敬天愛人の原拠

 敬天愛人の創唱者は、清の康煕帝、ついで中村正直である。
 西郷隆盛が揮毫した「敬天愛人」は、1875年(明治8)以降のものが10点残っている。この語は中村正直(敬宇)の造語で、イギリスから帰国した直後に駿府で「敬天愛人説」(1868年)を書き、ついで静岡で執筆した『西国立志編』(1871年)の訳者緒論にもこの語を使っている。しかしもともとこの四字成語は1671年(康煕10)康煕字典で有名な清の康煕帝が「敬天愛人」という扁額を書いて、キリスト教会に与えたことがあるのが起源である。しかし諸橋大漢和辞典は、この語を西郷隆盛に由来するとしている。
 わたしは10年あまり前に日本医事新報社の依頼を受けて「西郷隆盛書「敬天愛人」の典拠」という文章を書いたことがある。読者の医師から「敬天愛人」はキリスト教思想ではないかという質問があった由であった。
 『日本医事新報』3608号(1993.06.19) 
 この時「二つの「敬天愛人」」(静岡新聞,1993.08.12)も執筆し、こう締め括った。
 「諸橋轍次氏編『大漢和辞典』が熟語について最初の出典を記す方針であるならば、「敬天愛人」の出典については、当然改訂されるべきであろう。」
 2年前に京セラの稲盛和夫氏に近い人から、「敬天愛人」について話を聞きたいという打診があった。わたしは以上の大要を述べ、西郷が幕末きっての西洋通の島津斉昭の影響を受けていること、福澤諭吉の『文明論之概略』(1875年)を愛読していたことをあげ、古代中国の道学者風に描くことを止め、文明開化期の啓蒙思想との関連で西郷を評価することを勧めた。しかしそれっきりだった。
 今年出た稲盛和夫氏の新著『敬天愛人』(PHP研究所 2006)は、この点の考察を欠き、まったくのでたらめである。

 西郷隆盛の「敬天愛人」という言葉は、儒教等の古典にあるのではなく、中村正直(敬宇)「敬天愛人説」および『西国立志編』に由来すること、さらに原拠を探れば、清の康煕帝であることは、40年くらい前からの研究者の研究によって明らかになっている。
 しかし「西郷隆盛のホームページ 敬天愛人」(http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/)をはじめ、多くのサイトで相変わらず学問的根拠はまったくない陳腐な旧説をながながと述べている。
 この文は1993年に求められて書いた拙文である。西郷崇拝も、ちゃんとした学問的根拠の上に組み立てて欲しいものである。

西郷隆盛書「敬天愛人」の典拠(日本医事新報3608号、1993619日付、pp.142-143
二つの敬天愛人―西郷隆盛と中村正直ー『静岡新聞』1993年8月12日付所載)
康煕帝と敬天愛人
付記・最近の敬天愛人研究リスト



西郷隆盛書「敬天愛人」の典拠



  『南洲遺訓』

 西郷隆盛は一八七五年(明治八)ころ、訪れる客の求めに応じてしばしば「敬天愛人」という四字成句を揮毫した。諸橋轍次氏編『大漢和辞典』は、この四字成句を「西郷南洲の語」とし、『南洲遺訓』の一節を引いている。

「道は天地自然のものなれば、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始す可し」

 『南洲遺訓』は旧庄内藩の藩士たちがしばしば鹿児島の西郷のもとを訪れて座談したさいの記録であり、最終的には一八七四年(明治七)に訪問した赤沢経言が筆録し、一八七五年(明治八)に訪問した菅実秀の校閲で、西郷死後に公刊されたものである。【補注1】

 西郷隆盛揮毫の「敬天愛人」の書は、現在一〇幅残っているが、一八七五年以後の揮毫とされている。したがって西郷隆盛がこの四字成句を思いつくのは、それ程以前のことではないであろう。

 

  中村敬宇訳述『西国立志編』

 井田好治氏・沢田鈴歳氏・増村宏氏ら鹿児島在住の方々の研究によれば、「敬天愛人」の直接の典拠は、サミュエル・スマイルズ著・中村正直(敬宇)訳述『西国立志編』(原書は『Self-Help(自助論)』)である。同書は一八七一年(明治四)刊行されているが、訳者「緒論」に、国会議員たる者は「必ず学明らかに、行い修まれるの人なり、敬天愛人の心ある者なり、己に克ち、独りを慎しむ工夫ある者なり」という一節があり、また「西国古今儁傑の伝記を読み、その皆自主自立の志あり、艱難辛苦の行ないあり、敬天愛人の誠意に原づき、もってよく世を済い、民を利するの大業を起こし云々」と述べている。

 

  中村敬宇著『敬天愛人説』

 実は中村敬宇には、これより以前に『敬天愛人説』と題する著作がある。敬宇は昌平黌で儒学を学ぶ一方で、蘭学・英学を学び、一八六六年(慶応二)イギリスへの留学生派遣にさいし、監督として引率し、一八六八年(慶応四)戊辰戦争のさなかの六月帰国した。

 帰国するやかれはすぐに駿府に移った。前将軍徳川家の駿府移住に従ったのである。駿府はまもなく静岡と改称され、静岡藩となる。

 敬宇は駿府に移ってすぐ『敬天愛人説』を執筆した。これは全文「敬天愛人」の説明であるが、たとえば「何をか愛人という、曰く、天を敬するがゆえに人を愛す。わが同胞を愛するは、わが父を敬するによる。」というくだりがあるが、この父は肉親ではなく「天上の父」つまりキリスト教の父なのである。【補注2】

 出典は新約聖書のマタイ伝の一節である。これは出典を問い合せた静岡藩権大参事大久保一翁(忠寛)の礼状によっても確かめられる。【補注3】
 敬宇はこれを中国伝統思想の「天」=上帝と重ねあわせて理解しようとしたようである。敬宇の号自体「敬天」と同義であろう。

 

  康煕帝書「敬天愛人」

 さて「天上之父」=キリスト教の神は、もともと日本では「天主」と呼ばれてきた。ただし近世にはキリスト教が禁圧されていたから、「天主」観念の発展は不明である。

 しかし中国では「天」と「天主」をめぐる思想的格闘があった。一八世紀初頭の典礼論争である。

 一六七一年(康煕十)清の康煕帝が「敬天愛人」という扁額を書いて、キリスト教会に与えたことがある。これが後年問題を生じた。

 儒教の「天」は上帝であり、キリスト教の「天主」と同じとする折衷的な解釈で孔子や祖先への伝統的行事への参加を黙認するか、それとも中国の「天」は宇宙に広がる空間・自然であって、神ではないとし、孔子崇拝や祖先への伝統的行事への参加や、「天」「上帝」の用語の使用を禁止するかの対立である。結局ローマ教皇は後者の解釈を支持したから、康煕帝はこれに激怒し、前者の解釈に従うもののみ許容することとし、のち雍正帝はキリスト教を全面的に禁止している。「天」をどう理解するかは、中国文化圏におけるキリスト教のあり方にかかわる重大問題であったのである。

 

  「ワシントン殿」への敬意

 以上の研究で西郷隆盛の「敬天愛人」が、中国の儒教の教典から直接発想されたのではなく、儒教的教養を土台としつつも、幕末・維新期の西洋文明とキリスト教理解から抽出された観念を受容することによって生まれたことが明らかになった。

 日頃「ワシントン殿」(アメリカ初代大統領)への尊敬を口にしていた西郷隆盛は、『西国立志伝』全体をつらぬく精神として、この四字成句を受け留めたのであろう。のちにキリスト教徒内村鑑三が「代表的日本人」のなかで西郷をとりあげ、「敬天愛人」を西郷の根本精神としたのも頷ける。

今や西郷隆盛を道学者的イメージから解放する必要があるのではなかろうか。【補注4】

 

1)高橋昌郎,中村敬宇,吉川弘文館,1966

2)沢田鈴蔵・増村宏,中村正直の敬天愛人,鹿児島大学法文学部史学地理学教室,鹿大史学,19号,1972

3)増村宏,西郷隆盛の思想について,鹿児島大学法文学部文学科論集,7号,1972

4)井田好治,敬天愛人の系譜 南洲と敬宇と康熙帝,明治村通信,155号,1983,転載:西郷南洲顕彰会,敬天愛人,2号,1984

5)大久保利謙,幕末維新の洋学,大久保利謙著作集,第5巻,吉川弘文館,1986

 

『日本医事新報』3608号、1993619日付(pp.142-143


以下の補注と補論は新しく附した。

[[補注1]同書の「書後の辞」に山田準が遺訓の由来として、明治三年と書いているので、多くの人は上京して廃藩置県を断行する前に西郷が述べたことと解しているが、実際は一八七〇年(明治三)以降数度にわたる訪問により記録されたものであろう。しかも庄内藩士たちが理解できた内容をかれらの言葉で記したもので、多少の修飾付会もあると思われる。

 遺訓全体を一八七〇年末に鹿児島藩大参事であった西郷が提出した建白書(『大隈文書』第一巻)と比較検討すると、西郷の主張の変化が観察できる。

 たとえば建白書では鉄道開設の中止を力説していたのに、遺訓では電信鉄道建設には反対せず、目的を明確にせよという慎重論に後退している。実際西郷は筆頭参議として鉄道事業を容認せざるをえなかったのである。したがってこの部分は、征韓論政変で下野した後の主張であるといえよう。

 会計についても、建白書の勢い込んだ原則論に比し、遺訓一四では「入るを量りて出づるを制するの外、更に他の術数無し」と一般論を述べるに留まっている。これは大蔵省と司法省・文部省の予算紛議に対して大蔵省を支持するかのような言辞である。西郷は筆頭参議であるとともに、一時期大蔵省事務監督であった。遺訓一五では常備兵数についても、「会計の制限による」と述べており、財政抑制論である。

[補注2]中村正直の「敬天愛人説」の冒頭は次の如くである。

  敬天愛人説 明治戊辰

天者。生レ我者。乃吾父也。人者。与レ我同為二天所一レ生者。乃吾兄弟也。

(天は我を生みし者也、すなわち吾父也、人は我とともに、天の生みし所也、すなわち吾兄弟也)

敬レ天者。徳行之根基也。国多二敬レ天之民一。則其国必盛。国少ニ敬レ天之民一。則其国必衰、何謂レ愛レ人。曰。敬レ天。故愛レ人。

(天を敬するは、徳行の根基也。国、敬天の民多ければ、則ちその国は必ず盛んになり、国敬天の民少ければ、則ちその国は必ず衰ゆ。)

[補注3]マタイ福音書二二章三七〜三九節

三七 耶蘇かれにいひけるハ汝こゝろをつくし精神をつくし智恵をつくして、汝の神なる主を愛すべし

三八 これハ第一にしておほいなるいましめなり

三九 第二もこれにおなじくすなはちわが身のごとく汝の隣を愛すべし

  ヘボン『新約聖書 馬太伝福音書』(『近代邦訳聖書集成』M ゆまに書房)

37 イエス言ひ給ふ。「なんぢ心を尽し、精神を尽し、思を尽して、主なる汝の神を愛すべし」

38 これは大(おおい)にして第一の誡命(いましめ)に拠るなり。

39 第二もまた之にひとし。「おのれの如く、汝の隣を愛すべし」

   日本聖書協会『旧新約聖書』

[補注4]諸橋轍次氏編『大漢和辞典』が熟語について最初の出典を記す方針であるならば、「敬天愛人」の出典については、当然改訂されるべきであろう。

 


補論1 日本の天とは何か

 この「天」はどのようなものであろうか。

 日本の天は中国の天と同じではない。唐の高宗の一時期を除いて、中国の皇帝は天から選任された天子であった。しかし失政が続くと革命が起り、別の王朝が天子になるのである。しかし日本では最初の天子=天皇の同一血統が連綿と続く。しかしそれでは政治が執行できず、結局摂政関白あるいは征夷大将軍などの代理者に委任せざるをえなかった。いわゆる不執政の伝統である。もし政務を委任しなければ失政の非難を天子=天皇自身が浴び、別の王朝に変わったであろう。

 すでに信長の段階でキリスト教の天主と日本の神仏との異同が明らかではなく、信長自身、天主になろうとして安土城に天主閣を建てたという。(のちに天守閣に転じた)

 明治になっても、天地自然を神とする日本と、天上唯一の神を、ともにゴッドgodとするのは、説明しがたかった。

 

補論2 金泳三氏の「敬天愛人」

 元韓国大統領金泳三氏も「敬天愛人」を語を信条とし、大統領執務室に掲額していた。

 朝鮮では、キリスト教は天主教として日本より早く普及していたが、朝鮮王朝時代の聖書(多分漢訳)に敬天愛人の文字があったのであろうか。ある韓国人に調査を依頼したが、まだ回答に接していない。

小林慶二『金泳三 韓国現代史とともに歩む』第二版(原書房 一九九三年)

 『金泳三回顧録 民主主義のための私の闘い』1〜3(九州通訳ガイド協会  二〇〇一年・二〇〇二年)

 

補論3 漢訳新約聖書

 中村正直が読んだのは英語版新約聖書である。これに対して幕末に西郷隆盛が入手したと言われるのは、中国語訳新約聖書である。香港英華書院出版の『新約全書』(一八六六年)ではないかと推定されている。

 

補論4 田川建三氏の仕事

 田川建三『書物としての新約聖書』(勁草書房 一九九七年)は、新約聖書は当時の地中海世界―ローマ帝国の共通語であったギリシア語で書かれていること、当時のユダヤでは、ヘブライ語ではなくアラム語が使われていたことも指摘されている。聖書の研究は、数個の言語をマスターすることではじめて可能とのことである。

 またイエスの時代に生きていたユダヤ人こそ、現在のパレスチナ人であり、イエス以前から商業活動で他地域に広がっていたユダヤ人の子孫と、ユダヤ人に関係なくユダヤ教に改宗した人々の子孫が現在のイスラエルを作っていると論証している。つまり現在のユダヤ人は、人種や民族ではなく、ユダヤ教徒のことなのだ。今、ユダヤ教に改宗すれば、イスラエルの地は神が与え給うた地として、パレスチナ人を追い出しに掛かるのである。オウム真理教同然である。

 田川氏の次の書を推薦する。

『宗教とは何か』改訂増補版 (上)宗教批判をめぐる、(下)マタイ福音書によせて(洋泉社 二〇〇六年)

 田川氏は現在の共同訳新約聖書を誤訳とキリスト教理解の誤りが多いと指摘してこられた。そしてとうとう自分で翻訳を発表された。

 『新約聖書 訳と註3 パウロ書簡』(作品社 二〇〇七年)

 『新約聖書 訳と註1 マルコ福音書・マタイ福音書』(作品社 二〇〇八年)(田村未見)

今後、次々と刊行される由、氏の御健康と長寿を祈るばかりである。

 ついでにもう一書。マーティン・バナナの『黒いアテナ――古典文明のアフロ・アジア的ルーツ』(藤原書店 二〇〇四年)は衝撃的である。ギリシア文明とは、黒人文明だったかも知れないというのだ。







簡略化した文章を「二つの「敬天愛人」」として 『静岡新聞』1993年8月12日付に発表。


二つの「敬天愛人」


―西郷隆盛と中村敬宇―

 

  『南洲遺訓』

 西郷隆盛は鹿児島隠棲中の一八七五年(明治八)ころ、訪問客の求めに応じて、しばしば「敬天愛人」という四字成句を揮毫した。この典拠は何だろうか。

 諸橋轍次氏編『大漢和辞典』(大修館書店)は、これを「西郷南洲の語」とし、『南洲遺訓』のなかの一節を引用している。

「道は天地自然のものなれば、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始す可し」

 『南洲遺訓』は旧庄内藩士たちが鹿児島の西郷のもとを訪れて座談した際の記録である。

 

  中村正直(敬宇)訳述『西国立志編』

 さて井田好治氏・沢田鈴歳氏・増村宏氏ら鹿児島の方々の研究によれば、「敬天愛人」の典拠は、サミュエル・スマイルズ著、中村正直(敬宇)訳述の『西国立志編』(原書は『自助論』)である。同書は一八七一年(明治四)全一三編が静岡で刊行されているが、訳者の「緒論」に「民委官(メンバー・オブ・パーリメント=国会議員)なる者」が「敬天愛人の心ある者」であるとか、「西国古今儁傑」たちが、「敬天愛人の誠意に原づき、もってよく世を済い、民を利するの大業」を行なっているとするくだりがある。

 当時中村敬宇は静岡学問所の教授であった。静岡藩権大参事大久保一翁(忠寛)は、中村敬宇から同書の草稿を見せられ、「敬天愛人」の出典について中村に問い合せている。中村が「旧新約書」(聖書)と返事をしたところ、大久保はこの成句は漢籍にはなく、「西洋物漢訳書」にのみあると納得している。

 

  中村敬宇著「敬天愛人説」

 中村敬宇は、幕末にイギリスに行ったが、一八六八年(慶応四)帰国するや、すぐに徳川家に従い、駿府に移った。そこで「敬天愛人説」上下二篇(原漢文)を執筆している。

 これは「敬天愛人」の解説であるが、「何をか愛人という、曰く、天を敬するがゆえに人を愛す。わが同胞を愛するは、わが父を敬するによる。」という一節がある。この父は「天上の父」つまりキリスト教の神である。

 新約聖書のマタイ伝には

「汝、心を尽し、精神を尽し、思いを尽して主なる汝の神を愛すべし。これは第一の誠命なり。第二もまたこれに等し。己れのごとく、汝の隣を愛すべし。」

とある。これを中村が「敬天愛人」という四字で表現したのである。中村が敬宇と号するのも「敬天」に因んでいるものと思われる。

 

  西洋思想の受容

 西郷隆盛はおそらく『西国立志編』を読んで、「敬天愛人」の語を知り、これに共鳴したのであろう。西郷は福沢諭吉の『文明論之概略』を賞賛していたが、福沢もアメリカ建国の精神として「神を敬し人を愛する」点をあげている。このことも西郷の「敬天愛人」への共鳴を深めたと思う。実際西郷は日頃「ワシントン殿」への尊敬を口にしていた。

 なお中国にも先例がある。一六七一年(康煕十)に清の康煕帝が「敬天愛人」という扁額を書いて、キリスト教会に与えたことがある。これは後年「天」をめぐる解釈で清朝とローマ教会とが衝突するもととなった。

 以上のように西郷隆盛の「敬天愛人」は、儒教の教典から直接発想されたのではなく、儒教的教養を土台としつつも、維新期の西洋文明理解から抽出された観念を受容したことによって生まれたものである。この点は『南州遺訓』を編纂した旧庄内藩士たちには理解できなかったのであろうが、そろそろ西郷隆盛を道学者的イメージから解放する必要があるのではないか。

 諸橋轍次氏編『大漢和辞典』が熟語について最初の出典を記す方針であるならば、「敬天愛人」の出典については、当然改訂されるべきであろう。

 

 

補遺 


  康煕帝書「敬天愛人」

 さて「天上之父」=キリスト教の神は、もともと日本では「天主」と呼ばれてきた。ただし近世にはキリスト教が禁圧されていたから、「天主」観念の発展ははっきりしない。

 しかし中国では「天」と「天主」をめぐる思想的格闘があった。一八世紀初頭の典礼論争である。

 一六七一年(康煕十)清の康煕帝が「敬天愛人」という扁額を書いて、キリスト教会に与えたことがある。これが後年問題を生じた。

 一七〇三年イエズス会のマテオ・リッチ(利瑪竇)は儒教の「天」は上帝であり、キリスト教の造物主すなわち「天主」と同じと解し、折衷的な解釈で中国キリスト教徒の孔子や祖先への伝統的行事を黙認した。

 しかし後継者ニコラス・ロンゴバルデ(龍華民)は、中国の「天」は宇宙に広がる空間・自然であって、神ではないとし、孔子崇拝や祖先への伝統的行事は偶像崇拝であるとして、「天」「上帝」の用語の使用を禁止した。

 一七〇四年ローマ教皇から派遣された使節は康煕帝に謁見して「天」「上帝」の呼称の厳禁、「天主」への統一、孔子・祖先崇拝の禁止を上奏した。康煕帝はこれに激怒し、マテオ・リッチ的解釈に従うもののみ許容することとし、一七二四年には雍正帝は天主教=キリスト教を全面的に禁止した。これが典礼論争である。「天」をどう理解するかは、中国文化圏におけるキリスト教のあり方にかかわる重大問題であったのである。

 それはともかく中村敬宇の「敬天愛人」の二〇〇年前に清の康煕帝がこの四字成句を発案していたのは面白い。

 以上の「敬天愛人」については、一九六〇年代前半のころ鹿児島大学におられた井田好治氏(のち九州大学をへて横浜国立大学)がこの問題に着目されていた。鹿児島城南教会牧師沢田鈴歳牧師が中村敬宇著『西国立志伝』について研究され、鹿児島大学法文学部史学科の増村宏氏が中村敬宇著「敬天愛人説」について研究された。これには大久保利謙氏の『西国立志編』についての研究(一九六六年)と、高橋昌郎氏の『中村敬宇』(一九六六年)が三氏の研究を大いに刺激している。そして井田氏が中国キリスト教の歴史のなかから問題を再発見されたのである。

 これにより西郷隆盛の「敬天愛人」が、中国の儒教の教典から直接発想されたのではなく、儒教的教養を土台としつつも、幕末・維新期の西洋文明とキリスト教理解から抽出された観念を受容することによって生まれたことが明らかになった。これにより西郷隆盛を道学者的イメージから解放し、日頃「ワシントン殿」への尊敬を口にしていた西郷隆盛自身が、『西国立志伝』全体をつらぬく精神としてこの言葉を受け留めたのであることが明らかとなった。

 諸橋轍次氏編『大漢和辞典』が熟語について最初の出典を記す方針であるならば、「敬天愛人」の出典については、当然改訂されるべきであろう。

 

 「敬天」のみであれば、広瀬淡窓のようにくわしい論をしたものもおり、似たような表現は中国の古典には多数ある。しかし「愛人」と結びつけ、一体のものとして論じたものはない。西郷隆盛の「敬天愛人」論を儒教の教典のいずれかのくだりと結びつける見解は多数あるが、いずれも根拠はない。思想というのはその人物の人生経験のなかで形成されるのであるから、具体的な形成過程が明らかにされないと空論に等しい。




付記 2004年10月30

最近の論文を付加する。
6)平川祐弘,マッテオ・リッチと「敬天愛人」,愛知大学国際コミュニケーション学会,文明,21,4,,Z71-C134,2000.03,pp.226〜217
7)岩崎 秀二,敬天愛人源流考 ,現代科学論叢,27・28,1994.12,p67〜74 Z22-519
8)藤原暹・平野尚也,中村敬宇における「敬天愛人」の思想,Artes liberales (岩手大人文社会科学部)58,1996


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