、往々にして武満・メシアンが「スクリャービン風」の前世紀的スタイルで解釈されがちであり、またクラシック編成のポップスを聴くぐらいならその辺のロック・バンドの方が遥かにオモロイっちゅう点です」
大井=要するに新鮮で面白いからです。「五月革命が終わって僕らは生まれた」世代には、あらゆる音楽情報はすでに所与のものであり、ヨーロッパ追随とか、日本伝統に「回帰」という発想自体がありません。また、「制度」なるものに「抵抗」することが良心の存在証明、などと、21世紀にもなって信じているわけもない。例えばブーレーズ初期作品やシュトックハウゼンのオペラ抜粋を演奏あるいは聴取する、ということは、我々にはまったく新しい体験なのです。明らかに他の作曲家たちとは質が違う。
ちなみに、10年前に活動を始めたころは、メシアンもミニマルも弾いてましたよ。《時の終わりの四重奏曲》なんか、人前で全曲、しかもチェロ・パートを演奏したし(笑)。武満チクルスも計3回プロデュースしました。そういえば、パリまでメシアン・コンクールをノコノコ受けに行ったときには、イヴォンヌ・ロリオ審査委員長から、直々に「解釈についての苦情メモ一覧」を頂戴いたしました。それを唯々諾々と受け入れようなんて夢にも思わないところが、これまた私の度し難さ(笑)。木下=あっはっは!…それは、メシアン一家らしい。だいたい、小澤征爾が世界初演した《アシジの聖フランチェスコ》の時だって、御大がしゃしゃり出てきて、なんだかんだと演出に口を挟んでくるわけよ。天使登場の場面 は豆電球かなんんかでチカチカいかなくちゃならない、とかね。ところがね。あれが初演になったパリの旧歌劇場ガルニエ宮の裏手はギャルリー・ラファイエットだとかル・プランタンのあるデパート街なんだよ。それでこのオペラが世界初演された12月というのはクリスマス・年末大バーゲンセールであっちじゃ、ネオンサインが派手ばでしくチカチカやってるわけ。それが舞台の真後ろくらいにあることことをお客さんは誰でも知ってるから、豆電球チカチカで天使が登場すると、これはもう大爆笑なわけよ。特に、メシアンが抱いている天使のイメージってのは、牧歌的なフラ・アンジェリコみたいな天使じゃないでしょ。もう極彩 色で金管なんかがぎゃあぎゃあ鳴りわたる派手ばでしい天使でしょうが…。だから、僕らはあの後ろでやってるクリスマス・バーゲンセールを想像しちゃって、これはもう…可笑しい(笑)。これは、お呼びでないところで作曲家が所有権を主張してしゃしゃり出てきたおかげで、そうなるべきではないところで期せずして「吉本大漫才」が始まっちゃった例。そうではなく最初から「吉本しゃべくり漫才路線」でいくと、そうはならないんだよ。最初から、あの後ろでデパートがバーゲンセールをやってるのを演出家が知ってて、舞台奥が開くと、あっちではギャルリー・ラファイエットのイルミネーションの切れっ端がセットしてあってチカチカ始まる(笑)。これはダニエル・メスギッシュ演出版リゲッティの《ル・グラン・マカーブル》の一場面 です(笑)。…ゴメンゴメン。続けてください。
大井=メシアンがクリスマス・バーゲンセールなら、リゲティは『死霊の盆踊り』だったりして(笑)。
木下=…ところが、ちょっとマシな演出家の手にかかると、そんなのにならないから面 白い(笑)。マルクス兄弟総出演で、オペラ座の模型に火を点けたりたりして、あの阿呆くさい話を攪乱してまわる。リゲッティ自身もそいつに加担しちゃって、初演日に途中でプイと帰っちゃったんだ。さあ、狂喜したのが批評家連中で、早速「作曲家を裏切る演出家」なんてやっちゃったわけ。そしたら二日目からは、カーテンコールにリゲッティとメスギッシュが抱き合って、大満悦で登場してる!…。皆、あの二人にいっぱい喰わされたんだ(笑)。いっぱい喰わされなかったのは『ル・モンド』紙のジャック・ロンシャンくらい。「確かに、メスギッシュはリゲッティを裏切ったかも知れない。しかしながら私には舞台のこの充実ぶりを否定することはできない」なんて書いてたよね。
大井=とにかく、…ここ8年くらいは、自分でプログラミングした演奏会に、メシアンやミニマルを入れたことはありません。数年前、オランダでマイケル・ナイマンを弾かされた時には泣きそうになったけど… (笑)…。
木下=あっはっは!…オランダってのはああいうのが好きだからね。アンドリーセンとか…なんて言うとまた議論が逸れちゃうな(笑)…。
大井=最後に愉快なマーチやブルースが出てくる、というだけで、アイヴスやジェフスキー流の長々とした退屈なパッセージも我慢して練習出来ます、とかね(笑)。
…武満を含む「メシアン系」がもてはやされるのは、要はドビュッシー、スクリャービンの現代風代替物として消費されている面 が大きいと思います。また、「ミニマル系」というのは、自分でインプロ出来ないクラシック演奏家が、ウケもノリも良いミュージック・ポピュレールを堂々と舞台に乗せる口実が出来るからでは?…。吉松・ピアソラなんかもここに入れても良いかも。問題は、往々にして武満・メシアンが「スクリャービン風」の前世紀的スタイルで解釈されがちであり、またクラシック編成のポップスを聴くぐらいならその辺のロック・バンドの方が遥かにオモロイっちゅう点です。木下=その点は僕もジャズが好きですからよく判るな。妙にジャズを採り入れたただそれだけの現代曲やクラシックまがいのジャズを聴かされるよりは本物を聴く方がいいし、ドビュッシー、スクリャービンの現代風まがいを聴かされるよりは、本物の方がいい。山下洋輔の《ボレロ》は、まあ、やってくんない方がよかったんだけど、MJQのビラ=ロボス脚色《ブラジル風バッハ》なんて、御大バッハ大先生よりいいな…なんて例外もあるけど…(笑)。
大井=ホイナツカやティエンスーも、チェンバロによる「タンゴ・アルバム」なんかリリースしていて、嘆かわしいことこの上なし。たとえば、1950、60年代に「前衛」と呼ばれていた音響体は、ノイズやテクノといった分野では日常的に聞かれるし、若い世代に享受されています。東京に古楽器オーケストラが4つも5つもあるのは、古楽の聴衆層が確立しているからでしょう?…。演奏家のほうが聴き手の想像力に取り残されているのかもしれません。というわけで、「辛口の現代曲が無いとお嘆きの貴兄に、辛口のクセナキスを贈ります」。
木下=それから、ピエール=ロラン・エマールでメシアンの《幼子イエスへの二〇の眼差し》を聴いた時にはすごく後期リストを感じさせる演奏だったし、一頃前さんざんぱら持ち上げられていたアナトール・ウゴルスキが〜この人はメシアンの《鳥のカタロク》全曲を午後と夜の二度のリサイタルに分けで全曲弾いちゃったりするような人なんだけれど…〜メシアンとスクリャービンを並べた時は、なるほど、スクリャービンとメシアンか…なんて思っちゃうんだ。
大井=エマールのメシアンがリストかフランクみたいに響いたとしたら、それはメシアンが悪い(笑)。ウゴルスキのがスクリャービンみたいになるのは、あれはウゴルスキが悪い。一昨年(2000年12月)のメシアン・コンクールでも、実に見事な音色で、スクリャービン風に豊麗にメシアンを弾く旧ソ連ピアニストが大勢いました。さすがに本選には誰も残らなかったけれど。「まなざし」に関しては、一部に雑な面 があろうとも、やはり20歳のベロフの録音がダントツに素晴らしいと思います。天才的。あれ以上のものは、ライヴでもCDでも聴いたことが無いなぁ。22歳のイヴォンヌ・ロリオ姉ちゃんによる大戦中の世界初演というのは聞いてみたかった(笑)。この世ならぬ 響きがしていたかも。
24,25歳頃のブーレーズが探り当てた《ピアノ・ソナタ第二番》と《構造第一巻》の極北の美というのは、余人をもっても真似の出来ないページだと思います
木下=まあ、僕は、ドビュッシーはともかく、スクリャービンというのがイマイチ苦手だったんで〜どうも生理的に合わないみたい…、逆にウゴルスキにより、メシアン経由でスクリャービンを<発見>したりしてるんですが…(笑)。ナイマンやミニマルはともかく、往々にして僕ら、聴く側では、そうやって過去に、ブーレーズ大先生の言葉を借りるなら、「参照点」を求めつつ現代物に接することになるわけですが、やはりそこで気になるのが大井さんが「問題は、往々にして武満・メシアンが<スクリャービン風>の前世紀的スタイルで解釈されがちであり」とおっしゃる時の「前世紀的スタイル」と今世紀…否「前々世紀」風と「前世紀」風の違いですよね。大井さんにとってのこの辺りの違いをもうしすこしご説明願えませんか?…。つまり、僕の言いたいのは、現代におけるピアノ音楽の系譜を作る〜…そういうことは音楽学者に任せとけばいいわけですしね…〜というより、そういうことなんですが…。
大井=それは、「演奏様式とは何か」という、百家争鳴の問題ですね。が、実は分類は案外シンプルなものではないか、とも感じてます。すなわち、アテニャンからクセナキスにいたるまで、「良い演奏様式」と「だめな演奏様式」の2種類しかないのでは、と。
ピアノでいうと、何でもかんでもスクリャービンの前奏曲風に弾く、あるいはオケでいうと何でもかんでもマーラーのアダージェットにしてしまう解釈方法。しかも、モーツァルトの手紙を読む限り、200年前でさえ、おそらくはモーツァルトをスクリャービンの前奏曲「風」に演奏していた人々が大勢いた、という疑惑がある(笑)。
メシアンに関しては、さらに別の問題が発生します。例えば、パリ音楽院では必須のレパートリーになっているらしい《鳥のカタログ》全13曲。この曲集が作曲されたのは、すでにトータル・セリアリスムや電子音楽が出現済みである時期で、よく見ると恐ろしく複雑なリズムやテンポ設定が施されています。作曲者がそれらの新潮流を意識してなかったはづがない。すなわちここでは、解釈に「電子音楽的耳」さえ要求されているのです。我々は鳥の歌を「歌う」のではなく、鳥の歌を「受信」し「出力」する、というか。木下=当時、メシアンはパリ音楽院の教授として、ブーレーズやなんかに新ヴィーン楽派の音楽なんかを教えたり、ルネ・レイボヴィッツとの仲介役を果 たしているからね。ピエール・シェフェールとか、当時勃興しつつあった電子音楽なんかも知らなかったわけがないでしょ。ただ、それとは別 に「鳥の歌を<歌う>のではなく<受信>し<出力>する」というのはメシアンのカトリック的感性と通 底するところがあるよね。つまり、メシアンにとって作曲とは、<私=個人>の作曲家としてのメシアンが創造するんでは決してなくて、天にまします神様が地上のメシアンという受容器を通 じて地上に発信してくる音楽というわけだ。彼は自分自身が音楽を創造しているという意識はきっと稀薄でしょう。だから、天と地上のメディアとなっている鳥の声なんかが重要になるわけで、それを人為的に再創造するのではなく、そいつをそのまま採譜しなくてはならない。
話を前に戻します。これは、ピアノ曲だけに限らず、例えば、僕自身の場合、シュトックハウゼン、リゲッティはすごく好きなんだけれど、作曲家としてのブーレーズはいまいち好きになれないんだなあ…。僕はむしろ、おっしゃる「ベリオ的」になったブーレーズの方が近親感が湧くし…、つまり音列主義とポスト音列主義から逸脱して、スペクトラル派なんかに近づいていった頃からなんですが…。具体的には《エクラ/ミュルティプル》、《爆発/固定》、《レポン》、《影法師との対話》に続く辺りですね。まあ、これは自分が実際にリアルタイムで初演に付き合ったということが、なによりもまづ大きいとは思いますが…。《レポン》なんかレコードで聴いて、何が面 白いの?…というとこもあるんだけどね(笑)。大井=音楽家の中でも、ジョージ・ベンジャミンや武満なんかは、そういうことを言っていますね。ただ、たとえ一般 の聴き手に難解かつマニアックであっても、24,25歳頃のブーレーズが探り当てた《ピアノ・ソナタ第二番》と《構造第一巻》の極北の美というのは、余人をもっても真似の出来ないページだと思います。マラルメ・ネタ以降は、別 にブーレーズでなくっても、という感じでしょ?…。また、《構造》という作品は、実演で聞いてこそ、だとも思います。
木下=ああそうなんですか。確かに、僕はこの曲、実演で接して、あれっ?…ブーレーズにしてはいいなあ、なんて思ったんですよ。
「シェーンベルクのピアノ曲のあの難しさをこなせるなら、ブーレーズやシュトックハウゼンのあるものは容易にアプローチ可能だと思います。リゲティの練習曲集しかり、です。ところが、クセナキスはそうではないらしい」
この辺り、今回でなくとも、大井さんのお考えになる新ヴィーン楽派、あるいはバルトーク以後の現代音楽部門におけるピアノ音楽の大雑把な系譜みたいなものを、ご自身の関心に添う形で要約してくれると、僕なんかとしては有り難いな。
大井=シェーンベルクの鬼子としてのブーレーズとシュトックハウゼン、バルトークの亡霊としてのリゲティとクルターク、などという系譜付けはピアニストのやるこっちゃないでしょうけど、ヨーロッパに来てみて、これらの現代ピアノ音楽の受容のされ方に、大きな差があるのを実感しました。いまやドイツ語圏の音大に在籍すれば、シェーンベルクを一曲もやらずに卒業することは考えられないでしょう。シェーンベルクのピアノ曲のあの難しさをこなせるなら、ブーレーズやシュトックハウゼンのあるものは容易にアプローチ可能だと思います。リゲティの《練習曲集》などは、早くも普通 のピアノ・コンクールの予選課題曲です。
ところがどうも、クセナキスはそうはなってないらしい。音楽的にも技巧的にも歴史と断絶しているから、特に西洋人には非常にアプローチしにくいみたいです。人口に膾炙しているのは打楽器独奏曲くらいじゃないでしょうか。木下=あとクラヴサン曲!…、僕は、クセナキスを聴いたのは、これはもう圧倒的にエリサベート・ホイナツカが多いもんで、クセナキスというのは、なによりもまづクラヴサン曲の作曲者なんだよね!(爆笑)
大井=チェンバロ曲にしたって、この600年で「ああいう楽器の扱い方」をした人は西洋にはいません (笑)。そういえば、1980年代の《ミスツ》、《ラヴェル頌》、《ケクロプス》、《ナアマ》あたりの鍵盤作品に現れる、スペース・ノーテーションで音群をばらまいておいてそれをペダル無しで保持する "... les durées des notes sont maximales dans la mesure du possible" (音符の長さは、可能な限り最大限)という発想は、初期フランス・クラヴサン音楽のスティル・ブリゼを思い出します。同様に、同じ音を二回ずつ繰り返して上下する、という動きは、まさにブクステフーデ以来じゃないでしょうか(笑)。それはともかく、音楽学校でヨーロッパ伝統音楽を体得すれば体得するほど、クセナキス作品には脊髄反射的に嫌悪感を感じるようになるらしい。もっともそれ以前に、当地ではクセナキス自体が全然認知されていない!
パリでドメーヌ・ミュージカルが始まって10年目にして、やっとブーレーズが採り上げたクセナキス作品が《エオンタ》で、アンテルコンタンポランが10年目にしてやっとクセナキスに委嘱を出し、初演・録音された《ジャロン》というのが、これまたいやがらせのような駄 作(笑)。お蔭様で、10年前のクセナキス《生誕70周年》は全然盛り上がってなかったし、《生誕75周年》は存在もしていなかった。今年の生誕80周年・没後1周年も、メシアン没後10年記念公演ばかり盛んでしょう。ブーレーズ、リゲティ、シュトックハウゼンといった、どちらかといえば<アカデミック系>がまだまだ存命であるのに対して、クセナキス作品が生き延びるのは、案外今が勝負かも?
高橋悠治・アキ兄妹と秋山邦晴氏らのプロモーションのおかげで、フランス本国の次くらいに、日本では熱烈にクセナキスが受容されてますよね。日本人に理解されやすい側面 もあるのでしょう。日本建築学界のルコルビュジェ熱ほどではないにせよ。
一方、あの人たちのプロモーションというのは、ちょっとやりすぎだったとも思う。秋山氏によると、武満の《ピアノ・ディスタンス》を弾く高橋のピアノに惚れこんだ来日中のクセナキスが、高橋を想定して新作ピアノ曲《ヘルマ》をパリから航空便で送ってきた、などということになってるけれど、あれは高橋が、当時としてはかなりの大金を払ってクセナキスに曲を頼んでいるのです。しかも、約束した委嘱料は半分しか払らわれなかった、と後年クセナキス自身が暴露してますけど(笑)。《ヘルマ》をわずか3ヶ月で暗譜したというのも、眉唾な話で、どうやら半年くらいは時間をかけたらしい。また、《エオンタ》初演時に、「ブーレーズはおそらく途中で音が取れなくなり、テンポはやたら速くなっていったが、不思議にもみんな終わったのは一緒だった。」などと高橋はエッセーに書いておりますが、ブーレーズ側の言い分は、「ユージが滅茶苦茶弾いているもんだから、収集をつけるのが大変だった」(爆笑)。そういえば、 意外なことですが、クセナキスって、いわゆる作曲でカネをもらったのは1960年以降のことだそうです。木下=でも、それは誰でもそうだったみたいよ。デュティユーさんに訊いたら、彼なんかの場合も、作曲で食えるようになったのは1960年代に入ってからだって。もっともモーリス・オアナなんかは別 の仕事を持たず、作曲だけでメシを食っていたそうですが…。
大井=だから、高橋悠治氏が《ヘルマ》委嘱料を払ってくれたのは、結構感激だったのかも(笑)。そういう、お互い苦しい時にこそ、《ヘルマ》や《エオンタ》のような傑作が生まれるのだなあ。クセナキスは初来日時に京都で能を鑑賞して、もし古代ギリシア劇が現代に存在していたら、案外このようなものだったのではないか、という感想を漏らしたそうです。当時彼が書いたエッセーも日本について、実にサンパです。
日本では高橋兄妹という、世界最高のクセナキス演奏家が君臨しているおかげで、後続世代は何もやることがありません(笑)。もしも私が、彼らの業績に何か付け加えることが出来るとすれば、作曲者の意向を無視した素っ頓狂な珍解釈と、あとは体重パワーだな(笑)。あの兄妹二人の体重を合わせても、僕のほうが重いと思いますよ。これは別 にホメ殺しで言っているのではなくて、欧米のピアニストの演奏をかなりの数聴いて今更ながらに感に堪えないのは、やはり高橋アキの録音はずば抜けて良心的だということです。いわば彼女だけが、スコア通 りに弾こうとしている…。誰かこの事実をはっきりと指摘しないといけないのだろうけれど、なんせ日本の評論家って耳無し芳一ばかりだし(笑)。
「ポリーニがシュトックハウゼンの《ピアノ曲X》とブーレーズの《第二ソナタ》を初期からレパートリーに入れているのは、これは例外中の例外のケースです」
木下=それから、作品の完成度や重要度とは別 に、ピアニストとしての大井さんのピアニスティックな関心というものもあるよう思われますが…。僕自身の経験に引っ張り込んじゃいますと、最初の頃は、言謂現代音楽のエクスパートの弾く現代曲というのがあまり面 白くなかったわけ。ただ音が出てりゃいいだろってなもんで、ちょっと、オペラのリハーサルの時指揮者が弾くピアノにも似て…。
それで、これは1970年代中盤のことなんですが、マウリッツィオ・ポリーニが弾くブーレーズのソナタやシュトックハウゼンのピアノ曲にぶつかって、こりゃスゴイもんだ!ということになったんです。あの頃のポリーニというのは、前半に新ヴィーン楽派を演った後に後半ベートーヴェンの《ディアベッリ変奏曲》を弾いたり、前半が《ディアベッリ…》で後半がシュトックハウゼンだったり、前半がショパンで、後半にノーノを持ってきたり、ごくフツーの聴衆が集まるリサイタルでかなり積極的に現代曲を採り上げていたものなんですが、それまでつまらないと思っていた現代曲が、こういう大口径の奴が弾くと、こりゃスゴイなあってなことになった。以後、ピアノ界の大スターになってしまってからのポリーニからは、あまり感じられないことかも知れませんが…。大井=ポリーニがシュトックハウゼンの《ピアノ曲X》とブーレーズの《第二ソナタ》を初期からレパートリーに入れているのは、これは例外中の例外のケースです。あれほどのスター演奏家で、この二曲ほど難技巧を要求する作品を弾いている人はほかにいません、ピエール=ロラン・エマールを含めて…。ポリーニの問題は、そのあと現代作品のレパートリーを全然拡げなかったことでしょうか…。ダルムシュタット三羽烏の有名作品以外は、お友達のマンゾーニとシャリーノを一曲ずつくらいでしょう?…。シャリーノのピアノ協奏曲を初演するという話もキャンセルになったみたいだし。
木下=そういや、内田光子もブーレーズとやるはづだった世界初演をキャンセルしたことがあるね。誰だっけ?…、バートホイスル?…。ブーレーズがポリーニを評価して、もし私がピアニストだったら、ああいう風に現代物とレパートリー物を両立させるだろう、なんて言ってますが、やっぱり難しいものですか?…。大井さんもクセナキス録音の合間にベートーヴェンやモーツァルトを弾いてましたが、録音スタジオのの中では、あれが好評でして、やっぱり、クセナキスばかり弾かされたり、聴かされたりするのはツライ…なんて言って皆聴き惚れてましたよ。録音のチェックに手間取ったのはそういう事情もあるんです(笑)。
大井=ベートーヴェンなんか弾きましたっけ?…。ヴァイオリン第1プルトのオッサンが、余程クセナキスを弾き続けるのがイヤなのか、録音の合間中ちょこまかとモーツァルト等を弾いているものだから…。
木下=あれま!来週のエマニュエル・クリヴィヌ・プロをもう準備してるよ!(笑)。
大井=…すかさず伴奏したりしてタマヨ氏に睨まれてたんです。
なお、10年前ならともかく、いまや私は「これから一年間、クセナキスの音符しか弾いてはいけません」と言われても、多分耐えられます。慣れというのは恐ろしい(笑)。木下=…それから、チェロのアラン・ムニエが、なにかやたら美しい響きのするストラディヴァリの楽器で弾いた現代曲(確か、フランソワ=ベルナール・マーシュだったかな?…)とか…。ああいうのは、現代音楽一辺倒の人は毛嫌いするかも知れないけど…。クリスティアン・ツィメルマンが弾いたルトスワフスキの協奏曲とか…。まあ、あれはツィメルマンのために書いた曲ですけれど。だから、僕なんか「エキスパート」だよと言われると、逆に警戒しちゃうところがあるんだよ…。というわけで、「私はモダンのエキスパートではなく音楽のエキスパート、ピアノのエキスパート」と言いたくなる奴らの気持は多少なら判る(笑)。
大井=だからといって、ショパン・リサイタルのアンコールにツィメルマンがケージの《4分33秒》をやったりするのは、ちょっと白けません?「じゃあアンタ、《易の音楽》は弾けるの?」というか。
木下=うん、白けるかも知れない(笑)。安易に演ってくれるなというのは、気持としては判る。
大井=それは素晴らしいとも言えるし、馬鹿、大馬鹿とも言えるわけですよ。じゃあ、あなたケージの他のものは何やってるの?…ということですよね。単にボケっとしているだけだったらさ…。もっと重大な疑惑は、ペータースの《4分33秒》の譜面 を持ってますか?ということがある。ツィメルマンくらいの人ならば当然、譜面を購入して持っている、あるいは作品の演奏史を研究する、というプロセスは経ていると思いたいけれど、あの曲の解釈ほど難儀なものはない。初版の初演のように、4分33秒を3つの楽章に分けてピアノの蓋を開け閉めする、というアクションは、いまや非常に有名だから、客席で騒ぎ出す人も今更いないだろうしハプニングとしては新鮮味が無い。エンビ服のシッポを椅子の後ろで振り分けるのに4分半かけるか、あるいは椅子のネジを締めて汗をハンカチで拭くのに4分半かけるか…。ツィメルマンがショパンのピアノ・ソナタを演奏する時は、過去のあらゆる解釈を参照し自分自身の道を見出そうとしたはずだけれど、《4分33秒》でそこまでやったのかどうか。
木下=有名な話だから、いくらなんでもそのくらいは知ってんじゃないの?…。ツィメルマンだってルトスワフスキくらいはちゃんと弾いてるから。あれ、かなり良かったぜ。
大井=でも、ルトスワフスキは現代曲じゃないじゃないですか!あれは、メシアンとバルトークの合いの子でしょう。だから、あれくらいではダメですよ、そりゃ!…。ルトスワフスキのヴァイオリンのための《スビト》や《パルティータ》は、最早20歳前後のありとあらゆるヴァイオリン学生の必修作品になっています。チェロのための《グラーヴェ》しかり。比較的とっつきやすく、なんだか現代風に響き、かつコンクールでも派手な演奏効果 が見込めるからでしょう。また、ワルシャワ音楽院のピアノ科卒業試験では、シマノフスキの《第2ソナタ》や《協奏交響曲》、あるいはルトスワフスキの《ピアノ協奏曲》は、結構な数のピアノ学生が暗譜で弾いているそうです。《チェロ協奏曲》も、普通 の若手チェリストの基本レパートリーになってしまいました。クセナキスがそういうポジションに来ることは、むこう50年間ないと思いますけど(笑)
木下=ポリーニが前半でショパンを弾いて、後半にノーノを入れた時、あれ、ポリーニで実演を聴いたことがなかったもんで、僕なんかは、待ってましたってな感じだったんですが、ショパンを聴きに来た人たちには、なんだカッコつけやがって、ととったのか、えらいブーが飛んだり、野次る奴がいたりで、やっこさん、さすがにムッとしてましたが…。まあ、僕はツィメルマンが現代曲を弾いたのはルトスワフスキくらいしか実際に聴いたことがないんで、彼がどのくらい現代音楽に造詣が深いのかは知らないのですが、僕ら聴き手側としては、実はあまり関係ないんだよね。まあ《4分33秒》は極端な例でしょうけど、僕なんかはいい加減だから(笑)、こちらに訴えてくるものが何かあれば、もしそれが、クリスティアン・ツィメルマンでさえケージを!…ってなミーハー的なものだって、僕自身は排除しないぜ(笑)。ただ、その時書いた評を今引っぱり出して見ると、ルトスワフスキを、まさに大井さんがさっきおっしゃった「ドビュッシー=スクリャービン」系列に引きつけていて、いまいち今世紀的な鋭角的なところに乏しい…なんて書いてあったけどね(笑)。
「ギターのアポ・ヤンドと、歴史的チェンバロの「正しい」タッチは非常に類似しているように思います。ついでに言うと、笙の指の擦り方と、歴史的オルガンのタッチも似ている。管楽器だからかな」
というわけで、今度は、ピアノ、あるいは大井さんはチェンバロやオルガンも弾くから、鍵盤楽器一般 (まあ、チェンバロは撥弦楽器だけれど、大井さんはギターやリュートはやらないよね?…)のエキスパートとして、クセナキスの曲を演奏する時の問題とか…。
大井=ギターは弾きます。モンポウの《コンポステラ組曲》は暗譜しました (笑)。ギターのアポ・ヤンドと、歴史的チェンバロの<正しい>タッチは非常に類似しているように思います。ギターやってたおかげで、ビラ=ロボス、カステルヌォーボ=テデスコ、ポンセ、ロドリーゴ、ソル、ジュリアーニなどのラテン系二流作曲家については結構詳しいです(笑)。ついでに言うと、笙の指の擦り方と、歴史的オルガンのタッチも似ている。管楽器だからかな。
木下=うん、チェンバロも撥弦楽器だからね…。こうみてくると、大井さんが現代音楽と同時にバロックへ向かうという方向性が見えてくるよね。フランスなんかでも、逆方向、つまり古楽がメインで現代物もやるという方向はは、合唱部門を除きあまりいないみたいだけれど、現代音楽畑から古楽へ行った連中というのが結構沢山いるんだよね。だいたい、自分自身オーボエ奏者として現代音楽のエキスパートだったジャン=クロード・マルゴワールがラ・グランド・エキュリを作った時分なんて、ドメーヌ・ミュージカルの常連が大挙して参加しているでしょ(まあ、あの頃はラ・グランド・エキュリも現代楽器を使っていたからね…)。もっと多いのが歌手で、1970年代から80年代初めにかけてジョルジュ・アペルギスやモーリス・オアナなんかの音楽劇部門で活躍していた連中がバロック歌唱を勉強して、かなりの数バロック部門に進出している。だから、さっきおっしゃった、「<ミニマル系>というのは、自分でインプロ出来ないクラシック演奏家が、ウケもノリも良いミュジック・ポピュレールを堂々と舞台に乗せる口実が出来るからでしょう」というのをうんと敷衍してみると、ヴェルディやワーグナーなんぞ到底歌えない小口径の歌手たちが、音楽劇やバロックに逃げ込んだなどということが昔よく言われたものなんだけれど、もしそうだったとしても、連中は連中で現代物や古楽に独自の道を見出したわけなんだから、それはそれでたいしたもんじゃないか!、と言いたいよね。
大井=ただ、古楽器演奏法を「習得する」というのは、言うはやすし行うは難しで、予想よりも遥かに大変な献身を要求されます。腰掛け気分で1年や2年で、何とかモノになるものではないでしょう。私もいま、真っ青になっているところです。私の場合、ひとつの楽器・分野を極めることなく、次から次へ余計なものに手を出して自爆するのが趣味みたいなものなので、だからこそ敢行出来たんですが。キャシー・バーベリアンがアーノンクールと共演していた平和な1970年代ならともかく、今や、生まれてこのかた「ピリオド楽器」しか触ったことのない人々もいる昨今です。何よりも、聴衆の耳がすっかり古楽器演奏に慣れ親しんでしまっています。付け刃は一瞬にして見抜かれてしまう。
木下=よく、オーボエの北里(孝浩)さんなんかから、最近ちっともバロックについて書かないとクサされるんだけれど、はっきり言って、最近あまり面 白くなくなっちゃった。つまりおっしゃる「平和な1970年代」、僕〜…もキャシー・バーバリアンが古楽を歌うのを聴いた世代ですが〜の場合は1980年代初めなんですが…、古楽をやる人たちは皆、一種の冒険心があって、こんなことやっちまって本当にいいんかいな?という、一種オドロオドロしいところがあった。マルゴワールが言ってたけど、彼が初めてモンテヴェルディの《ポッペアの戴冠》の全曲を舞台上演にかけた時、お客さんが全員途中で帰っちゃうんじゃないか?と怖かったとか…とか。レパートリーなんかでも、次から次へと名前さえ知らなかったような作曲家や作品が出てきて。それが最近じゃ、もう普通 のレパートリーとちっとも変わらんでしょ。クリスティーがもう何十回目かの《アルチナ》や《優雅な印度の国々》を振って、ミンコフスキが何度目かの《プラテ》をやり、猫も杓子もバッハのカンタータ…ということになると…、ああいう風に、市民権を得て、選挙権もあって、ということになると、僕の方じゃ、ちょっと白けちゃう。大井さんじゃないけど、僕の方でも、後は他の人に任しときゃいいやという方に傾いちゃうよね(笑)。
それに、おっしゃる通り、これだけ古楽が盛んになったんだから、もう少し現代音楽側でもこれを利用できないかな?ということもあるんです。現代の声楽部門でカウンター・テノールはもう根付いたと言ってもいいと思うんですが、マウリシオ・カーゲル、ルイス・デ・パーブロやマルク・モネの古楽器のための作品とか、フィリップ・ヘレヴェヘ率いるラ・シャペル・ロワイヤルが世界初演したパスカル・デュサパンの《メデア・マテリアル》など。あいう古楽器の利用の仕方ももうちょっとあってもいいかな?…。…とはいうものの、さっきの話では、今では逆にごくフツーのオペラ歌手がバロックに色目を使ってる(笑)。大井=そうそう、いまやテ・カナワのアルマヴィーヴァ伯爵夫人なんて、納豆の糸が引きまくってるみたいに聞こえますしね。比較の問題だけど。
木下=僕の場合は、歌手はそうでもないんですが…そうでもあるか?…やっぱし、あるね(笑)。むしろ指揮者の方。こっちはもう鬱陶しくて聴けなくなってるね。…とはいうものの、ジュリーニの《ロ短調ミサ》なんかに感動してんだから、いい気なもんなんですが(笑)…。逆に、カラヤンにしたってさあ、<帝王>に室内楽編成の《ブランデンブルク協奏曲》なんか演って欲しくないよね。なんかやたら物欲しそう(笑)。<帝王>なら<帝王>らしく、ブルックナーかマーラー編成のビッグ・バンドで演って欲しいよね(笑)。そういや、マーラー編曲版ってのがあったでしょ。
「 やはりピアノを電気増幅欲しいなぁ、と思います。クセナキスは、ピアノとオケのバランスを考慮した「管弦楽法」なんてものは当然のように無視しているわけで(笑)、しかもピアノ・パートはごちゃごちゃと楽器が鳴りにくい書法で書かれているから、当然ピアノは聞こえなくなります」
…話がえらく逸れちゃったけど(笑)、クセナキスの独自性に話を戻します。昔、確かジルベール・アミ指揮放送フィルで藤井一興さんが独奏をやった《シナファイ》(…だったと思うけど)を聴いた憶えがあるんだけれど、演奏会じゃピアノの音が全然聴こえてこないわけよ。当時(1970年代後半かな?)ああいうピアノが管弦楽のマッスに埋没しちゃうような「ピアノ協奏曲」を聴き慣れていたわけでもないんで、なんじゃこれ?…てな感じで聴いた憶えがあるけれど、後で藤井さんに訊いたら、クセナキスはあまり好きでないという答えが返ってきたもんで、その時は適当なところでナットクしちゃったもんなんですが…。今度、大井さんの録音セッションを聴かせていただいても、こりゃエライ代物を演ってるな…という気がするんだよね。あんなもん、一体演奏できるの?…。
大井=クセナキスのピアノ協奏曲を演奏会でやるたびに、やはりピアノを電気増幅して欲しいなぁ、と思います。クセナキスは、ピアノとオケのバランスを考慮した「管弦楽法」なんてものは当然のように無視しているわけで(笑)、しかもピアノ・パートはごちゃごちゃと楽器が鳴りにくい書法で書かれているから、当然ピアノは聞こえなくなります。
木下=なーるほど。クラシック部門では「電気増幅」に関するタブーみたいなものがあって、ナタリー・ドゥセイなんか、さかんに私たちはマイクを使ってないぞ!なんて強調するし…、なら、レコード録音はどうなんだい?と混ぜっ返したくもなりますが、バスチーユ・オペラが秘かにスピーカーをセットしてるなんて評論家に書かれると、総監督がムキになって、そんなことはねえぞ、なんて反論するんだけれど、「電気増幅」はそれ自体、表現の手段になり得るよね。昔、ロバート・ウィルソンがパリでドビュッシーの《聖セバスチアンの殉教》を現代舞踊化した時、ピアノを電気増幅したってんで目くじらを立てた先生がいたけど、翻って考えてみると、ウィルソンの演劇作品でマイクを通 してないものは珍しい…。肉声でも、ほんの囁きみたいな声をそのまま聴くのと電気増幅したのとでは、これはまったく違う表現になるよね。
クセナキスなら、そのあたり考えていそうなもんだけれど、どうなんだろ?。あれをナマで聴かせるところに何か求めるものがあったのか?…。とにかく、あの録音の時も、あんな小さなホールでも、ピアノの音が管弦楽に完全に埋没しちゃってるのに、録音スタジオで聴くと、見事なバランスで入ってるんだよね。イヴ・プランさんが、さかんにそれでいい、スタジオじゃちゃんと聴こえているから、それでいいんだと繰り返していたですねえ。とはいうものの、あれっ、これはどっちが本来の姿なんだろ?…という感じなんですが、その意味で、レコードというのは非常に有り難いものだなあ、と感じたよ。バロック部門でもそういうことってあるじゃない。ホールでの実演じゃ、全然聴こえなかったものがCDだと完璧に聴こえる…。だから、僕はCDの出現と古楽器よるバロック・ブームはCDの一般 化と密接な関係を持っていると思っている。クセナキスについても、そういうことが言えないかな?…。
「あの10段・16声部で書かれているピアノ独奏パートの音を何%まで拾えるか、その限界に肉薄していく作業に、いわば自然科学者的な忍耐と情熱と時間が必要ですね」
大井=オーケストラ内部の細かい動きを聞かせるために、クセナキスは《テレテクトール》や《ノモス・ガンマ》なんかで88人のオケ奏者を聴衆の間に散らばらせるよう指示してたりもしましたね。コンサート会場ではなかなか実行されないけれど。
あと、クセナキスの電気増幅、といえばチェンバロ作品ですね。これは、モダン・チェンバロの小さい音量 を増幅して迫力を加え、なおかつ音色をササクレ立ったのもにする、という点で、作品成立には必須の要素です。木下=大井さんがお弾きになった《シナファイ》の場合なんて、普通 、あれを弾く人はどうやってるんだろ?…。クロード・ヘルフェルなんかになると、クセナキスの大家って顔してますが…。いちおう、ピアニスト独りで弾くことを想定しているわけでしょう?…。
大井=誰もクセナキスを認めていない時にその真価を見抜き、《ヘルマ》と《エオンタ》を世界初演した高橋悠治は、初めてナマコを喰った人のように、真に偉大だと思います。一方、クロード・エルフェは、クセナキスを取り上げ出したのは1970年以降でしょう。彼の演奏の質はさておき、とりあえずインタビューや著作でのコメントがビドすぎるのは相当な顰蹙モノ。特に、「《エリフソン》の初演が上手くいかなかったのは、クセナキスの譜面 が汚かったからだが、それは彼が片目の所為」などという愚劣極まりない発言を見ると、いっそポアしてあげたくなります (笑)。
木下=僕がパリで聴いた藤井一興のクセナキス。あれ、本当に《シナファイ》だったのかなあ?…大昔のことだからよく憶えてないけど、少なくとも印象では、ちょっと同じ曲とは思えなかったぜ。
大井=私の知る限りでは、藤井さんは一度パリで《シナファイ》を弾いてらっしゃるはづです。…というか、あの曲のピアノ・パートは、何と10段で書いてあります。私は初め3〜6段に書き直し、それでは全然手がつけられないので2〜3段に圧縮し、さらに便宜上記譜法を変更した上で、やっとこさ練習が始められました。藤井さんみたいにスコア・リーディングに長けた人はそもそも「書き直す」という発想がないから、おそらくそのままのスコアで弾こうとするのだろうけれど、でもやはり、それでは弾けないと思う。ヘルフェルも《シナファイ》を弾いているんだけれど、さるインタヴューで何と言っているかというと、「10段の譜面 が書いてありますのですよ。で私は、どの部分を右手で弾くか、どの部分を左手で弾くかを色分けしたら、まるでパート譜が絵のようになってしまいました(笑)」って書いてあるんですが…そんなくらいでは弾けません。弾けるんなら弾いてみてください、と言いたいわけ(笑)。だから、それを全部3段なり2段なりに書き直して、全部音を選び抜いて、指遣いも決めて、その上で必死でさらって…それで弾けるかどうか?…なんですよ。というわけで、あの元々のオリジナルのスコアを見て、色分けしましたとかいうレベルで自慢してるのは、要するに第一歩もやってない…というのが私の意見ですが、ただ、ひょっとすると世の中には超天才というのがおりまして…弾けちゃうのかも知れません。
特に《シナファイ》に関しては、あの10段・16声部〜正確に言うと、確かにマキス・ソロモスがライナーノーツで書いている通 り「10段・16声部」が適当です〜で書かれているピアノ独奏パートの音を何%まで拾えるか、その限界に肉薄していく作業に、いわば自然科学者的な忍耐と情熱と時間が必要ですね。6年前に、私はかねてより「不実な美女」状態で演奏していた(笑)クセナキスの独奏ピアノ曲全曲を特にロッテルダムのコンクールのために「非常に正確に」、すなわち「実直な美女」にヴァージョンアップすることを強いられました。渡航費用を某財団から給費してもらった結果 、入賞を強く期待されちゃったのと、あと、なんといっても審査員8人が譜面見ながら聴いているわけで、「不実」な演奏は危険だったのです。その過程で、不可能を可能にするための様々な方法論を模索しました。なお、結果 的にいえば、審査員はあんな譜面を追えるわけもなく、講評では「もっと美女であるべし」みたいなことを言われたので、かなり萎えました。その後に、東京と京都で《シナファイ》を演奏する場が3回保証されて、やっとこさ「打倒シナファイ」のために重い腰があがった次第です(笑)。あまりといえばあまりにヘヴィーな作業なので、芸術的良心や功利心だけではやっていけないんじゃないでしょうか。
あと、1950〜70年代に書かれた一連の「難曲」群は、要は20代・30代の若い作曲家たちが好き放題に書いた譜面 を、これまた20代・30代だったテュードア、コンタルスキー、ロリオ、高橋などが、その若さとナポレオン的英雄行為でもって、無理矢理ねじふせた、という側面 も見逃してはならないと思います。あの人たちの青春の群像を追体験させられるほうも、いい迷惑(笑)。木下=ヘルフェールも仲間に入れてやんなよ、可哀想に(笑)…。
うん、まさにその「芸術的良心だけではやっていけない」というところなんだけれど、「<エキスパート>だよと言われると、逆に警戒しちゃうところがある」というのは、まさにそのことが言いたかったんですが(笑)、どうなんだろ、僕なんかの発想だと…、まあこれはあまりにジャズ的、あるいはエスノ的な発想だと大井さんから笑われるかも知れませんが、そういう場合って、作曲家としては「独奏パートの音を何%まで拾えるか、その限界に肉薄」するという「前世紀的発想」よりもむしろ、オレの書いたものを素材として自分で作ってみい!という考えもありそうな気がするけど…。演る側の立場としてはどうでしょう?…。大井=クセナキスは譜面 をまず10段、すなわちピアニスト5人分の音符を一人のソリストのために書いてしまってから、ふてぶてしくも総譜序文に、"Le pianiste joue toutes les lignes s'il le peut." (「ピアニストはすべての段を弾く、もしできるなら。」)などとホザきました。しかし、それで激昂してしまう演奏家はアホです。ブゾーニの《ピアノ初心者への12の原則》の、「ピアノでは何でも実現可能だと思って弾くこと。」というモットーを、泣きながら思い出さないといけません。
木下=しかし、それは両方にとれるんじゃない?…。クセナキスのことだから、"s'il le peut" には「できるならやってみい!」という意味合いもあるだろうけれど、逆に、できないものを無理してやる必要はねえんだ、と作曲家自身示唆しているともとれなくはない。
大井=弾くのが不可能とか言い出したら、スクリャービンやラフマニノフの譜面 だってそうです。あと、私は演奏家の「手癖」というものを、全く信用しません。楽譜通 りにやったほうが、はるかに面白いものが出来あがることが多い。それで思い出しましたが、《シナファイ》のちょうど中央のところで、ピアノ独奏によるカデンツァがあるんです。その直前のパッセージで使用された6つの和音を用いて、Nuage dense irrégulier(不規則で濃密な雲)を発生させよ、とある。約10秒間、いわば演奏者の自由に任されているのです。因みに、私はどの音符をどのようなリズムで弾くのかは、予め決めておきました。例えば、私の録音と、ジェフリー・ダグラス・マッジの《シナファイ》のLP録音を聞き比べて頂きたいのですが、この箇所で、マッジ氏の「即興」は、3秒とたたないうちに「規則的」に、すなわち「不自由」になっています。それと似たようなことが、この作品全体で起こっているわけ。 クセナキスの煩雑なスコアと付き合うのは「苦行」ではありますが、同時に「マトモにスコアを実現したら、一体どんな音響が発生するのか」を発見する楽しみも残されてある(笑)。そして、やはりそのプロセスは面 白い。
不可能と思える譜面を前にして、まぁ普通は逃げに走るのが人の常です。逃げ方にもコツがあって、「大きな嘘は人を騙しやすい」というファシスト的理想主義でもって、「不実な美女」の微笑みでもって誰かがゴマカしおおせる。すると、「一犬虚に吠えて、万犬これに和」し、気付くとそれが伝統になっていたりする。 しかし、すでに我々は第三世代であるので、出来るだけ「不実な美女」による作品掻爬は断固拒否し、「実直、なおかつ美女」を目指さないといけませんですね(笑)。そう、少なくとも「子宮内で既に作品が殺されていた」っちゅーのは洒落にもなりませんわな。
…そのプロセスを、いわゆる有名クラシック作品にもあてはめるのは、私の好むところです。が、そういうことをして遊んでいると、すかさずカニーノ師匠などに、「あなたが頭が良くていらっしゃることはヨクヨク分かりましたから、どうぞ<普通 に>、弾いて下さいね!」、などと言われるのがオチです。楽譜の揚げ足を取る、すなわち、楽譜フェチシズムの陥穽(笑)に対しての非常に真っ当な批判だと思います。
(2002年05月07日、リュクサンブールにて)