山口県地方史学会,山口県地方史研究,88,pp.46-65,2002.10,

 

 

前原一誠一行を捕縛した清水清太郎

 

田 村 貞 雄

 

はしがき

一、前原一誠一行の就縛

二、楊椒山文集と史可法文集

三、島根県吏清水清太郎

三、譲吉・清太郎・門弥

あとがき

 

は し が き

 

 一八七六年(明治九)十月末、前参議・兵部大輔前原一誠は、郷里である山口県の萩で乱を起こした。当初は日本海岸づたいに東上する計画であったが、かっての同志でありながら袂を分った異分子諫早(佃)基清一派が萩に潜入したという報を聞いて萩に戻った。ところが萩に到着していたのは政府軍の先鋒部隊であった。十一月一日反乱軍は萩市内で政府軍と交戦したが、予想に反して苦戦した。戦い利あらずと判断した首脳部は、かれらだけで日本海岸づたいに東上し、天皇に直訴した後に、刑に服そうとした。いわゆる「東上諫奏」である。従うものは、奥平謙輔・横山俊彦の両幹部のほか、弟の山田頴太郎・佐世一清と従者の白井林蔵、さらに須佐で加わった馬木工の六名、前原とあわせて七名であった。小舟は漁夫二名に漕がせた。

十一月三日前原一行は島根県神門郡宇龍(現簸川郡大社町)という小漁港に入港したところを、島根県の警官隊に捕縛された。当時の島根県令佐藤信寛および捕縛を指揮した島根県十二等出仕清水清太郎は、ともに山口県士族であり、前原一行を丁重にもてなした逸話が残っている。

本稿はこの清水清太郎についての考察である。

 

一、前原一行の就縛

 

萩の乱に関しては島根県側の史料が若干残されている。

 一、「島根県歴史 県治及警保附録」(「府県史料」国立公文書館内閣文庫所蔵、写本は島根県立図書館所蔵)

 二、「雑款 明治九年 国費部 文書科」(内題:九年山口県暴挙一件)(罫紙:島根県、一部島根県浜田支庁)

 三、「日誌 明治九年 庶務部 文書科」(島根県浜田支庁)

四、「巴城暴動一条」(角印:島根県修史科)明治九年十月三十一日〜十一月二十七日、(後半部分は「附録前誌日々朝野曙等ノ諸新聞ヨリ雑抄」)

これらが、前原一行就縛一件の研究にほとんど生かされていないのは残念である[1]。以下は右史料によった叙述である。

 萩の乱が起こったときから、海陸とも島根県は厳重な警戒態勢を敷いていた。十月二十九日午後九時、山口県からの暴動発生の電報が浜田支庁に入電した。その電報には「北方ニ及脱走ニ付自然其県へ遁逃モ難測、其辺御注意、夫夫厳重ニ御手当有之度」とあった。三十日には広島県からも「萩集合の暴徒(略)今暁脱走ス、必す石州口ナラン」という県令の伝言が入電があった。

 十一月三十日午後十一時浜田支庁は島根県庁宛に右内容および浜田支庁出張中の島根県中属塚本近義(明治九年官員録では三等警部)の通報、浜田支庁権少属吉田重遠を情報収集のため広島県へ派遣したことを松江の本庁に通電した(十一月一日午前七時受電)。

 十一月一日午後には、浜田支庁は、山口県が広島県へ依頼して送ってきた電報を松江に急報した。これは前原一誠ら一五〇人が石州高津を目指して出発したという内容で、ただちに県内に布達している。

「其区戸長ニ於テ飽マテ尽力、区民ヲシテ安堵セシメ候様取計フヘク、且北方ヘ向ケ逃走候義ニ付、脱徒自然管下ニ潜伏、人民甘誘候様ノ義無之共難申候間、胡乱ノ者ハ即時捕縛、当支庁ヘ可差出」

 浜田支庁は郷内、高津、六日町に巡査を増派した。また浜田警察出張所は、四等巡査木村万平を山口県の萩の北方須佐へ派遣していたが、三十日には前原ら約三〇〇人が港より出帆、逆風に会い引き返したと報じてきた。木村の報告を受けて島根県は、前原軍は県下飯浦で風を待ち、浜田松江経由鳥取に向かうと報告してきたので、この旨内務卿及び広島鎮台に電報を送った。これに対して広島県及び山口県から返電があり、島根県は広島鎮台に出兵を要請した。

十一月三日かれらを乗せた小船が入港した宇龍港は、日御岬の東方の漁村で現在は大社町である。「宇龍村誌[2]」(一八八五年調査)によると、本籍一三九戸、現住平民一四九戸、うち漁業一三〇戸、商業一九戸、人口は男三四二人、女三五三人、合計六九五人である。不審な船の入港を見た村人は恐れおののいた。すでに前原一行逃走の手配が来ていたのである。急を聞いてかけつけた警察官たちは、策を練った。

以下は廻船問屋塗屋藤村作之助の記録する「前原一誠就縛始末[3]」による。捕縛が十一月四日、記録は十一月二十日であるから、若干の錯誤を除いて信憑性は高い。

「十一月三日風雨強シ、午後三時頃一般ノ小舩入港ス、乗客六七名頗ル怪シムベキモノナル故、附キ舩大国啓三郎之レヲ組長安田市郎兵衛方ニ報ズ、折節用係木村啓右衛門、組長阿部忠三郎相会シ時碁ヲ闘ハシ居タルガ、此報ヲ得テ驚キ起チ区会所(福性寺上ノ間)ニ到リ、戸長永岡五郎右衛門ト議シ彼等ヲ遇スルニ普通ノ入港船ノ如クスベシトテ、問屋当番木村カツ代甚吉ヲ行カシメ、何レヨリ入港セシヤヲ問ヒ、且上陸ヲ促ス、彼等敢テ応セズ、傲然軽侮ノ言ヲ発ス、已ニ脱徒シタルコト顕然タルヲ以テ、副戸長高木儀助之ヲ杵築警察署ニ急報ス」

前原軍の来襲を警戒する県の布達は末端の町村浦島にも伝達されており、宇龍の戸長組長たちも怪しい小舟の入港と「傲然軽侮ノ言」から「已ニ脱徒シタルコト顕然」を判断し、杵築警察署(正確には屯所)に急報した。杵築屯所は現在の大社町の中心地にあったから、宇龍までは約八キロ[4]、屈強の男たちであれば山越えの道でも二時間以内に到着できよう。

「同夜警部岡田透ハ三宅、小笠ノ両巡査及ビ手先ノ土江富五郎、宮本丈五郎ノ二名ヲ率ヰテ出張シ、高木豊之助方ヲ詰所ト定メ、組長及村内ノ強壮ナル者ト共ニ服ヲ漁夫ノ如ク変ジテ沿岸各所ニ配置シ警戒ス」

杵築屯所は同日午後十時次のように電報した。

「三日午前第九時異躰ノ者九十人乗船シ宇龍港ニ入津シタル趣ノ注進ヲ得、直チニ同港ヘ出張ス」

「尋テ今市警察出張所在留五等警部岡田透ヨリ急報ヲ以テ宇龍港ノ滞船ハ萩ノ賊徒ニ相違無之見込ノ再報」

藤村作之助の記述に戻ろう。

「此夜ハ陰暦九月十八日ニシテ、雨止ミ月輝キ、一片ノ孤船権現島岸ニ繋ケリ、是レ即チ脱徒一行ノ乗レル所也、此日ハ恰モ天長節ナル以テ壮年輩ヲシテシャギリ(多人笛吹キ太鼓ヲ打鳴ラシテ歩行スルナリ)ヲナシ、頗ル喧囂セシム、蓋シ彼等ノ上陸ヲ促ス為メ也、」

十一月三日は天長節つまり明治天皇の誕生日で、祝日であった。昼間の風雨が夜になって止み、月も出てきた。旧暦九月十八日であるから満月を過ぎて三日目である。午後三時頃怪船が入港したのだが、月明かりのなかで急遽「シャギリ」を繰り出した。名目は天長節の祝賀だが、前原らの警戒心をとくためのカムフラージュである。仁之助の養子久蔵の『宇龍の悲曲』が偶然祭礼が行なわれたかのように記述しているが、この点は養父仁之助の記述のほうが信憑性が高い。

怪船入港の連絡を受けた島根県は、ただちに十二等出仕清水清太郎、七等警部桑原啓造、十五等出仕志立伝八郎(聴訟課員という)、二等巡査梶村某ら十人を汽船で杵築に派遣した。この時清水は臨時に警部の権限を与えられた[5]。清水清太郎は、この時第五課(学務)専掌、第一課衛生掛兼掌となっていた。当時島根県令は佐藤信寛(前浜田県令)であり、清水ともども山口県士族である[6]。清水は自分は学務担当であるといったんは命令を断ったが、佐藤県令のたっての要請で引き受けた逸話がある。清水清太郎の後年の述懐を引こう。

「我職ハ学務ニ在リ、警察ノ権ヲ侵スナキヲ得ンヤ、且、士明ハ我ノ師友ナリ、仮令清太郎ヲシテ警部ニ在ラシムルモ猶ホ忌避スヘシ、況ヤ其ノ職ニアラサルヲヤ、請フ固ク辞セン[7]

 士明および子明は前原一誠の字である。これに対して佐藤県令は次のように述べたという。

 「夫レ一誠ハ公ヲ以テセハ朝廷ノ功臣、私ヲ以テセハ同県ノ知友警吏ノ之ヲ虐待スルカ如キコトアラハ、廼チ共ニ公私ノ恩義ニ背カン、且ツ渠ト旧アル者ハ余ト参事境二郎ト子アルノミ、参事既ニ出テテ鳥取ヲ鎮撫ス、今子ニ非スンハ復人ナシ[8]

そこで清水は佐藤県令に対し、「公果シテ渠等ヲ東京ニ護送スルノ意アラハ、願クハ一書ヲ裁シ之ヲ証セ」と要請し、佐藤県令はたちどころに一書を認め清水に渡した[9]。清水は志立伝八郎とともに直ちに汽船で松江を発し杵築に急行した[10]

なお杵築屯所の岡田透(愛知県士族)は権少属兼五等警部であり、清水清太郎の十二等出仕の方が上級官である。

現地では岡田警部の指揮で、水を求めて上陸した漁夫二名を捕らえ、さらに漁夫が帰船しないことをいぶかしんで上陸した横山俊彦・白井林蔵を捕らえていた。佐藤県令の予想通り拷問が行われていたのである。横山は船底にピストルや刀剣を隠していると嘘の自供をし、時間稼ぎをしたようである。岡田は旧松江藩が農兵に貸与した銃を集めて銃撃を計画していた。清水清太郎は、旧長州藩士・前兵部大輔を鳥獣視するかと岡田の計画を退け、岡田を杵築にとどめ、七等警部桑原啓造・十五等出仕志立伝八郎と宇龍に至った[11]

この間、前原一行では横山が帰らないので、今度は奥平謙輔が上陸して、警官や村役人たちが集まっていた福性寺に至り、かれらに詰問していた。

五日午後三時清水清太郎らが現地に到着し、戸長の塗屋に入った。いわば現地本部である。塗屋の主人藤村作之助は次のように記している。

 「五日午後三時頃島根県中属清水清太郎一等警部室本閑之助警部巡査数十名ヲ率ヰテ来着、藤村仁之助方ヲ旅館トシ書ヲ認メテ前原ニ送ル、前原ハ清水ト同藩士ニシテ旧知ナルヲ以テ返書ヲ認メ奥平ニ托シテ上陸セシム」

清水清太郎は十二等出仕であって中属ではない。この肩書きの誤りは『宇龍の悲曲』(一九二五年)に引き継がれ、妻木忠太『前原一誠伝』(一九三四年)によって、広く流布された。また正しくは中属兼二等警部の室本閑之輔(山口県士族)は同行した確証はない。室本は十二等出仕の清水より階級が上である[12]

それはともかく、清水は佐藤県令の親書と合わせて、自分の手紙を送った。まず奥平が上陸して質問に答えたようである。清水の質問は四点で「此港ニ来レル所以ハ如何」「公等若シ一身ヲ我ニ委セハ穏便ノ処置ニ及バン」「山口県ニテ巨魁三名ヲ捕縛スルノ報アリ、果何者ソ、其一人ハ玉木文之進ノ説アリ、信乎」「鳥取ノ士族ニ結ヘリヤ」であった[13][14]。奥平は、負傷した山田頴太郎らの介抱を依頼し、投降を承諾した。前原も就縛を覚悟し、清水との面談を承知し、次の返書を送った。

 「薫香拝読仕候平生久要ノ心ヲ不忘深銘心肝僕今日ノ状態実ニ不忍傍観故ニ闕下ニ諌死ノ決心ニ候処風波ニ阻マレ発露此ニ至ル万事付天命捕縛相就候処不図得足下書万死中ニ如得一生心事万端不能尽筆紙幸御幸臨相成候得者区々ノ心情可致鏤述候間乍憚船次ニテ御来臨祈余ハ拝眉ノ上万鏤

  明治九年十一月五日         一誠頓首拜

清水清太郎殿」

 この手紙を持って奥平謙輔が再上陸した。そして前原一行全員が上陸したが、清水は一行を塗屋に招き、前原を上座に据えて次の間から挨拶し、一同を入浴させた後、一夜の宴を張った。

 

二、楊椒山文集と史可法文集

 

就縛後前原一行は戸長である藤村仁之助宅に入ったが、安藤前掲書には「清水ナホ参議ノ礼ヲ以テ之ヲ遇ス」とある。

「一誠、清太郎ニ謂テ曰ク、君モト我ト旧好相見サルコト二三年、今他郷ニ解逅シ艱難ノ末、君ヲ煩スモ亦由アルカナ、慚喜交至ル、我東京ニ護送セラルルハ固ヨリ願フ所ナリ、タトヒ然ラズシテ此ニ斬ラルルモ亦辞セザル所、但人人情ヲ免レサル所カ家郷ノ雙親妻児ノコト日夜胸ニ迫レリ、願ハクハ君之ヲ熟察セヨト、清太郎曰、君之ヲ安ゼヨ、後事ハ我亦微力ヲ添ヘント、共ニ泣下ル

 前原一行は松江の島根県庁に護送されるが、清水はある本を差し入れた。

 「清水、一誠ノ無聊ヲ慰メンガ為ニ楊椒山文集・史可法文集ヲ贈ル、一誠椒山集ヲ愛読シ其帙ノ裏面ニ左ノ文ヲ書シテ清水ニ返ス

千古丹心在此中」

問題はこの「千古丹心在此中」に託された想いである。

また清水に書を送り、「椒山遺嘱ノ文悉写以テ家ニ遺サントス、偶々獄中無紙不能如意以テ遺憾トナス、清清公幸ニ官暇ノ日謄写ヲ以テ僕ガ家ノ妻児ニ贈ラレ僕死後僕ガ家ノ家法トナサシメ賜ヘ、泣血歎願ノ至ニ堪ヘズ」と述べ、さらに家族への伝言をこまごまと依頼した。そして最後にふたたび「乞憫察、楊椒山年譜亦写シ以テ僕ノ児ニ贈与シ賜ヘ」と依頼した。

楊淑山(一五一六―一六五五)は、名は継盛、淑山は号である。明の諌臣とされる人物で、外交政策でしばしば諌言し、左遷後復職後も諌言をやめず、ついに刑死した。著書に『楊淑山先生文集』『楊淑山奏疏』等がある。

楊淑山(継盛)については、吉田松陰が何度か触れている。

「己未文稿」の「野山日記」安政六年正月十二日付の「士毅に復す[15]」では「僕頃ろ楊淑山集を課とす、逆鸞嵩賊の焔、豈に特り今日の政府のみならんや。而して淑山の時を待たずして言へるは、是れ淑山たる所以なり」と記している。

これにつづけて「楊淑山集に題す[16]」では、「楊淑山先生集」は海防僧月性から「子は能く淑山たる者、故に吾れ此の集を以て贈と為す」と言われて贈られたと記している。松陰は楊淑山の諌言と左遷を繰り返しついに刑死した波乱と苦難の人生と自分の人生を重ねあわせ、なお「抑々吾れの忠言、楊先生に愧づるあること甚だ多からずや」と自省し、今の獄中生活も「明の錦衣の獄に比すれば、万々多福」と記している。

松陰は安政六年七月中旬付高杉晋作宛の書簡で「獄中盂蘭」と題する漢詩を披露しているが、そのなかに「継盛唯応甘市戮 倉公寧復望生還 艱辛嘗尽丹心在 冤魂仍旧附故山[17]」の節がある。外交策で諌言して刑死した明の楊継盛、太倉の令で倉公と称せられた漢の淳于意は罪を得て刑死せんとするとき娘の父を思う上書により許されたが、二人とも死を覚悟していたのである。ここで松陰は艱辛を嘗め尽した「丹心」の在りかを問うている。「丹心」は後述するように前原一誠の遺書「千古丹心在此中」に引き継がれている。この詩は七月十九日付の高杉晋作・飯田正伯宛書簡[18]でも楊継盛と倉公に触れた一聯を引用している。なお同じ七月中旬の高杉晋作宛書簡[19]でも刑死した楊継盛と文天祥に言及している。

松陰は「留魂録」で「七月九日に至りては略ぼ一死を期す。故に其の詩に云ふ、「継盛唯応甘市戮 倉公寧復望生還」と述べているが[20]、松陰は二人の故事を思いつつ刑死の覚悟を固めていったのである。

一誠は松陰の刑死後の一八六〇年(万延元)三月十七日の日記に、「終日不出、読楊継盛年譜」と記している[21]。おそらく「淑山先生自著年譜」であろうと思うが、自らの刑死の前に清水清太郎に差し入れられて再読し、家族のために筆写してほしいと清水に遺言したのである。

 史可法(一六〇二〜一六四五)は諡は忠正である。中国明末の忠臣とされる人物。清の攻撃に揚洲で徹底抗戦し、捕われて殺された。『史忠正全集』四巻。

吉田松陰は安政五年二月上旬の「日下実甫の東行を送る序[22]」(「戊午幽室文稿」所収)、で中国史上の忠臣義士の諸人物について触れ、呉三桂、史可法、耿精忠の「三叛」についても「志」を同じくするものであり、「其れ必ず一に宜しきところあるなり」と評価している。

萩の乱および前原一誠については、乱直後から多数の新聞報道があり、また神風連の乱、秋月の乱、思案橋事件とあわせて小冊子が発行された。これらは西南戦争が始まると、影を潜めるが、一八八〇年代になると『明治太平記』の類に吸収されていく。

司法省萩臨時裁判所ならびに政府諸機関、山口県・島根県などの地方機関の公文書類は別として、関係者の個人記録やその編纂は案外進んでいない。管見の範囲でもっとも早い公刊物は奥平謙輔(号は弘毅)の詩文を集めた落合済三編・刊『弘毅斎遺稿』(一八八六年)があげられる。

だが最初の本格的な叙述は、清水門弥著『前原一誠伝』(大阪 宝文館 一八九七年)であろう。全文七十三ページ、口絵に一誠の肖像画と「千古丹心在此中」の書ある。この書の脇に、「右前原子明先生獄中所書於楊椒山全集帙上錢其絶筆」と墨書されている。子明は一誠の字である。

前述したようにこの「丹心」は、前述したように吉田松陰が楊継盛・淳于意(倉公)の刑死に当たっての覚悟をうたった「継盛唯応甘市戮 倉公寧復望生還 艱辛嘗尽丹心在 冤魂仍旧附故山[23]」に対応している。

著者清水門弥は楊椒山全集に記した一誠の書を口絵に掲げているのである。

清水門弥は文末の跋に次のように述べている。

「元治甲子之冬。余先子清太郎。同益田福原国司等賜死。以其参国政也。而前原子明以先子不在哀訴之列。救解甚力。子明之囚于嶋根。余辺在焉。宜有以報也。而国有大法。固非一人所能保也。子明獄中苦也。余因出楊淑山・史可法二家全集余之。子明与奥平謙輔。各就欄外。書其詩若文。慷慨悲憤。読者不涙之何従而堕也。子明既刑。大木司法卿命取検之。余曰。言有触犯。請尽抹去。卿一閲還附。今蔵余家。書中所称清太郎。即余旧字也。子明既為先子之知己。今不使其丹心血徒飽於蠧魚。帰湮滅。既為之伝。又録其詩文。付後。豈謂能報其者日之義乎。亦唯出於心情之不已而已。謙輔詩文併附焉。

明治二十九年晩冬     清水門弥識   」

 いささか解説が必要であろう。

元治元年の第一次長州征伐の敗北により、益田右衛門佐、福原越後、国司信濃ら三家老とともに死を賜った「余先子清太郎」とは、清太郎親知である。前原一誠はそのとき清太郎親知の救解に努力した。その前原一誠が島根に囚せられたとき、子孫である自分はそこに在り、恩に報いようとしたが、国の大法は如何ともなしがたかった。そこで自分は獄中の前原一誠と奥平謙輔に楊淑山・史可法二家の全集を差し入れたところ、それぞれ欄外に詩文を記してくれた。この件を裁判指揮に来た司法卿大木喬任に報告したところ、一閲して返してくれた。同書は今、余の家に所蔵している。

最後に言う。「書中所称清太郎。即余旧字也。」

要するに出雲宇龍において前原一行を逮捕した清水清太郎とは、清水門弥自身のことなのである。しかし一般に流布している清水家系図には門弥の名はなかった。それどころか一八七六年(明治九)の萩の乱当時の清太郎に該当する人物がいないのである。

清水清太郎は、長州藩寄組清水家の当主であるが、同家の当主は代々長左衛門あるいは清太郎を名乗ってきた。遠祖は備中高松城主清水宗治で、羽柴秀吉の毛利攻めを迎撃して水攻めに合い、和睦に際して切腹をしたことが知られており、また二代前の清太郎(親知)は、前述のように一八六四年(元治元)末、俗論党政府によって切腹させられている。清太郎(親知)の養父清太郎(親春・美作)は、再家督したが、かれは一八七五年(明治八)死去した。諸系図ではその跡を為之進ついで民之助が継ぐが、いずれも幼少であり、島根県吏の清太郎ではありえない。

では諸系図に載っていない島根県吏清水清太郎は、どういう人物であろうか。

そこからわたくしの探索が始まった。

 

三、島根県吏清水清太郎

 

島根県吏清水清太郎については、官員録・職員録で調査した。

次に島根県吏としての清水清太郎の経歴をみよう。

「府県史料」(国立公文書館内閣文庫所蔵)中の「浜田県史料・浜田県官員履歴」「島根県史料・島根県官員履歴」から次の経歴が明らかである.

一八七五年(明治八)七月十二日 浜田県少属

    「浜田県官員履歴」

一八七六年四月二十六日 浜田県廃止、島根県へ合併

五月四日 島根県十二等出仕、第一課事務専掌、浜田支庁詰「島根県官員履歴」

 七月(日ナシ)第五課専掌、第一課衛生掛兼掌

十一月四日 口達により前原捕縛に向う

十二月 前原一誠捕縛の功績により金二〇円支給

十二月二十一日 島根県少属

一八七七年二月十七日 警部心得として山口県へ出張

二月二十日 八等属

二月二十八日 西南戦争事情偵察として出張

 

次に明治初期の『職員録』『官員録[24]』『島根県職員録』等を見よう。

一八七五年九月  浜田県少属

一八七六年四月  浜田県少属

一八七六年八月  島根県十二等出仕[25]

一八七七年十一月 島根県七等属

一八七八年五月  島根県七等属

一八七九年二月  島根県七等属

一八七九年五月  島根県七等属[26]

一八八〇年十月  京都府七等属

清太郎が島根県から京都府に転じたことは、後掲書簡の差出地からも確認できる[27]

なお島根県在職中に清水清太郎(譲吉)は『島根県管内地誌略』を五冊(石見・出雲・伯耆・隠岐・因幡)(一八七九年〜一八八〇年)を著わしている。

『島根県管内石見国地誌略 全』(一八七九年)

(再刊・京都・好文堂 石見のみ 一八七九年)

『島根県管内出雲国地誌略 全』(一八七九年)

『島根県管内隠岐国地誌略』(京都 一八八〇年二月[28]

『鳥取県管内伯耆国地誌略』(一八八〇年)

(再刊・横山安次郎 一八八四年三月)

『因幡国地誌略 島根県管内地誌略』(一八八〇年二月)

当時島根県は、のちに鳥取県となる伯耆・因幡も所管し、旧国で五ヶ国という大県である。この五ヶ国の地誌は清太郎が職務上の心覚えとして記したものを、乞われて地誌として刊行したものであろう[29]。清太郎(譲吉)が県吏として職務に精励したことがうかがわれる。

さて職務熱心なこの清水清太郎は何者なのか。

十一月五日夜前原一行を宿泊させた藤村仁之助は、同月二十日備忘のため「前原一誠就縛始末」を記したが、そのなかで、清水清太郎と前原の関係を「同藩士ニシテ旧知」と記した。後年仁之助の養子久蔵は、養父の手記に加えて母の思い出話を含め『宇龍の悲曲』(一九二五年)を刊行したが、そのなかで、「松蔭門下に遊んだ旧知の友」と記しているが、これは誤りである。

前原一誠と萩の乱を研究していた安藤紀一の『前原一誠年譜』(一九二九年)は「旧長藩士ニテ一誠ノ故人」とした。安藤は後年『吉田松陰全集』の編纂にも関係しているが、清水清太郎が松陰門下であるとは述べていないことに注目されたい。

ところが、妻木忠太『前原一誠伝』(積文館 一九三四年)は、無批判に藤村久蔵『宇龍の悲曲』(一九二五年)を引用したため(一〇五九ページ)、以後清太郎は同じ松陰門下という説が広がった[30]

田村哲夫編・三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』(防長新聞社 一九六六年、復刻マツノ書店 一九八〇年)によると、寄組清水家の幕末以降の系譜は次のようになっている(一四二ページ)。

 

親春(清太郎、美作)[31]――親知(勘太郎、清太郎、与右衛門、末家清水図書信篤長子、元治元年賜死[32]――親春(美作、慶応元年再家督、明治八年死去)

 

再家督した親春以降については、霞会館諸家資料調査委員会編『昭和新修華族家系大成』(吉川弘文館 一九八二年)及び霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成』上巻(霞会館 一九九六年の系図を付加してみよう。


  親春(明治三年隠居、明治八年没)――――為之進(親春長男、安政六年生 明治十三年没)

――民之助(親春次男、兄為之進の後嗣 慶応元年生)

――サカ(親春次女 益田清若夫人 慶応二年生)

――スミ(親春三女、兄民之助の後嗣 明治五年生)

――民之助(明治十九年没)――スミ(親春三女、明治十九年承)(一九八二年版では欠落)

――資治(熊谷直方次男、万延元年生、明治二十五年承、大正十二年没)

   ‖

夫人スミ(親春三女、昭和二十一年没)


 しかしここには、重要な欠落がある。とくに親春長女チエの欠落に注目していただきたい。以下この点を検討しよう。

右の系図では一八七六年(明治九)に清水家の当主で島根県吏であった清太郎に該当する人物はいない[33]

まず親春(美作)の長子為之進であろうか。為之進は一八五九年(安政六)生まれであるから、萩の乱の起こった一九七六年(明治九)には、満十七歳である。十七歳の少年が島根県十二等出仕として警官隊を指揮したとは考えられない。もちろん次男民之助ではありえない。まずここで調査は行き詰った。

田村哲夫・樹下明紀編『萩藩給禄帳』(マツノ書店 一九八四年)は安政二年分限帳(一八五五年)と明治三年分限帳(一八七〇年)を収録しているが、61清水家(同書一五ページ)は美作(三十八歳)が三七一〇石八斗二合で、嫡は清太郎となっている。美作が親春、嫡清太郎が親知である。十五年後の明治三年分限帳には与右衛門(五三歳、美作、親春のこと)が九二石七斗七升を受けていることのほかに次の記述がある。

「午八月五日与右衛門隠居、譲吉(二五)相続

午九月晦日譲吉、改名清太郎

午十二月十五日十四石六斗八升末家清水亀之助へ分与 嫡 為之進槌」

「明治三年分限帳」(52給禄133、4の1)によると、美作の隠居、「嫡子譲吉相続」の文言がそれぞれ同じ日付で記されている。しかも「嫡為之進槌[34]」の下に「譲吉」とあって、それが抹消されて「清太郎」となっている。いったん為之進槌が嫡子でありながら、譲吉に変えられているのである。

さらに九拾二石七斗七升が七拾八石七斗に変更される表題部分のほかに、九拾二石七斗七升(内六拾六石四斗分与)と朱書され、その脇に米七拾八石九斗と貼紙されている。一方「嫡為之進」には弐拾八石三斗七升を朱書されているが、最終的には十四石六斗七升とされたのであろう。(数字の合計には疑問がある)

これによって、親春(美作・与右衛門)と為之進の間に譲吉という人物がおり、家督相続後まもなく清太郎と名乗ったことが分かる。その跡に、為之進が相続したのであろう。『近世防長諸家系図綜覧』(一九六六年)および『昭和新修家族家系大成』(一九八二年)『平成新修旧華族家系大成』(一九九六年)は、一代飛ばしているのである。

しかしそれ以上は何も分からなかった。この譲吉が島根県吏の清太郎なのか、なにも傍証は得られなかった。

調査は早くも頓挫した。そこで清水家の御子孫に問い合わせたところ、驚くべき事実が分かった。やはり親春と為之進の間に、中継養子として譲吉がおり、かれが清太郎なのであった。これは御子孫である清水典子氏の「清水家」(林信男『備中高松城水攻の検証』(一九九九年)によって概略を知り、さらに清水典子氏の御紹介で光市の上田雅美氏のくわしい御教示を得た。光市文化センターには清水家資料があり、上田氏は同センター長として清水家の研究を続けてこられた方である。

上田氏からの御教示を紹介する前に、島根県在職中の業績をもう一つ触れておこう。

島根県吏として在任中、清水清太郎(譲吉)は先祖の宗治の記念碑を備中高松城に建てた。碑の表面は最後の長州藩主毛利元徳筆で「清水宗治城跡」とある。裏面に本文二八六字の顕彰文(経緯説明文一一一字)が彫られている。

毛利家には宗治画像に山県周南撰文の画賛があった。これを周南の子孫である宍戸璣が揮毫したものである。建設は清太郎の発意であるが、宗治とともに切腹した難波伝兵衛之裔の覃庵が奔走したようだ。

「高松之役豊臣氏衆号十万君将数千兵拠弾丸城当之不啻山岳之圧卵百

方攻之不克百計招之不降既而引水潅之環城為湖幾没矣及和議興身死

満豊臣氏之志以済一城之命成二国之好其処死也従容愉歌且舞如未

嘗知死者優矣哉清水君之為将也雖古詩書之敦乎無以尚焉君就死舟中

時衆皆欲従之君喩以大義不唯監軍末近左衛門尉信賀君庶兄月清及

家人難波伝兵衛主七郎次郎月清主余十郎与死実天正十年六月四

日也高市丞首斂屍従容畢事臨穴自()白井余三右衛門尉治嘉先死試

自屠之不難属城帥林三郎左衛門尉重真守冠山城先高松而没死之皆百

夫之也賛曰君降耶山陽列瓦解君不死耶一城生霊魚蟹乎死也軽

于鴻毛重于泰山矣桓桓軍容然如在

 右清水宗治画像叙賛也文者周南山県孝也今鐫之碑陰者以代記

也建碑者宗治之裔清水清太郎也賛成之者伝兵衛之裔難波覃庵也何

為而建之恐歴季之父城址之或帰于湮滅也因記其事併書之者周南之

裔従四位教部大輔宍戸璣也

明治九年歳次丙子十又一月[35]

 碑の建設は、養子に入った清水家当主としての自覚によるものである。建設したのは一八七六年(明治九)十一月であるが、清水清太郎は、同月四日出雲宇龍港で五日に前原一誠を捕縛し、松江に護送している。かれにとって忘れられない月であったろう。後日わたくしは備中高松城址をおとずれ、清太郎(譲吉)の建てた碑を実見した。説明には毛利公の建設とあるが、毛利元徳は碑の表面の文字を揮毫しただけで、建設は清太郎(譲吉)によることは明らかである。

以下は清水家から紹介された光市の上田雅美氏の御教示による。これによって清太郎に関するわたしの疑問はすべて氷解した。

山口県文書館所蔵毛利家文庫の「22譜録レ14、2の2」の清水家の部分には時山直八編「男爵清水家系譜草稿」がある。そこに次の文言があった。

「実ハ播州明石藩士間宮小十郎ノ男

明治二年九月廿九日親春祖先治血統ノ続ニ依テ育末家トナス事ヲ出願シ、許可セラル時ニ譲吉年二十四歳。明治三年六月廿五日請フテ中継養子トナシ、而シテ親春ノ嫡子為之進槌ヲ譲吉嫡子トナシ、親春次男民之助ヲ譲吉ノ跡トナスモ後故アリテ離縁」

 これによると、明石藩士間宮小十郎の息譲吉が親春の育末家となり、さらに一八七〇年(明治三)に中継養子となるとともに、本来の嫡為之進槌を譲吉の養子としたのである。さらに親春の次男を譲吉の跡としたが、故あって離縁したというのである。

 上田氏からは清太郎(譲吉)の実家間宮家の由来、中継養子としての屈折した人生について伺った。中継養子の仕事は次の後継者が成人するまでの後見役で、為之進ついで民之助の若死で立場が変化したのである。そして最終的には資治の養子入りにより、清水家を離縁され、門弥と改名したというのである。

 間宮家は清水宗治から三代の元貞の弟就佳の四男某が松平左兵衛督直常の臣となり、代々間宮小十郎と称したとのことであった。明石藩は転封が激しく、最終的には越前松平家の分家が入るが、享保年間の本多氏の時代にも家老は間宮家であった[36]

早速わたくしは光市文化センターを訪れ、清水家資料を調査させていただくとともに、上田氏の御案内で清水家の菩提寺である光市浅江の清鏡寺を訪れた。清水家墓地の一角に門弥一家の墓があった。清水門弥の『前原一誠伝』の口絵と跋文に疑問を持って数年、各氏のご教示によりようやく清水門弥に会うことができたのである。

 

四、譲吉・清太郎・門弥

 

その後山口県文書館で養父清水親春(美作)の日記のなかから譲吉の記述を発見した。「清水美作日載」(毛利家文庫71藩臣日記4)である。十五冊残っているが、このなかに「明治二年正月」を題された一八六九年(明治二)の分があった。ただし前後の慶応四年=明治元年も明治三年以後の分も残っていない。この明治二年分には、譲吉についての多数の記述がある。主要なくだりを紹介しよう。

 

三月四日

一、七ツ時過伝兵衛より兼而書翰被遣候播州明石藩間宮小十郎家生之、今ハ浪士清水譲吉と申仁参ニ付、樋山方へ遣宿之事

十月三日

一、山口より御沙汰物参、清水譲吉育儀被差免候事

十月八日 譲吉への香華料引米借継続の願書を記す

一、実春(?)先達而伝兵衛罷出候節願書差出候事故運ひ候様被考候事

「   高三拾石

清水美作育 清水譲吉

右美作先祖長左衛門宗治血統之取続ニテ文武稽古成立候ニ付、過ル丑ノ年被立下候姉子清太郎香花料をもって先年之引米借被返下之分、御心入を以譲吉一代被立下被召仕被下候様、仍僉出格早々御僉儀を以て前書之通被立下被召仕候事」

   

これはこのたび「育」(はぐくみ)の許可を得た譲吉は、「文武稽古成立」と一人前の武士としての素養を持っているおり、まもなく家督を譲るが、丑の年(一八六四年=元治元年)先代清太郎が切腹させられたとき依頼の香華料代わりの引米借をそのまま譲吉一代に継続してほしいとの願書である。

十月九日

一、此度清水譲吉参ニ付、此内伝兵衛出山ニ付、過日早川乙次山口表差出候処、明晩罷帰伝兵衛儀山口ニ居合候由ニて、其段相噺、伝兵衛儀も於山口用向

十月 十日 譲吉無事帰参、難波伝兵衛に会う

十二月十六日 譲吉に清太郎の差領大小を授与

 

最後に清太郎(譲吉)の清水家での中継養子としての宿命について述べよう。

一八八〇年(明治十三)十一月親春の次男為之進(一八五九年生まれ)が二一歳で死去した。清太郎が当主であるから、為之進は清太郎の養子である。為之進の弟(親春三男)民之助(一八六五年生まれ)が後継とされたが、民之助も一八八六年九月十日に二一歳で死去した。この時期、門弥と長男唯若が別家となっており、戸主の死去のたびに、相互に複雑な戸籍の移動があるようである。

その後親春三女スミ(一八七二年十一月二十七日生まれ)が、一八八六年十二月二十九日付で清水家を継いだ。親春の長女チエは、清太郎の妻となっており、次女サカ(一八六六年生まれ)は、すでに益田清若(長州藩永代家老益田家)と結婚していたのである。

この段階で清太郎は清水家の当主ではなくなったが、なお清太郎名を使用している。

ところが一八九二年(明治二十五)熊谷直方(長州藩寄組)の次男資治がスミの婿となり、同年二月十日当主となった。この段階で清太郎は別家を起こし、やがて名も門弥と改めた。上田氏の御教示によると一八九三年(明治二十六)のことであるから、後掲の翌年一月の葉書の内容と一致する。

岡山県総社市の清水家(現当主男氏)は、高松城主宗治の兄月清入道の子孫である。月清も宗治と一緒に切腹している。その総社清水家に清太郎が寄せた書簡が残っているので、清水男氏、清水典子氏の御好意でコピーを頂いた。その内容を以下に摘記する。

一八八〇年五月十七日投函(住所・西京河原町通荒神口下ル上生洲町)では、「拙生此度京都府江転役」と京都府への転任(七等属)を知らせている。京都赴任の途中一家を備中高松城址に引き連れていったようである。

一八八一年七月 「報告」と題し、宗治三百年祭についての通知である。「篆書余香」という小冊子を送り七月中に送ってほしいと依頼したが、追薦会を九月に行なうので、八月中に西京鳩居堂または東山莱山堂まで送ってほしいというものである。

一八八三年十二月十八日付の領収書が封入されている書簡(住所・兵庫県神戸区下山手通)では京都で長々と病臥し、帰県する途中に友人に神戸で引きとめられたこと、妻ちえが所用で上京し、毛利公宅を訪ねたことなどを報知している。

この件に関連した書簡(九月二日付)が清水家資料(山口県光市文化センター所蔵)のなかにある。冒頭右肩に「譲吉様より佐藤翁あて書」の朱書と「神戸より佐藤翁え手紙の書面写」の墨書がある。「昨冬愚妻上京中」とあるから、一八八四年九月二日の書簡ではないかと推定される。用件は貧窮士族救済のための「高輪邸」つまり旧藩主毛利家からの御下金のことであった。清太郎が実家に戻り、先代美作(親春)未亡人を戸主として毛利家へ願い出れば御下金が出そうであること、ついては末家となっている我が子唯若に御下金から配分されればよいという案を提示している。何か清太郎が当主であることで障害が発生しているようで、「小生夫婦は断然実家ヱ引取可申之覚悟」と身を引く覚悟である。ただ今後のことを考え「契約定」を取り交わすべきだと述べている。

また清水清については、「近来清之精神ニハ実以感入候、定テ宗家を維持仕候人物と存居候」と評価しつつも、「同人モ如小生随分負債如山との事也」と憂慮している。清はこの時期に民之助に代わって戸主に擬せられた人物のようである。「改正官員録 明治十九年七月改」に島根県六等属「ヤマグチ 清水清」とあるのは、この清水清である可能性が高い。

契約条件案は次のようである。

一、    御下金のうちより、唯若分の公債九百何十円を分配すべきこと

二、    先代未亡人真泉院を戸主に復し、男子相続人については、前主清太郎に相談すべきこと

三、    清太郎の長女と末女は、如何すべきか

四、    御下金には清は干渉しないこと。

しかしこの清水清はなんらかの事情で後継戸主とならなかった。

一八八六年一月六日投函(住所・兵庫県神戸港山手通)「先年来所詮不幸打続き、民之助ハ無頼者、実ニ苦心而已」と慨嘆し、「小生も幸ニ朋友ニ被勧、神戸師範学校漢学科引請渡世罷在候」と近状を報告している[37]。後継者の民之助の「無頼」(頼りなしと読むべきであろう)の内容は分からないが、病気かもしれない。また「旧領地旧臣中も逐々困難」とおそらく松方デフレ下の士族の窮状をあげ、「可頼者ハ難波老人一人」と難波覃菴への信頼を述べている。民之助はこの年に死亡し、同年十二月親春三女スミが家督を継いだ。

一八九〇年一月十日投函(住所・山口市字相良小路)の差出人は「清水清太郎、同唯若」である。「小生東西奔走之末長々病弱」と「保養」していたことを述べ、最近「山口某々私立学校より被招聘昨冬より従事」と私立学校教師となったことを知らせている。

年不明七月三十一日(住所・山口県熊毛郡楯野)封書の差出人は清太郎であるが、文面は子息の唯若である。「当家別家に相成り」とあるから、資治が婿入りし当主となった一八九二年二月以降である。

唯若は、父が隠居を考えているが、当地は「一寒村」で「山水花鳥ハさて置」「万事不愉快」であるので、「先年尊地へ参りし時事跡を思ひ、尊地愛慕の余、今に談し居候間」、移住したいので、土地購入に協力してほしいというものである。時期は清太郎が門弥と改称したことを知らせた次の手紙より以前である。

一八九四年(明治二十七)一月二十三日投函(住所・大阪梅田東道)では、差出人が「清太郎改清水門弥」とある。家族と大阪に旅行中であると知らせ、備中高松城址の地名変更に関する委任状は取り消し、東京の清水資治に直談するように依頼している。資治は新当主である。(スミが当主であった時期には、清太郎が後見役として采配を振るっていたようにも推測できる)

 

門弥には妻チエとの間に、長男唯若、長女リツ、次女ツネがあったが、唯若は若くして結婚前に死亡し、一九〇九年(明治四十二)八月十日の門弥の死去、一九一三年(大正二)六月日のチエの死去で、門弥家は絶えた。前述した光市江の清鏡寺の清水家墓地の一角に家族が静かに眠っている。

 なお一九〇〇年清水家(当主資治)は男爵となるが、防長新聞社編輯局編『防長紳士録』(防長新聞社 一九〇一年)によると、資治は清太郎と名乗っている。)ただし一九〇二年版では資治となっている。なお長男平一郎の死去により、伊藤博邦次男博春が清水家を継いだ。

 

  あとがき

 

 わたくしの萩の乱と前原一誠研究は、山口県史編纂のはじまった一九九三年からである。以後毎年一、二度萩の前原家(御当主彦八氏)をお訪ねし、お話を伺ってきた。とくに松本二郎氏、萩市郷土博物館の近藤隆彦氏からは、多くのものを教わった。萩の乱は『山口県史』近代史料編1(二〇〇〇年)で扱われたが、わたくしは直接の担当者ではなかった。わたくしの本格的な研究は、右書出版後にはじまった。

まず二〇〇〇年十二月、宇龍・福性寺を訪問した。同寺では藤村仁之助の「前原一誠就縛一件」を閲覧し、前原一誠らの書、山田頴太郎の血染めの袷などを見せていただいた。

二〇〇一年にわたくしは勤務先を停年退職し、東京へ移ったが、国立公文書館で司法省萩臨時裁判所の書類(三七二人分の口供書と宣告書)を発見し、研究に熱が入った。その段階での研究史の総括は、「萩の乱に関する史料的研究」(慶應義塾福澤研究センター『近代日本研究』十八号(二〇〇一年度 二〇〇二年三月)に発表した。

清水門弥探索は、右論文の校正段階で急ピッチとなった。

二〇〇二年に入って清水家の清水典子氏にお目にかかり、種々御教示を受けて後、大いに進捗した。以後上田雅美氏の数度にわたる御教示を得た。三月十七日には光市文化センターを訪れて、清水家資料を閲覧するとともに、上田雅美氏に清鏡寺に案内され清水門弥墓に)お参りした。難波家屋敷跡も見た。言うまでもなく難波伝兵衛覃庵の子作之進は衆議院議員、孫大助は虎の門事件の当事者である。

さらに山口県文書館で「清水美作日載」を閲覧したが、一方で楊継盛(淑山)、史可法については中国文学の許山秀樹氏(静岡大学情報学部)に、吉田松陰の言及については松永昌三氏および樹下明紀氏の御教示を得た。清太郎から借用した楊淑山全集の余白に一誠が記した「千古丹心在此中」の文の意味が分かったのは、これらの御教示による。

最後に八月二十五日備中高松城址を訪問し、萩の乱直後に清太郎(譲吉・門弥)の建てた清水宗治顕彰碑を見、碑文を確認した。高松城水攻めへの想像もさることながら、近くの造山古墳、吉備津神社、吉備津彦神社(備中一ノ宮)も巡覧し、古代以来の豊かな風物を堪能した。中継養子の悲哀から逃れて、この地を終の棲家として晩年を過ごそうとした門弥の気持も実感できた。

右にあげた個人の方々および寺院から多大な御教示をえたが、次の機関からも史料閲覧の便宜を受けただけではなく、担当職員の方のお世話になった。記して感謝の意を表する。

大社町教育委員会、大社町立図書館、島根県立図書館、萩市郷土博物館、萩市立図書館、松陰神社、山口県文書館、山口県立図書館、光市文化センター、高松城址資料館、明石市立図書館、国立国会図書館、国立公文書館、東京都立中央図書館、

 

(追記)

本稿校正中に得た上田雅美氏の御教示によると、清水清は先々代清太郎親知の実弟仁三郎のことで、この時期には末家の清水図書家の当主とのことである。また門弥の長女リツは他家の養女となり(死亡年不明)、次女ツネは絶家した他家を再興したが、四〇歳で死去した由である。いずれにせよ門弥家は、中継養子の使命を十分果したのち絶えたのである。

 



[1] 『新修島根県史・通史編』二近代(一九六七年二月)および松原高広「明治初年の士族反乱と石見地方――長州脱隊騒動から萩の乱へ――」(島根郷土研究会『郷土』五号 三〇―五七ペ―ジ、一九五八年十一月)で活用されている。

[2] 皇国地誌の一つ。島根県立中央図書館所蔵。

[3] 島根県簸川郡大社町宇龍福性寺所蔵。拙編復刻・安藤紀一『前原一誠年譜』(マツノ書店 近刊予定)に全文掲載予定

[4] 前掲「宇龍村誌」によると、宇龍は杵築宿から二里五町、島根県庁(松江)から十三里余とある。

[5] 前掲「警保附録」

[6] 次官である参事境二郎も山口県人であった。そのほか山口県人が六八名中一三名であるが、権中属以上一八名中四名であった。

[7] 清水門弥『前原一誠伝』(一八九七年)二七ページ

[8] 清水門弥『前原一誠伝』(一八九七年)二七〜二八ページ。これについては、

[9] 清水門弥『前原一誠伝』(一八九七年)二七〜二八ページ。この問題について「警保附録」は「県令別に清水氏に密旨を授く、蓋県令清水と皆長州の士族故に其策略に於て見る所ありて然るものならん」と記している。

[10] 「巴城暴動一条」(島根県立中央図書館所蔵)

[11] 島根県歴史・警保附録

[12] 浜田県合併前の明治九年四月の島根県職員録では中属(清水は浜田県少属)、明治十年職員録では四等属(清水は七等属)

[13] 「明治九年 日誌 庶務科」(島根県立中央図書館所蔵)

[14] 安藤紀一手稿「前原一誠変乱略記」(萩市郷土博物館所蔵安藤文庫1934)のなかに清水清太郎の手記の写しがある。

[15] 『吉田松陰全集』第五巻一四二ページ

[16] 『吉田松陰全集』第五巻一四四ページ

[17] 『吉田松陰全集』第八巻(五九四号)三六五ページ

[18] 『吉田松陰全集』第八巻(五九二号)三六二ページ

[19] 『吉田松陰全集』第八巻(五九六号)三六七ページ

[20] 『吉田松陰全集』第六巻二九〇ページ

[21]妻木忠太『前原一誠伝』四五ページ。なお「佐世八十郎日記」は、『吉田松陰全集』別巻には安政七年(万延元年)正月までしか収録されていない。

[22]『吉田松陰全集』第四巻三〇七ページ、マツノ書店版四六四ページ。日下実甫は久坂玄瑞。

[23]安政六年七月中旬付高杉晋作宛の書簡で「獄中盂蘭」と題する漢詩『吉田松陰全集』第八巻(五九四号)三六五ページ

[24] 寺岡寿一編『明治初年の官員録・職員録』全六巻(寺岡書洞)

[25] マイクロフィッシュ『官員録』(明治九年八月)に含まれた「島根県職員録 明治九年八月十五日改」(国立国会図書館所蔵)なおこれは前掲寺岡寿一編『明治初年の官員録・職員録』には含まれていない。

[26] 『島根県職員録 明治十二年五月』(島根県立図書館所蔵)による。なお島根県立図書館には明治十五年、明治十六年、明治十六年十一月、明治十七年二月、明治十七年八月、明治二十一年七月の島根県職員録が残っているが、いずれも清水清太郎の名はない。

[27] 「改正官員録 明治十九年七月改」に島根県六等属「ヤマグチ 清水清」とあるが、後述するように清水清太郎とは別人物である。

[28] 隠岐と伯耆は京都府に転勤して以後の発行と思われる。

[29] この地誌五冊は、国立国会図書館にあるほか、石見・出雲・隠岐は島根県立図書館に、因幡と伯耆(鳥取県管内略として再刊本)が鳥取県立図書館に所蔵されている。

[30] ちなみに藤村久蔵『宇龍の悲曲』(一九二五年)は養父仁之助の「前原一誠就縛始末」(一八七六年)に比して潤色が多く、史料としての価値は低い。前原一行の就縛事情は別の機会に詳述したい。

[31]親春については「履歴書」が四種ある。いずれも「諸臣事蹟概略」(山口県文書館毛利家文庫73藩臣履歴5(6冊のうちの4))

[32]親知についても「清水清太郎履歴書」が収められているが、日付不明ながら「山口県熊毛郡立野村清水スミ」が提出している(すみ)という丸印が押捺されている。なおこの史料には難波覃菴の履歴書が二通と「難波氏中興之次第」などの史料が収められている。

[33]松本二郎氏の『萩の乱――前原一誠とその一党』(鷹書房 一九七二年、復刻・マツノ書店 一九八五年,増補版・一九九七年)は、清水家の分家清水図書家の勘太郎ではないかとされた(増補版一五ページ)。しかし勘太郎は一八六四年(元治元)に切腹させられた清太郎親知であり、松本説は何かの錯覚であろう。

[34] 「槌」というのは親春の初名でもある。

[35] 「清水宗治城跡碑文拓本」(清水家資料三二)および難波覃庵筆の原稿(「七湾渓居蔵」の原稿用紙使用)がある(山口県光市文化センター所蔵)。複写には上田雅美氏の労を煩わせた。重ね重ね感謝の意を表する。「清水宗治城跡碑銘」(林信男編『備中高松城水攻の検証』(一九九九年)一五二〜一五三ページ)にはかなり誤植がある。

[36] 「御家中知行高并役附」(享保十六年)『兵庫県史』史料編近世一(一九八九年)四〇四〜四一五ページ。この項は明石市立図書館の御教示を得た。

[37] 兵庫県神戸師範学校の漢学教師と思われるが、『兵庫県御影師範学校創立六十周年記念誌』(一九三六年)所載の「現旧職員名簿」には名がない。