(2008年10月28日このホームページに掲載する)


<歴史の小径>西郷隆盛「遣韓論」を哂う

田村貞雄



東海近代史研究会,東海近代史研究,29,2008.03,pp.61-71, 

 (原文は縦書)


   一、太史ノ簡、董狐ノ筆

 

 学界ではとっくに破産した毛利敏彦氏の「遣韓論」の亡霊が、世間ではなお蠢いている。インターネットでは荒唐無稽な西郷論が横行しているし、二〇〇七年三月には、鹿児島県知事が教科書会社に改訂を要求し、一社が応じたと報道された。この件に関する歴史教育関係者の反応は鈍い。最近では敬愛する佐高信氏までが、『西郷隆盛伝説』(角川学芸出版 二〇〇七年四月)において、毛利説を援用されている。

しかし歴史研究者の第一の使命は、たとえ皇帝国王の命たりとも、また圧倒的な世論の非難があろうと、ひたすら史料を調査研究して史実を究明し、その結論を書き残すことにある。かって宋の文天祥が、「天地正気歌」において、「在齊太史簡,在晉董狐筆(齊ニ在リテハ太史ノ簡[1],晉ニ在リテハ董狐ノ筆[2])」と歌った通りである。

 小生は非力にして、到底、太史の簡、董狐の筆には及ばないが、「遣韓論」の亡霊を征伐し、歴史学の正気を恢復せんとするものである。以下に紹介するのは、その記録である。

 なお、インターネットのサイト及び電子メールはすべて横書で、数字はアラビア数字を使用している。転載に当っては、それを竪書に直したが、あえて漢数字にはしなかった。

 

二、鹿児島県知事の遣韓論

 

伊藤祐一郎鹿児島県知事が西郷隆盛の征韓論に関して教科書会社に訂正を要望したという報道(二〇〇七年三月一日共同配信)に接し、鹿児島市に本社のある『南日本新聞』に次の投書をしたところ、二〇〇七年三月十四日付で掲載された。

 

「鹿児島県知事が、教科書会社に西郷隆盛の征韓論を遣韓論にするよう要望し、教科書会社の一社がそれに従ったという報道に驚いている。

鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画[3]」という文書が載っている。これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。

参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。

西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。

西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」と記されていることも興味深い。

また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、当該地域の地図を探したという挿話を述べている。西郷が征韓論を唱えた史実は、まったく揺るがないのである。」

 

 以下に典拠の関係箇所を紹介し、若干の注釈を付したい。

 なお『朝日新聞』と『世界』(岩波書店)にも同一趣旨を投稿したが、掲載されなかった。

 

  三、西郷と板垣の朝鮮攻撃戦略

 

まず広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」のうち、第六「近衛兵ノ瓦解ト征韓兵ノ部隊竝ニ西郷、板垣二氏ノ戦略」の全文を記す[4]。「( )内はわたしの注記である。

 

「一、桐野(利秋)少将ハ征韓ノ兵員ハ十大隊ヲ以テセバ充分ナリト云フ、又韓国ノ視察ヲ了ヘ帰朝シタル別府(晋三)少佐ハ、二三個中隊ノ兵員ニテ足レリト壮語スト云フ、然ルニ西郷(隆盛、参議兼陸軍大将)氏ハ一切ノ戦略ヲ挙ケテ板垣(退助、参議)、伊地知(正治、左院副議長)二氏ニ委スルノ考ヘナリキ、何トナラハ二氏ハ東奥ノ戦役ニ於テ其将才ノ凡ナラサルヲ顕ハシタルヨリ、深ク之ヲ信スル処アリト云フ、而シテ諸氏等屡々太政官ニ於テ征韓ノ戦略ヲ立テ、互ニ之ヲ論議セルニ方リ、西郷氏ハ先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城(当時は漢城が正しい。現在のソウル)ヲ包撃スルノ謀ニ出テバ、恰カモ嚢口ヲ括シテ物ヲ探ルカ如ク、韓廷遂ニ北クル(にぐる)ニ途ナカラント、副島(種臣、外務卿)氏之ニ賛成シタルモ、板垣氏ハ之ヲ否トシ、蒙昧韓国ノ如キヲ対手トスル戦闘ニアリテハ、先ツ其君主ヲ(とりこ)ニスルヲ主眼トスルノ必要ナルハ、亦タ貴説ト見ル処ヲ一ニス、然レトモ其戦略トシテハ、北方ヨリ南下シ、之ニ依テ全然敵ヲシテ遁路ナカラシメントスルハ、難事に属ス、故ニ兎ニ角兵ヲ釜山ニ上陸セシムヘシ、然ラハ事ニ迂ナル韓人ハ、必ス全力ヲ釜山ニ尽クシテ、我軍ヲ撃破セン事ヲ努メ可シ、此時ニ当リ我ハ全軍ノ三分ノ一ヲ釜山ニ残シ、三分ノ二ハ海上直チニ之ヲ江華湾方面ニ送リテ、突如京城ニ肉薄シ、其間ニ於テ更ニ釜山軍ヲモ海路平壌ニ送致シ、以テ敵ノ退路ヲ塞カハ其成功スヘキヤ疑フヘカラスト、西郷氏素ヨリ板垣氏ノ将才ヲ推スヲ以テ、敢テ争ハス、伊地知氏ハ又少シク其規模ヲ大ニシ大兵ヲ用ヒシ事ヲ要トシタルト云フニ、西郷氏ノ決心、己レ韓国ノ土ト化シタル暁ハ政府ハ堂々征韓ノ軍ヲ派遣スヘク、其進軍ノ戦略ニ就テハ、一ニ板垣、伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ヘ秘洩シアリト云フ、」

 

内容は前掲の『南日本新聞』への投書文に要約した通りである。

西郷の朝鮮北部への上陸論(平壌から南下して漢城を攻撃する)には外務卿副島種臣が賛成した。漢城攻撃には、国王を「(とりこ)」にする作戦が含まれていたようである。板垣は之に反対し、まず三分の一の兵力で釜山に上陸して朝鮮軍を引きつけておき、残り三分の二の兵力を江華湾に送って仁川(インチョン)に上陸し、漢城(ソウル)を占領するのである。この時、北に敗走する朝鮮軍に対し、釜山に上陸していた三分の一の兵力を海路平壌に送り、朝鮮軍を南北から挟撃するという戦略である。伊地知正治はさらに大きな兵力の派遣を主張したという。戊辰戦争では、板垣は、東山道先鋒総督の参謀として、甲州路を進み、伊地知は同じく東山道先鋒総督の参謀であり、また白河口の戦を指揮して寡兵で大勝利を収め、さらに会津戦争では板垣と伊地知が参謀として全軍を指揮した。

これに対して西郷は東征大総督の参謀であったが、江戸平和開城に活躍したものの、さほどの戦闘歴はなく、彰義隊の上野戦争では大村益次郎に指揮を委ね、わずかに出羽庄内藩(酒田)接収に出かけた程度である。

西郷はかねがね板垣と伊地知の軍歴を高く評価していたのであろう。朝鮮に派遣される西郷は死を覚悟しており、外交交渉に失敗して自分が殺害(「韓国ノ土ト化シタル暁」)された後の朝鮮攻撃の戦略は、板垣と伊地知に一任すると、「門下中ノ領袖」すなわち桐野利秋、篠原国幹らに言い含めたのであろう。

この論議は「太政官」で行われたとあるから、多分一八七三年(明治六)八〜九月のことであろう。米欧に派遣されていた岩倉具視が帰国する以前のことである。

 以上に見るように、いわゆる遣韓論なるものは、大使派遣計画の前半部分しか見ていないのである。

 

 広瀬為興は、もと土佐藩士で、板垣退助、林有造の側近の一人である。一八七七年の西南戦争に際して、林有造らは挙兵計画を立てるが、広瀬はその謀議に加わっている。林はこの件で逮捕され、一九八四年まで入獄していた。林の記録に、「旧夢談」(明治文化全集雑史篇)「林有造自歴談」(土佐群書集成十五)がある。右の広瀬稿もその一つで、板垣退助の葬儀の際の有志の話し合いで、林の回想を中心に広瀬が纏めたものである。

 広瀬はこれを出版したかったらしいが、実現したのは、一九七二年高知市立市民図書館の土佐群書集成第二八巻としてであった。同書巻頭に吉村淑甫氏が詳細な解題を書いている。その後広瀬著は、『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)に全文収録された。鹿児島県知事が県の出版物に目を通していなかったのは、不明というべきである。

 

  四、有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』関係箇所全文

 

西郷の朝鮮占領後の支配計画については、当時司法省出仕であった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗[5]』(日本警察新聞社 一九二一年)を参照されたい。

 

 「若し西郷先生の主張通りに成って、愈々海外に兵を出すと云ふことに成れば、文官側としては、伊地知さんと私とが随行することと定められて居た、

「お前は占領した地方々々の事を捌いて行く役に為るのぢや」

 と先生は云つて居られた、多分民政官見た様なもので有つたろう、

  私等は右の内命を受けてからは、毎日/\公務の暇々には、満鮮の地図を拡げ、地理の研究に没頭して居たが、或る日先生は、

  「どうも此等の地図は不完全極まるもの(ばか)りで、余り役に立ちそうにない、思ふに旧幕江戸町奉行所には、比較的完全に近いものが有つた筈ぢゃから、お前は何とかして捜し出して来い、それと一緒に必要と思ふ書類も併せ捜索するがよからう」

 と云はれた、丸で雲を掴む様な話だが、色々苦心の結果、元町奉行所与力であつた佐久間長敬が判事で、私と同席なので、それに渡をつけ、二三度待合に案内迄して、ソロ/\話し出して、其捜索方に付助力を頼むと、何の事ツタ、其捜索に苦心している地図は、佐久間自身が持つて居ると云ふではないか、流石の私も其時は実際口アングリさ、兎に角目的物が分かつたので、早速先生に手渡しすると、

  「ウン、是れ/\、是があれば、誠に仕合、併し私には分からんから、早く伊地知に見て貰へ」

 と云はれた、参議陸軍大将が地図が分からぬと云はれる、決して知つた風をせられまい、非常に偉大な威神力があつた、

  マー其様(そん)な風で不完全乍らも色々と材料を集め研究して、それか駄目に為つたのだから溜らんよ、[6]

 

 有馬純雄は戊辰戦争では薩摩軍の小隊長で、下総流山で新撰組の近藤勇を捕虜とし処刑した。維新後、弾正台(弾正大巡察)に入り、廃藩置県後は、司法省の官吏となっている。一八七三年(明治六)の征韓論政変の時は、司法省少判事であった。毛利敏彦氏の西郷の征韓論否定論が出たとき、片岡吾庵堂氏が有馬のこの回想を援用して毛利敏彦説を批判されたことがある[7]

なお有馬の回想の現代語訳が、上野一郎編『私の明治維新 有馬藤太聞き書き』(産業能率短期大学出版部 一九七六年)である。

 

   五、池田寛治意見書

 

 西郷は「戦は二段に相成居申候[8]」と述べている。西郷使節の交渉が失敗した場合(最悪の場合は殺害される)、開戦という主張である。それに対して、大久保利通は七ヶ条の理由を挙げて反対した[9]。そのなかに開戦・占領の場合の大変な負担と諸外国の干渉の危険をあげたくだりがある。そのうち財政負担については、秘書官池田寛治からの大久保宛の文書が、兵力一〇万名を派遣した場合について、詳細に論じている[10]。これはあらかじめ大久保が命じていたものである。

 この点、わたしは次のように述べている。

 

 「実際にも使節派遣が順調に行くとは考えられない。おそらく釜山に上陸しただけで、入京は拒否されるだろう。使節が殺害されることはないだろうが、西郷の訪問を拒否されたことを国辱として、強硬な開戦論が巻き起こり、それに押されて政府は開戦を決断せざるを得なくなるだろう。大久保はこうした事態を見越して、現時点での西郷の派遣が、開戦をもたらしかねないとして反対したのである。

 大久保利通は、開戦となれば十有余万の募兵が必要であり、弾薬銃器船艦運輸など出兵費用も1日あたり数万かかる、かりに勝利しても、数年間の長期占領の費用も多額となる、さらにロシア・清国の干渉も予想され、大変な危機となろうと言う。

 この点については9月22日提出とされる秘書官の池田寛治の派兵の財政的負担と内政への影響についての意見書[11]がある。これは藤村道生氏[12])がはじめて取り上げられたもので、大久保の見解をサポートした貴重な史料である。

 池田は朝鮮へ派遣した使節が屈辱を受けた場合、派兵せざるを得なくなるが、その場合派兵兵員を十万と見積もると、その財政負担はかなりのものであり、かりに攻略に成功しても占領の維持は困難である。また負担に堪えかねた人民が擾乱を起こし、全国大乱もあり得るとし、これでは「文武ノ事業ヲ盛大ニ起シ、東洋諸国ノ冠トナリ文明諸国ト駢立スルヲ得ンヤ」と言う。そしてアメリカ・フランス2国が辱めを受けながら、必ずしもその罪を問わず、国内の課題を優先している例をあげ、「况ヤ我日本ノ如キ、内ニ最施可キ急務ノ充満シタル国ニ於テヲヤ」と結論している。

 この池田意見書は大久保の要請によって提出されたものらしく、これを大久保の意見書と重ね合わせると、大久保の論理が一層鮮明に理解できる。」

 

 右のように征韓論における兵力派遣論には、桐野利秋、別府晋三のような即時派兵論、大使の西郷に護衛兵をつけようとするなどの護兵論、使節失敗後の全面攻撃論(国王を捕虜とし、占領行政を行う)の三種があったようである。それが一部の研究者に混同されて議論されてきたのである。いわゆる遣韓論は恣意的な史料の選択と分析により成り立った砂上の小屋(楼閣ほど壮大ではない)に過ぎない。

 

 六、征韓論でたらめサイト

 

 わたしは自分のホームページに、右の文章を公表し、さらに次のように書いた。

以上については、くわしくは拙稿「桐野利秋談話」(一名「桐蔭仙譚」)について」(日本大学国際関係学部国際関係研究所『国際関係研究』26巻一号、二〇〇五年七月、.一六三〜一八九ページ)を参照されたい。

もし征韓論政変について発言されるなら、一九九〇年頃の毛利敏彦氏とわたしの論争を読んでからにしてもらいたい。わたしは五本書き、毛利氏は完敗し、以後、「遣韓論」などとはおっしゃらなくなった。

http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/keiseiki.htm#seikanron

征韓論政変に関する史料と研究文献については、次を参照されたい。

http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/seikanron1.html

(付記 二〇〇七年三月30日)

 この程、鹿児島県知事が、西郷の征韓論の表記を遣韓論に改めるよう教科書会社に要請し、一社が応じた。これに憤激し、鹿児島の南日本新聞に「西郷の征韓論は史実」と題する短文を投書したところ、三月十四日朝刊七面に掲載された(冒頭に引用)。

 

西郷隆盛でたらめサイト一覧

1、このサイトは「西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません。」と、でたらめなことを述べている。
このサイトは、敬天愛人について古ぼけた説をまだ主張している。西郷が揮毫した「敬天愛人」は、今のところ、一八七五年(明治八)以降の一〇点である。
現在の研究では新約聖書が原拠で、中村正直の「敬天愛人説」は一八六八年、『西国立志編』は一八七一年。また福沢諭吉の『文明論之概略』が一八七五年。西郷はこれらの影響を受けているのである。最初は清国康煕帝の揮毫である(一六七一年)。稲盛和夫氏の『敬天愛人』もでたらめである。
 詳細は「敬天愛人の原拠」参照。(本稿六に掲載)

http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/keitennaijin.htm

 昨年わたしは、電子メールを送り、上記の史料を示して検討を促したが、まったく検討された跡がない。あるいは不着かも知れないが、残念である。
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai11.htm
 一週間前に上記の趣旨を要約したメールを送ったが、まだ何の返事も、変化もない(2007.03.13)。

2、 次のサイトも、次のようにまったくでたらめな記述をしている。

「第一にして最大の誤りは、西郷隆盛は「朝鮮半島に兵をだす」ことを主張したことなど全くなかったことである。」http://www.asahi-net.or.jp/~bh3h-smjy/rekisi/mei6.htm

三月十二日に送ったメールに返事が来た。

■■です。はじめまして。返事が遅れて申し訳ありません。あの話はかなり、というか、そうとう偏向してわざと書きました。毛利氏の著作が否定されているというのは知りませんでした。ありがとうございます。鹿児島県史とツダドンの本は、折を見て確認します。ただ西郷隆盛本人の真意については、まだ半信半疑です。もちろん戦争不可避の場合に備え、攻め口や戦後経営を考えるのは当然でありましょう。ただ積極的に戦争やるつもりだったのか、それとも朝鮮に勝海舟みたいなのを見つけ出して、瀬戸際で回避という離れ業をまたやるつもりだったのか。ちょっと疑ってみたりしています。ではでは。(三月二十一日)

これに対してわたしは次の返事を送った。(数字を竪書に訂正)

■■様

メールを有難うございます。

とりあえず、拙稿二点を添付で送ります。御検討下さい。

毛利氏の弱点は次の点です。

1、毛利氏はこの時期の政争を藩閥間の争い(とくに肥前対長州)としているが、廃藩置県以後、新政策と予算をめぐり、各省ごとの対立が激しくなっており、その背後に開化政策の対立があったと思われる。

2、留守政府と使節団の対立の全体的考察の欠如

3、大久保の征韓論反対書の過小評価、この7ヶ条こそ西郷の意見への反対論であり、西郷の征韓論の全容をうかがい知ることが出来る。

4、江藤の評価ーー大久保に反対するために征韓論を提唱したという主張ーーの誤り。これは毛利氏の単なる想像に過ぎず、根拠がない。

5、史料処理の誤り、ボアソナード文書、江華島事件の際の大久保の意見書など、史料のミスが大きい。

(以下文献紹介は長文なので省略)

 学界には、毛利氏の支持者は一人もいません。

といって、すべての人がわたしの支持者ではなく、わたし以上にすぐれた考察をしている若手が台頭しています。 

 なお征韓論とは関係ありませんが、西郷の「敬天愛人」の語は、新約聖書に基づいている説をご存知ですか。最初は清の康煕帝、日本では中村正直(一八六八年=明治元年)が最初で、西郷のは一八七五年以降でしょう。福澤の『文明論之概略』の影響もあります。

西郷は、西洋通の島津斉彬の薫陶を受けており、道学者流の認識を持っていたとは思えません。

 なお西郷の遺訓も、一八七〇年頃ではなく、一八七四―一八七五年ころの編纂で、庄内藩士が理解できた範囲の筆録であり、西郷の思想の一部しか伝えていないと思います。

西郷研究は、根本的にやり直す必要があります。

質問があれば、なんでもお答えします。

以上」(三月二十四日送信)

しかし、本日現在何の返事もなく、サイトも修正されていない。(二〇〇七年十月二十三日) 

3、次のサイトも、まったく不勉強なサイトで、こんなでたらめを述べている。「いわゆる「征韓論」などは、西郷のどこを振っても出てきません。」

http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/2005/03/post.html

 ここはアドレスが分からないので放置している(2007.03.13)。

4、次の「一風斎の趣味的生活」は、読書家のブログとしては面白いが、毛利敏彦氏の『明治六年政変』(中公新書 一九七九年)を最近読まれて、「通説を打ち破った」として、感動しておられる。この本が出た時、学会誌で好意的な書評は一つもなかったことを御存知なかったようだ。この書が、まだ絶版になっていないのも驚きだが、読書家が、一見分かる支離滅裂な論証に感心しておられるのは笑止の沙汰である。
 できうれば、「一読即感動」(一読するとすぐ感動しちゃう)のではなく、古人が述べたように、「兼せ(あわせ)聞けば、明るし」という態度を希望する。(2007.03.28)
http://blog.goo.ne.jp/ippusai/m/200611

 右の四つのサイトは、二〇〇七年十一月四日現在、まったく訂正されていない。

七、「敬天愛人」の原拠

 

 「敬天愛人」については、拙稿「西郷隆盛書「敬天愛人」の典拠」(『日本医事新報』三六〇八号、一九九三年六月、一四二〜一四三ページ)参照。拙著『新編 日本史をみなおす』2戦争と近代(青木書店 一九九七年)に概要を載せている[13]

「敬天愛人」の創唱者は、清の康煕帝、ついで中村正直である。
 西郷隆盛が揮毫した「敬天愛人」は、一八七五年(明治八)以降のものが10点残っている。この語は中村正直(敬宇)の造語で、イギリスから帰国した直後に駿府で「敬天愛人説」(一八六八年)を書き、ついで静岡で執筆した『西国立志編』(一八七一年)の訳者緒論にもこの語を使っている。しかしもともとこの四字成語は一六七一年(康煕十)康煕字典で有名な清の康煕帝が「敬天愛人」という扁額を書いて、キリスト教会に与えたことがあるのが起源である。しかし諸橋大漢和辞典は、この語を西郷隆盛に由来するとしている。
 わたしは十年あまり前に日本医事新報社の依頼を受けて「西郷隆盛書「敬天愛人」の典拠」という文章を書いたことがある。読者の医師から「敬天愛人」はキリスト教思想ではないかという質問があった由であった。
 『日本医事新報』三六〇八号(一九九三年六月十九日) 
 この時「二つの「敬天愛人」」(『静岡新聞)一九九三年八月十二日)も執筆し、こう締め括った。
 「諸橋轍次氏編『大漢和辞典』が熟語について最初の出典を記す方針であるならば、「敬天愛人」の出典については、当然改訂されるべきであろう。」
 2年前に京セラの稲盛和夫氏に近い人から、「敬天愛人」について話を聞きたいという打診があった。わたしは以上の大要を述べ、西郷が幕末きっての西洋通の島津斉昭の影響を受けていること、福澤諭吉の『文明論之概略』(一八七五年)を愛読していたことをあげ、古代中国の道学者風に描くことを止め、文明開化期の啓蒙思想との関連で西郷を評価することを勧めた。しかしそれっきりだった。
 最近出た稲盛和夫氏の新著『敬天愛人』(PHP研究所 二〇〇六年)は、この点の考察を欠き、まったくのでたらめである。

 西郷隆盛の「敬天愛人」という言葉は、儒教等の古典にあるのではなく、中村正直(敬宇)「敬天愛人説」および『西国立志編』に由来すること、さらに原拠を探れば、清の康煕帝であることは、四〇年くらい前からの研究者の研究によって明らかになっている。
「敬天」のみであれば、広瀬淡窓のようにくわしい論をしたものもおり、似たような表現は中国の古典には多数ある。しかし「愛人」と結びつけ、一体のものとして論じたものはない。西郷隆盛の「敬天愛人」論を儒教の教典のいずれかのくだりと結びつける見解は多数あるが、いずれも根拠はない。思想というのはその人物の人生経験のなかで形成されるのであるから、具体的な形成過程が明らかにされないと空論に等しい。

しかし「西郷隆盛のホームページ 敬天愛人」(http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/)をはじめ、多くのサイトで相変わらず学問的根拠はまったくない陳腐な旧説をながながと述べている。
 西郷崇拝も、ちゃんとした学問的根拠の上に組み立てて欲しいものである。

付記・「敬天愛人」初出についての参考文献。

@ 高橋昌郎『中村敬宇』(吉川弘文館 一九六六年)、

A 沢田鈴蔵・増村宏「中村政直の敬天愛人」(鹿児島大学法文学部史学地理学教室『鹿大史学』一九号,一九七二年)、

B 増村宏「西郷隆盛の思想について」(『鹿児島大学法文学部文学科論集』七号,一九七二年)、

C 井田好治「敬天愛人の系譜 南洲と敬宇と康熙帝」(『明治村通信』一五五号 一九八三年,転載:西郷南洲顕彰会『敬天愛人』二号 一九八四年)、

D 大久保保利謙『幕末維新の洋学』(『大久保利謙著作集』第五巻)(吉川弘文館 一九八六年)

E 平川祐弘「マッテオ・リッチと「敬天愛人」(愛知大学国際コミュニケーション学会『文明』二一巻四号 二〇〇〇年三月 二二六〜二一七ページ)

F 岩崎 秀二「敬天愛人源流考」(『現代科学論叢』二七・二八号 一九九四年十二月 六七〜七四ページ)

G 藤原暹・平野尚也「中村敬宇における「敬天愛人」の思想」(岩手大人文社会科学部『Artes liberales』五八号 一九九六年)

 

六、歴史教育者協議会の拒否

 

 若い頃、会員だった歴史教育者協議会にも、投稿を打診するファックスを送ったが、掲載の予定が立たないということで拒否された。

 

(1)歴史教育者協議会宛のわたしのファックス(二〇〇七年三月十二日)

歴史教育者協議会御中 

若い頃会員だったものです。今は停年退職して、閑居しております。

 鹿児島県知事が西郷隆盛の征韓論を教科書から削除せよと言い、一社が受け入れたことが報道されました。

 以前に、次の文章を御誌に書いたことがあります。

「「征韓論」政変の評価をめぐって――毛利敏彦説批判――」(歴史教育者協議会『歴史地理教育』四六一号 一九九〇年九月号)

 その後、毛利氏とは歴史学研究、日本史研究誌上で論戦しました。

 毛利氏はその後沈黙しましたが、一般にはかえって広まりました。

 そこで別紙のような要旨の一文を、御誌に投稿したいのですが、いかがでしょうか。

もしよろしければ、字数をお示しくださると、もう少し内容を豊かにして、投稿します。

 くわしくは、わたくしのサイトをご覧下さい。

http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/seikanron2.html

田村貞雄

西郷隆盛の「征韓論」は、史実である。(要旨)

  (『南日本新聞』への投書と同文。この時にはまだ掲載されていなかった)

 

(2)右に対する歴史教育者協議会の返事(電子メール)

田村貞雄様

 お世話になっております。

 この度は、『歴史地理教育』へのご投稿原稿(西郷隆盛の「征韓論」は、史実である)
につきましてのFAXを3月12日にお送りくださいましてありがとうございました。
 ご投稿予定の内容につきまして、編集委員会及び常任委員などの担当者で検討させていただきました。その結果、残念ながらしばらく掲載の予定がたたないということになりました。
 『歴史地理教育』の限られた誌面のなかで、当面の企画内容から考えまして、掲載は困難ということでございます。せっかくのご意志におこたえできませんことを大変申し訳なく存じますが、なにとぞご了承くださいますようお願いいたします。

 また、お返事をさしあげるまでに長い日時を要しましたことをお詫び申し上げます。なお、今後、しかるべき機会がございましたら、改めて原稿をお寄せくださいますようお願いいたします。

 『歴史地理教育』が、ますます皆様に役立つ雑誌として発展しますよう、今後もお力添えをどうぞよろしくお願いいたします。

   2007年5月17日
 (住所略) 歴史教育者協議会『歴史地理教育』編集委員会(電話略)

 

(わたしの感想)教科書裁判を起された家永三郎先生は、二〇〇一年に亡くなった。歴史教育者協議会が教科書裁判への関心があったのは、遠い過去のことだったらしい。

 

     おわりに

 

わたしは最近、幕末の江戸の町々を襲った御用盗についての論文を書いた。

「幕末江戸における御用盗の横行と御札降り[14]」(二〇〇七年七月)

その「はしがき」と「あとがき」を、ここに再掲する(原文横書)。

はしがき

「幕末の一八六七年(慶応三)の年末に江戸市中に浪士たちによる御用盗が跳梁し、さらに昼夜を問わず浪士と幕府歩兵らによる無銭飲食、喧嘩、辻斬りが横行していた。江戸市中は恐怖のどん底に陥っていた。跳梁した御用盗の大部分は、薩摩藩の手先となった浪士たち(薩邸浪士隊)の犯行であるとされている。薩邸浪士隊は、のちに相楽総三率いる赤報隊を構成するが、その記録である「赤報記[15]」及び落合直亮「薩邸事件略記[16]」は、一件のみ犯行を認めつつ、御用盗の大部分は、一般の浪人たちが便乗したものであると弁解している。多くの史料を駆使した長谷川伸『相楽総三とその同志[17]』も、浪士隊と偽浪士隊と区別するように述べている。

 しかし御用盗については、信頼できる研究はほとんどない。世上流布しているのはすべて小説で作られたイメージで、大佛次郎(一九二五年)を最初とし、高木彬光、峰隆一郎、宮城賢秀、東郷隆、津本陽などの作品があるが、いずれも確実な史料に依拠しておらず、すべて空想の産物である。

御用盗が頻繁になったのは、十一月に入ってからであるが、同月二十日ころから突如として御札降りがはじまった。御用盗の頻発と御札降りはほぼ同時期である。

  江戸の御札降りについては、南和男氏が『幕末江戸社会の研究[18]』で、『藤岡屋日記[19]』及び「慶応三丁卯珍説風聞記[20]」(後述のように本稿では珍説記と略記する)等を援用して、詳細に明らかにされた。

御札降りがあると、御札を神棚に祭り、酒と食事を用意して隣近所や親族を招き、馳走するのが通例である[21]。これを御札祭りという。江戸ではこの御札祭りは行われたであろうが、街頭で狂喜乱舞し、各家に踊り込む「ええじゃないか」はなかったと思われる。

本稿は、各種史料を渉猟して、御札降りの横行と「ええじゃないか」の頻発する1867年(慶応三)の十一月・十二月の江戸市中の模様を示すことを目的としている。」

あとがき

「御用盗は、薩摩藩による江戸撹乱工作であるとともに、重要な資金獲得手段であった。しかし本稿では御用盗事件の全貌を明らかにすることにとどめた。江戸撹乱工作の全体については、すでに多くの研究があるからである。

薩摩藩の手先となって御用盗を働いた薩邸浪士隊は、のちに赤報隊になるが、東山道進軍中、偽官軍として抹殺された。「絞兎死して走狗烹らる」の古諺通りの経過である。指揮者の薩摩藩士伊牟田尚平、益満休之助の死も、命令者にとっては幸運であった。

 幕末においては、武士下層(中間・足軽・陪臣等)または庶民出身で、政治活動に飛び込んだ人々を草莽の志士として評価している。しかし武士への上昇の欲望を持っている限り、庶民への蔑視と残酷な所行は、かれらの本性である。佐幕派となった新撰組の場合も同じである。

 本稿では、御用盗とは一件無関係に見える御札降りにも注目した。御用盗の横行と御札降りの盛行は、ほぼ同時期であるからである。御札降りが「ええじゃないか」に転化しなかったところに、治安の悪化への庶民の恐怖心とささやかな願望表明を看取できよう。」

 

 御用盗の命令者は、西郷隆盛である。

 前掲稿では、主として珍説記により御用盗事件の一覧を載せている。その数は典拠不明のものも含め、五八件にのぼる。また御用盗の掠奪した金額は、珍説記によると二〇〇万両であるが、少なく見積もっても五〇万両以上である。これが戊辰戦争初期の薩摩藩の軍資金となったことは想像に難くない。しかも浪士たちの無銭飲食、街頭での辻斬りなど傍若無人の振舞の被害は無数である。前掲拙稿の一部を引用する。

 「十一月二十四日午刻、青山で道具屋が五人組の追剥に遭い、懐中の金子と着類を奪われた。同じ時刻に赤坂紀伊国坂で女二人、男三人が追剥に会った。二十六日の記事には、「此頃夜々往来ニ而乱妨之侍多く諸々ニ而疵請候男女多し」とある。その日の戌刻には、芝車町の水菓子屋の前で突然侍が通行人に切りかかってきたので、掌を切られたが海に飛び込んで命は助かったという。

悲惨なのは十一月二十九日酉中刻(午後七時ごろ)芝田町で横浜見物に行った家族連れが侍躰の者とすれ違ったところ、父親が頭から切られて割られた。無惨なものである。妻と娘は検使の役人に侍の容貌を申し立て、敵討ちを願い出たという。」

薩摩藩屋敷は三田、高輪にある。ここを根拠地とする浪士たちが、日夜江戸市中を徘徊し、暴虐の限りを尽しているのである。江戸城の南側、現在の港区(青山、芝、三田)は無法地帯だったのである。

ある作家は、薩摩藩は、江戸市民に御用盗事件を陳謝したかと述べていたが、西郷は、御用盗についても、赤報隊についても沈黙を守った。西郷は、部下とその遺族への配慮をよくしたと言われるが、御用盗の真犯人の薩邸浪士隊、赤報隊の遺族については、きわめて冷淡であった。

 蓼食う虫も好き好きという。西郷が好きでも嫌いでも御勝手だが、史実の誤認や粉飾による崇拝は早晩破綻するし、生命力がないだろう。冒頭に挙げた佐高信氏をはじめ、西郷贔屓の人は多いが、これは歴史学とはまったく違う世界の与太話である。



[1] 太史ノ簡 「簡」は文書。斉の宰相崔杼が、主君霊公を殺した時(前五五五年)、事実を隠蔽しようとした。史官は「崔杼、其の君を弑す」と記録した。怒った崔杼は史官を殺したが、同じ史官であった弟も同様に書いたので殺した。しかし三人目の弟が記録に残した。

[2] 董狐ノ筆 晋の宰相趙盾は、時の悪名高い君主霊公に諫言をして命を狙われ亡命した。後に一族の趙穿が霊公を暗殺し、趙盾を呼び戻し、宰相に復位させた。しかし、君主を殺したのは事実であり、史官の董狐は、「趙盾が君主を殺した」と記した。

[3] この史料の初出は、『土佐群書集成 第二十八巻』(謄写版印刷 高知市立市民図書館 一九七二年)である。

[4]  『土佐群書集成 第二十八巻』(謄写版印刷 高知市立市民図書館 一九七二年)一八〜一九ページ、『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)一〇一七〜一〇一八ページ

[5] 上野一郎編『私の明治維新 有馬藤太聞き書き』(産業能率短期大学出版部 一九七六年)は同書の現代語訳である。(一八七〇年閏十月二十日元弾正大巡察、従七位、一八七一年八月二十八日司法中解部、一八七一年十月二十七日司法省権少判事、一八七二年六月七日司法少判事)

[6] 有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』(日本警察新聞社 一九二一年)二六九〜二七〇ページ

[7]片岡吾庵堂「一口ごめんなんせ 横目で見た郷土史」第四六回『朝日新聞』鹿児島版一九八九年十二月九日付。のち片岡吾庵堂『横目で見た郷土史 言いたい放題でごめんなんせ』(高城書房 一九九六年)所収。最近では杉谷昭氏が「続・「明治六年の政変」の再検討――西郷隆盛からの聞書」(久留米大学大学院比較文化研究科『比較文化年報』一二号  二〇〇三年三月)で取り上げられた

[8] 一八七三年八月十七日付板垣退助宛西郷隆盛書簡(『大西郷全集』第二巻七五四〜七五六ページ)

[9] 大久保利通「征韓論に関する意見書」、『大久保利通文書』五、五三〜六四ページ

[10] 立教大学文学部史学科日本史研究室編『大久保利通関係文書』一(吉川弘文館 一九六五年)一一〜一二ページ

[11] 『大久保利通関係文書』一(吉川弘文館)一一〜一二ページ

[12]藤村道生「征韓論争における内因と外因」(日本国際政治学会『国際政治37・日本外交史の諸問題V』有斐閣 一九六八年)

[13] 「14大アジア主義の出発」の章

[14] 「幕末江戸における御用盗の横行と御札降り(日本大学国際関係学部国際関係研究所『国際関係研究』二八巻一号、二〇〇七年七月、二四五〜二六八ページ

[15] 「赤報記」(信濃教育会諏訪部会編『相楽総三関係史料集』(信濃教育会 一九三九年)所収、復刻:青史社(発売:合同出版社 一九七五年)

[16] 落合直亮「薩邸事件略記」(前掲『相楽総三関係史料集』、なお落合直亮談話(『史談会速記録』十二輯 一八九三年三月十七日付、も参照

[17] 長谷川伸『相楽総三とその同志』(新小説社 一九四三年、復刻版 一九六八年、全集第七巻 朝日新聞社 一九七一年、中公文庫 上下 一九八一年)

[18] 南和男前掲書(一九七八年)

[19] 藤岡屋由蔵、 鈴木棠三・小池章太郎編『藤岡屋日記』第十五巻 三一書房 一九九五年)

[20] 国学院大学附属図書館所蔵

[21] 拙著『ええじゃないか始まる』(青木書店 一九八七年)