「小国主義」思想研究の発端について

   

                                                 町田市自由民権資料館『自由民権』25号2012年3月

田村貞雄 


   はじめに

 

中国武漢大学外語学院日文系講師の夏晶氏が、「略論中江兆民的「小國主義」理論」を発表され、これが日本思想文化研究会『日本思想文化研究』第一巻第一号(二〇〇八年一月十五日、八〇~八六ページ)に掲載されている。この雑誌は杭州の浙江工商大学日本文化研究所の発行で、日本では東京の国際文化工房が発行している。

 夏論文は簡体字ではなく繁体字で書かれている。その構成は次の通りである。

 一 小國主義的國家建設理念

 二 小國主義対國際社會現状的批判

 三 小國主義的核心――道義

 四 小國主義的史意義

 夏氏は言う。

 「富國強兵乃天下最難相容二事」

 「小國保其獨立別無他策。堅守信義不變、有道義者、雖大國而不畏、雖小國而不侮」

 「中江在徹底否定「富國兵」大國主義路線的基礎上、明確將日本至於「小國」的位置、提出堅守信義、不畏大國不侮小國的外交主張」

 以下、兆民の原文に沿ってその論旨を紹介し、最後に次のように述べている。

 「中江的小國主義思想爲後來的幸德秋水、内村鑑三、石橋湛山等人所繼承、經過史的沈澱和對戰爭的反思、終於在戰後日本的民主化重建以及和平憲法確立的過程中變爲現實」

 參見(参考)文献は、『中江兆民全集』全巻、幸徳秋水「廿世紀之怪物帝国主義」、田中彰『小国主義』(岩波新書 一九九九年)、松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』(中公新書 二〇〇一年)である。

 しかしこれはおかしい。小国主義論研究の発端が記されていないのである。

 『自由新聞』掲載「論外交」を中江兆民筆と断定し、その主張を「小国主義」とされたのは、松永昌三氏「自由民権派にみられる小国主義思想」(大塚史学会『史潮』八九号 一九六四年十月、五六~七二ページ)である。松永氏はその後も小国主義について、論文や著書で論じておられる。「論外交」を小国主義思想の発露とするさまざまな論著は、この研究の発端をほとんど記していない。

この小国主義論発案の経緯をわたしの知る限り記して後世に残しておきたい。

 

   一、東京教育大学の大塚史学会

 

一九六〇年四月、東京教育大学文学部史学科日本史学教室に、全国初めての近代史講座が設置された。教授は古代史講座の教授家永三郎先生が移られ、助教授に広島大学政経学部講師の大江志乃夫先生が赴任された。同年度の修士一年生(定員四名)は、江村栄一(新潟大・法政大)、大呑昌三(のち松永姓)、それに宮田登とわたくしであった。民俗学の宮田以外の三人は近代史である。江村、大呑(松永)の両氏は、中学校教師の経験があって、五、六歳年長であり、学部の同級生は宮田とわたしの二名であった。高等師範の伝統や、「国民的歴史学」の影響もあり、現職経験重視の雰囲気が残っていた。

 家永先生の大学院演習は、この年刊行され始めた『近代日本思想史講座』(筑摩書房)第一巻「歴史的概観」の輪読であった。また大江先生の大学院の演習は、『自由党史』の講読であった。当時の院生で近代史専攻は、博士課程に木槻哲夫、山田昭次、川さゆり、修士課程に岩崎宏之、松永昌三、江村栄一、それにわたくしであった。講読はほとんど山田昭次氏(当時博士三年)の独擅場で、『自由党史』のどのくだりについても、該博な知識を披露された。地租改正で卒業論文を書いたわたしは、何の知識持っていなかった。

東京教育大学文学部史学科を母体とする大塚史学会の会誌は『史潮』(一九三一年創刊)である。前身の東京文理科大学創立とともに結成された学会で、大塚というのは、東京文理科大学ー東京教育大学の住所(文京区大塚窪町)に因んでいる。『史潮』は一九六〇年代初頭には、財政難、投稿不足で合併号が刊行されたことがある。しかしわれわれが委員になってからは、意欲的な論文を掲載し、日常的にも日本史・東洋史の大学院生の研究会を毎月開催し、大いに研究を刺激しあった。

大塚史学会は一九六四年十一月と一九六五年十一月の二度にわたって「アジアと近代」のシンポジウムと、大塚史学会編『東アジア近代史の研究』(御茶ノ水書房 一九六七年)を刊行した[i]。明治初期の東アジアに対して、日本の朝野で連帯か侵略かの岐路に立たされていたことがテーマの一つであったが、松永氏提唱の「小国主義」思想論はきわめて新鮮な問題提起で、大いに論議されたのである。

 

  二、「論外交」――「小国主義」思想の指摘

 

一九六三年夏休み前、東京大学法学部明治新聞文庫の御好意で、新聞記事の写真撮影が許可された。この時、松永氏は『自由新聞』の社説を撮影された。そのなかに無署名の「論外交」があり、内容、文体から言って兆民筆と断定され、やがて斬新な論文を書かれたのである[ii]

大塚史学会の『史潮』八九号(一九六四年十月)は、「日本近代の諸構想」という特集で次の論文を掲載した。

 「自由党の結成と政体構想」江村栄一(博士課程二年)

 「立憲改進党覚書――立憲改進党の性格をめぐって」山田昭次(立教大講師)

「嚶鳴社ノート」呉屋治美(博士課程一年)

「自由民権派にみられる小国主義思想」松永昌三(博士課程三年)

「人民史観へのアプローチ――現代歴史科学の方法論的な基礎をめぐる手稿」青山秀彦[iii]

 そして発刊直後の十一月、シンポジウム「アジアと近代」を開催したのである。シンポジウムの報告は山田昭次氏と中村義氏、司会は日本史の大江志乃夫先生と東洋史の野沢豊先生であった。遠山茂樹氏、永井秀夫氏、菊池貴晴氏、古屋哲夫氏ら学外からの出席者もあった。準備委員は松永昌三氏であるが、シンポジウムの席上、小国主義論提唱の趣旨説明をされている(『史潮』九〇号 一九六五年二月、参照)。

 

ここで右の松永論文を紹介しよう。

 中江兆民の提唱した小国主義論は、一八八二年(明治十五)に『自由新聞』に掲載された「論外交」ではじめて提起された。この年、朝鮮における壬午軍乱に際し、立憲改進党内が分裂し、三田派といわれる福沢諭吉系の東洋議政会の『時事新報』の強硬論と、嚶鳴社(沼間守一・島田三郎ら)の『東京横浜毎日新聞』の慎重論が対立していた。このことは、山田昭次氏が、立教大学史学会の『史苑』二五巻一号(一九六四年八月)に発表された「立憲改進党における対アジア意識と資本主義体制の構想」という論文で明らかにされた。これは壬午軍乱と一八八四年の甲申政変で、自由民権運動がどのように国権論に転向したかを研究した論文である。

 また自由民権派として出発した福岡県の筑前共愛会は、すでに国権派の玄洋社に改組合流していた。玄洋社は壬午軍乱に対して、義勇軍を組織して派遣しようとしていた。

福沢諭吉は、ただちに出兵準備をするように主張し(「朝鮮の変事」『時事新報』一八八二年七月三十一日)、日本公使館を襲撃した朝鮮の軍民を「文明の敵」とし、政府の出兵を支持し、「宇内文明の保護のために、暫く我が兵力を貸して彼の国土全面の迷霧を掃除すること、我国の徳義上に於て辞す可らざるの義務」と主張した(「朝鮮政略」『時事新報』一八八二年八月二日・三日・四日)。

 一方自由党系はどうか。この時期の自由党系『自由新聞』の社説を見ると、右のような強硬論を見られず、慎重論、平和解決論が目立つ。

 その『自由新聞』に兆民が三回連載の「論外交」を発表したのである(八月十二日・十五日・十七日)

 「古今為政者ややもすれば輒(すなわ)ちいふ、富国強兵と。それ富国はわれらもまたその極て嘉みすべきを知るなり・・・もしそれ強兵はわれらその何故に冀ふべきかを知らざるなり」

 欧州諸国は強兵策によって常に戦乱状態にあり、「己れの強盛を恃みて人の微弱なるを軽賤し、己れの文物に誇りて他国の鄙野を侮辱するの悪弊」をもっている。かって自分はインド洋に航海してポートサイド、サイゴンの諸港に上陸したことがあるが、イギリス人、フランス人が「意気傲然」として現地の人々を「犬豚」のように扱っているのを目撃した。

 「顧ふに小国の自らみてその独立を保つ所以の者は他策なし。信義を堅守して動かず。道義のある所は大国といへどもこれを畏れず。小国といへども之を侮らず。彼れもし不義の師範を以て我れに加ふるあるか挙国焦土となるも戦ふべくして降るべからず。隣国内訌あるも妄りに兵を挙げてこれを伐たず。いはんやその小弱の国の如きは宜しく容れてこれを愛し、それをして徐々に進歩の途に向はしむべし。外交の道唯これあるのみ。」

 「欧米諸国の中もまた現に吾臍の旨趣とする所を実行する者あり。その諸国は何とかいふ。曰く小国にありては瑞西(スイス)、白耳義(ベルギー)、荷蘭(オランダ)即ちこれなり。大国にありては北米聯邦即ちこれのみ。彼の英仏虎狼の国は何ぞ則とるに足らんや」(以上は、松永昌三編『中江兆民評論集』岩波文庫)による。

「論外交」は無署名論説だが、当時の『自由新聞』の論説を書いている首脳陣のうち、外国経験者は馬場辰猪と中江兆民の二人であり、漢文体の文章から兆民執筆と断定されたのは、松永昌三氏である。兆民はフランスに留学し、開通直後のスエズ運河を通って帰国しているから、ポートサイド、サイゴンの諸港への上陸も行ったとみられる。

 この主張はやがて『三酔人経綸問答』(一八八七年)の洋学紳士の主張に結実する。

 小国主義論は、一八八二年の壬午軍乱を契機とする日朝戦争状態のなかで表明されたのである。外交と軍事の政策は国際情勢の緊迫のなかで真価が試される。先年のイラク戦争への自衛隊出兵の可否が議論された時と同じである。これは開戦理由のない戦争であった。

「論外交」は直接壬午軍乱に触れていないとしてする指摘もあるが[iv]、政治情勢に直接触れないで、問題の根源を滔々と述べ、読者をして当面の危機の本質を考えさせるのが真の知識人の立場である。これは検閲を免れる手段でもある。そしてその相関を明らかにするのが、後世の歴史学の課題である。兆民はすでに東洋自由新聞社長西園寺公望の辞任に関する「天の説」で、見事にこの論法を駆使しているではないか。右の論者は、兆民の文体も、検閲の恐ろしさも知らないのであろう。

 

三、松永昌三氏の研究の発展

 

右の松永氏の小国主義研究は、もろもろの小国主義論の原点となる画期的な研究であった。松永氏の初期の著作をあげよう。

「平和主義の伝統」(『近代日本の争点』41)(『エコノミスト』四五巻十一号 一九六七年三月)のち「膨張主義か、平和主義か」(家永三郎・井上清編『近代日本の争点』上 毎日新聞社 一九六七年)所収

小節 世界第一等の仁義の国/武力侵略か平和外交か/民権論者の小国主義論/「三酔人」の悩み/小国を以て甘んずる事/敬愛なる朝鮮

ここでは仁義国家を目指す横井小楠と、近隣の国々を合わせて大国化し対抗しようとした橋本佐内、吉田松陰を対比して、小国主義と大国主義との異なった将来構想を論じられている。

橋本佐内は、「我より無数の軍艦を製し、近傍の小邦を兼併し」と述べている。また吉田松陰は、「取易き朝鮮満洲支那を切り随へ、交易にて魯墨に失ふところはまた土地にて鮮満に償ふへし」と述べている。

このような近隣諸国の併合による欧米への対抗策は、大国化というべき路線である。

一方横井小楠は一八五三年のぺリー来航の際の「夷虜応接大意」をはじめ、一八五七年(安政四)熊本を訪問した村田氏寿宛談話において、「国学者流の見識は大にくるいたり」とし、「我日本は印度となるか、世界第一等の仁義の国となるか」あるいは、「堯舜孔子の道」と左内や松陰とはまったく異なった日本の将来像を述べている。 

さらに松永氏は、日露戦争時における幸徳秋水らの平民社の「敬愛なる朝鮮」という主張を紹介し、これを小国主義思想の発展として評価された。

松永氏は、次々と論著を発表された。

『中江兆民』(柏書房 一九六七年)

『明治のバックボーン』(角川書店 一九六七年)

中江兆民の国家構想――自由民権期におけるナショナリズムの諸問題」(『季刊社会科学』一四号 経済往来社 一九六八年十一月、二〇~三四ページ

『中江兆民の思想』(青木書店 一九七〇年)

 さらに松永氏は、次の論文を書かれた。

 『中江兆民と植木枝盛 : 日本民主主義の原型』(清水書院 一九七二年)のち『自由・平等をめざして 中江兆民と植木枝盛』と改題 一九八四年)

「民権思想とナショナリズム」(荒川幾男・生松敬三編『近代日本思想史』有斐閣 一九七三年)

 そして次の論文が小国主義論の集大成であろう。

「非武装平和思想の歴史的考察序説――小国主義思想の系譜」(『都留文科大学研究紀要』一〇号 一九七四年八月、一一一~一二四ページ

 松永氏は中江兆民に関する次の史料集も編纂された。

『中江兆民集』(近代日本思想大系3 筑摩書房 一九七四年)

 『中江兆民全集』全十七巻別一巻(岩波書店 一九八三年~一九八六年)

 『中江兆民評論集』(岩波文庫 一九九三年)

 なお松永氏は『植木枝盛集』全十巻(岩波書店 一九九〇年~一九九一年)の編纂にも参加されている。

 松永氏の研究の集大成は『中江兆民評伝』(岩波書店 一九九三年)である。

 

 松永論文発表後の反応としては、高橋正幸氏の「内村鑑三「デンマルク国の話」小論ーー非戦論と小国主義と」(桐朋学園男子部門研修部編『桐朋学報』 二二号  一九七二年十二月)がある。

 内村、幸徳、堺らの非戦論は以前から研究されてきたが、兆民を加え、さらに横井小楠を加えて明治期の小国主義論の思潮の流れが明らかになった。

 一九七〇年から『石橋湛山全集』(東洋経済新報社)全十五巻が刊行され始め、やがて湛山の「小日本主義」と合わせて、兆民の小国主義が高く評価されるようになった。ただし湛山研究者が兆民まで言及することは少なかった。

 

   四、アジア体験の差

 

 福沢諭吉も幕末にアメリカとヨーロッパに行っている。アメリカ行きは一八六〇年(万延元)に咸臨丸に乗船したもので有名である。ヨーロッパ行きは一八六二年(文久二)の幕府の遣欧使節団に加わったもので、イギリス軍艦に乗り、シンガポール、セイロン、スエズとイギリス植民地を通過点としたものであり、これは『西航記』『西航日記』に記録されている。

この経験は壬午軍乱直後に述べているのであるが(「東洋の政略果して如何せん」『時事新報』一八八二年十二月七日~十二日)、植民地の窮状に同情しつつも、「其英人を窘めて東洋の権柄を我一手に握らん」と福沢は決意している。まるで昭和の大東亜共栄圏である。

 一八七一年~七三年の岩倉使節団に随行し、特命全権大使米欧回覧実記』(岩波文庫版は田中氏の編纂。全五冊 一九八五年の記録を残した久米邦武も、文明国の隆盛を産業の勃興にあるとし、アジア、アフリカの民を文明化から脱落した「徒」としている。

 福沢も久米も文明国を至上の存在とし、日本も文明化を目指そうとした。アジア・アフリカの人民への同情はあっても、落後者との認識は共通している。ここでは「英仏虎狼ノ国」への批判の有無が、大国主義と小国主義の分岐点であった。

旅行者ではなく留学生として数年フランスに滞在し(イギリスにも旅行)、帰国の途次、地中海、インド洋を経由した兆民が、文明国と植民地の落差に驚愕し、「論外交」で「英仏虎狼ノ国」を日本のるべき道でないことを強調したのは、当然であったと思われる。

 右の福沢と久米については、松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』(中公新書 二〇〇二年)で詳細に論じられている(一三四~一三八ページ)。

 旅行者では何も分からないのであろう。

以上が小国主義論研究の発端である。松永氏の「論外交」の執筆者推定があってこその小国主義論である。

 中国の諺に、「飲水思源」すなわち「最初に井戸を掘った人を忘れない」という言葉がある。一番最初にその史料を見つけたのはだれか、最初にその説を唱えたのはだれかを明記することが重要である。

 

   あとがきーー田中彰著『小国主義』について

 

田中彰氏は長年の研究成果として、『岩倉使節団』(講談社現代新書 一八七七年)、『明治維新観の研究』(北海道大学図書刊行会 一九八七年)、共編著『「米欧回覧実記」の学際的研究』(北海道大学図書刊行会 一九九三年)を書いておられた。

その田中氏が『小国主義』(岩波新書 一九九九年)を書かれる時、大学退官時に学術雑誌を処分したからと、電話で松永論文のコピーを求められた。わたしは、松永さんの学説だということをちゃんと書いて下さいよと念押ししてコピーをお送りした。

多分田中氏は、新書ゆえに注記を省略されたものと思いたい。しかし、田中氏があたかも「小国主義」論の創案者のように、世間の誤解が広がり、外国人の研究にまで、影響を与えているのは遺憾である。

しかし、右新書刊行直後に刊行された『顧みて、いま』(北海道大学図書刊行会 一九九八年十一月 一〇六~一〇七ページ)においても、二〇〇四年の広島史学研究会創立七五周年の記念講演「日本近代史をみなおすーー「小国主義」と地域の視点から」(『史学研究』二四八号 二〇〇五年五月、二二~四一ページ)でも、岩倉遣外使節の研究から「小国主義」論を発想したように述べておられる。繰り返すが、岩倉遣外使節は「大国」をめざす路線であり、そこから「小国主義」思想が生まれるわけがないのではないか

 

以上、後世のために、「小国主義論」案出の経過を記しておく。



[i] わたしが編集を担当し、序論「近代化論批判をめぐる方法の問題」を執筆。

[ii] なお『自由新聞』の復刻は一九七一年の三一書房版で、それまでは明治新聞雑誌文庫に行くしかなかった。

[iii] 『史潮』八九号は松永氏とわたしが編集担当。執筆者五人とわたしは、東京教育大学近代史研究会を作り、神田三崎町(神保町近傍)の「セントルイス」という喫茶店で研究会をしており、共同論文「日本近代化をめぐる二、三の問題」を発表している(大塚史学会『史潮』八六号、一九六四年八月、七八~八四ページ。回の紹介は九四ページ)。ここには都留文科大学助教授だった田中彰氏や、京都大学に赴任される前の古屋哲夫氏が時々見えていた。一九六五年からはメンバーが一部異動し、三流の研究会と自称した(拙著『地租改正と資本主義論争』吉川弘文館 一九八一年)。ただし田中氏は一九六五年に北海道大学に赴任され、松永氏が都留文科大学に後任として赴任された。そしてすぐ三教官免職事件が起こった。くわしくは遠山茂樹・森川金寿編『都留文科大学事件の記録』(盛田書店発売 一九六九年)参照。

[iv] 小林瑞乃『中江兆民の国家構想 : 資本主義化と民衆・アジア』(明石書店 二〇〇八年)