6年3組物語 第1話

内緒の補習

 担任・沼田義男の焦りは次第に高まっていた。
明日の放課後には、体育の補習授業が待っている。
教わる生徒側が憂鬱な気分になるならまだしも、教える教師側である沼田が、だ。
その理由とは…その教える内容にあった。


 先週、6年2組の担任・三浦杏子がこういうことを言い出したのが始まりだった。
「目標を設定して、子供たちにそれに向かってがんばること、達成できたときの喜びを教えてあげるのが大事だと思うんです」
 その言葉に学年主任も賛同、その週に行われた3クラス合同の体育でその『目標』が発表された。
『一輪車に乗って、前進、後退、アイドリングなど基本的な動作ができるようになること』
 簡単すぎる、そんなの無理です、その目標を聞いた子供たちからは様々な反応が沸きあがった。
「みんな一人一人に個人差があることはもちろんわかってるわ。
できるって言う人はもっと高いレベルにチャレンジしてもらいます。
とりあえず、学年のみんなにこれだけはできてもらいたいって意味でこの目標を立てることにしたからね。
苦手な人も、きちんと練習すること!わかった?」
 その時間は子供たちに自由に練習させる形式で、教師陣が乗ってみせる機会はなく沼田は一人胸をなでおろしていたものの
「来週のこの時間に、テストをします。
目標に届かなかった人は、それぞれのクラスの先生が居残りで補習をするわよ。いい?みんな」
 直後にその言葉で背筋の凍る沼田だった。

 今や小学生にとって、一輪車は低学年の頃から身近な存在となっている。
家にあるという子もいるし、昼休みには自由に貸し出され遊具として乗り方を自然に身に付けていく子も多い。
しかし沼田が小学生の時代にそんなものはなく、大人になってから突然、子供に教えてあげるものとしてそれが学校に現れた。
子供の頃から運動音痴だった沼田に、しかも子供に比べて飲み込みの悪い年代になってから、
自転車の何倍も扱いづらいその道具を教材として手元に置かれたのだからたまったものではなかった。
はっきり言って、乗れない。
乗って走るどころか、サドルに腰掛けてから両足を地面から一瞬たりとも離すことができない。

 週が明けた今日、沼田の予想していた通りの展開となっていた。
この日行われた一輪車のテスト、一部の男子を除いて学年の大多数が目標をクリアしていた。
1組から3組まで、ほぼ全ての女子と半数ほどの男子は元々乗りこなせていたためその最低基準を楽々突破し
個人個人で設定していたさらに高い目標も超えてその成果を自慢しあうほどであった。
残りの一部の女子と、さらに一部を除く男子は練習の甲斐あって最低の基準は抜けるに至った。
しかし全クラスを通じて男子だけ8名がその最低の目標にも届かず惨めな姿を晒すこととなった。
そのうち5名は、沼田の受け持つ3組の男子生徒であった。
「だっさーい。何やってんの?男子」
「チビなだけじゃなくて運動神経もないんだ。みじめ〜」
 一部の意地の悪い女子数名が口々に不合格の男子たちを罵り、見せ付けるように一輪車で彼らの周りをグルグル周回する。

「できなかった子のほとんどは、3組の男の子みたいですね。
明日、しっかり教えてあげてくださいね。よろしくお願いします、沼田先生」
 沼田と違いスポーツ万能の杏子には彼の不安など理解できるはずもなく、
いたって普通にそのような言葉をかけて去っていった。
(そ、そんな…乗り方なんて僕自身が知りたいぐらいなのに、どうすれば…どうすればいいんだ…)
体育の授業後、その結果にどの生徒よりも打ちひしがれていたのは沼田だった。


(明日までに…いや補習は明日の放課後だから今日中には乗れるようにならなければ…!)
 校内に残る人数もまばらになったその日の夕方、沼田は宿題に追われる児童のような心境で体育倉庫へと向かう。
そして、自らの体型に合うサイズの一輪車を物色する。
大きな女子生徒が数多く在籍するため、普通の小学校にはないサイズの一輪車が大量に保管されており
それらを手に取るたびに自分の小ささ、脚の短さを再認識させられているようでますます惨めな気分になる。

 日が傾いた夕焼け空の下で、沼田の孤独な短期間特訓が始まった。
自分が一輪車に乗れないということは、教え子たちや他の教師たちには知られていない。
日頃から運動音痴で知られている自分のことだから薄々感付かれているのかもしれないが、
少なくとも自分からそういうことを人に話した覚えはない。
教える先生である自分が乗れないようではクラスの教え子たちに示しがつかないだけではなく、
もし明日乗りこなせなくてまともに補習が成立しなかったら…隣のクラスの担任、杏子に軽蔑されてしまうことは確実だ。
干支の周期にして一回り以上も年が下である杏子に、沼田はただでさえあらゆる面で劣っているのに。
ここでまた自分の情けない部分を広めてしまうわけにはいかなかった。

 …しかし、非情にも彼に必死さばかりが空回りしている現実がそこにあった。
気が焦るばかりで、一向に乗れない。
サドルに腰掛けた状態で、一歩も前進することはかなわない。
地面を蹴り出そうとするたび、ペダルにかけたもう片方の足がガタガタと震えだしてしまい、思い切って踏み出せない。
そうしているうちにバランスを崩し、何もしないうちから転倒しそうになって一人でよたよたともがく。
それを繰り返すばかりだった。彼の運動神経のなさはかなりのものだ。
時間ばかりが過ぎていき、その惨めな沼田の影はかなり長いものになってきていた。
(ダ、ダメだ。まったく糸口がつかめない。どうすれば、どうすればいいんだ…)

「沼田先生」
 ギクッッ!!
背後から突如として少女の声が聞こえ、沼田はサドルに腰掛けたまま滑稽なほどに慌ててまた転びそうになる。
振り返った先にはクラスの教え子、宮田愛子がいた。
「み、宮田さん、こんな遅くまで何を…」
「この間の総合学習で出された課題、安井君たちがなかなかできなくて困ってるみたいだったから手伝ってあげてたんです。
でももう大丈夫だと思います。みんなはもう帰ったから、私も帰りますね」
「あ、ああ…」
 一応それなりに返事をしたものの、沼田は恥ずかしさでいっぱいだった。
明日この一輪車を男子たちに教えてやらなくてはならない立場の自分が、
一夜漬けのように必死で今その技術を習得しようとしている情けない姿を教え子の女の子に見られてしまった。
きっと、またバカにされてしまう……この夕焼け空に負けないぐらい顔を紅潮させて俯く沼田。

「大丈夫ですよ。はじめはみんなできなくて普通なんだから」
(え、えっ?)
 歩み寄ってきて、笑顔を見せながら愛子が口にしたその言葉に、沼田は戸惑った。
「先生が乗れるようになるまで…練習、手伝います!」
「えっ、いや、あの、あの…」
「私、一輪車得意なんです。だから私にまかせてください!」

 確かにこの宮田愛子は6年3組の中でも一番、思いやりのある優しい子であることは沼田も認識している。
男子いじめなど絶対にやらないし、それどころか弱い子に対する気遣いが誰よりもできる子だ。
さっき彼女自身が言っていたような、何かができずに取り残されている生徒を進んで助けてあげたりすることも多い。
提出期限が迫った課題が終わらず泣きべそをかいているような男子に嫌な顔一つせず付き合ってあげている姿を
沼田もしばしば目にしている。
愛子本人は誰よりも早くその課題を終わらせてしまうほどの優等生で、帰ろうと思えばさっさと帰ってしまえるのに。
自らを犠牲にして人のために尽くしてあげる、そういうことが躊躇いなくできる優しい女の子なのである。

 …そんなことを思っている間に沼田の両手は愛子に取られ、向かい合う形でしっかり握られてしまっていた。
「あ、あの、宮田さん、何を…」
「大丈夫ですよ、先生。さぁっ、両足をペダルに乗せて、前に進んでください」
「ちょ、ちょっ…」
「私が支えてるから心配いりません。そう、足を地面から離して…」
 ガクガクと足を震えさせ、おっかなびっくり左右のペダルを踏み出す沼田。
冷たい汗にまみれた沼田の手を優しく持ってあげながら、愛子は沼田の一輪車の前進するスピードにあわせて後ずさっていく。

「そうそう、先生その調子ですよ。がんばって」
 手を引いている、目の前の愛子にわからないように奥歯の震えを噛み殺しながら沼田は前に進む。
しかしやはりいつ転んでしまうかという恐怖感は拭い去れず、次第に屁っぴり腰の格好悪い姿勢になっていく。
そんなみっともない体勢になっていることにも意識が向かないまま、沼田は思っていた。
(宮田は…本当に優しい子だ…)
 こんな遅い時間に、一人で一輪車に悪戦苦闘している自分の担任を見ても、それを責めたりからかったりする様子もなく
そればかりか自分の悩みを全て見透かしてしまっているかのようにコーチを買って出るなんて…
自分の3倍以上年の離れた大人の男のこんな不甲斐ない姿を見て、蔑むでもなく、哀れむでもなく、
何のためらいもなく、こうして親切に…
…重心のずれた姿勢のまま、沼田は愛子の手のぬくもりを感じながら
そんな彼女の優しさに少しボーッとなりかけていた。

 ズルッ!
「キャッ、危ない、先生!!」
 ガバッ!
 ガシャーン……
 腰の引けた体勢のままつい気を緩めてしまった沼田は完全にバランスを崩し、尻の下からサドルが抜けて一輪車は転倒した。
沼田自身は…それに反応して素早く助けに入った愛子の胸にしっかりと抱きしめられていた。
「ケガは…ないですよね?背筋はしっかり伸ばしておかないと危ないですよ、先生」
 自分より10cm弱ほど背の高い愛子に、小男の沼田は簡単に抱き止められた。
第二次性徴はまだまだで、ブラウス越しのまだ平らといってもいい胸の感触を顎の辺りに感じながら
クラスの女子の中では小柄な部類である少女にも軽々と扱われてしまう屈辱が胸を鋭く貫いた。
「でも見てください、けっこう進みました。
今の感じを忘れないでできれば大丈夫、乗れますよ先生」
 沼田を抱いたまま、愛子は間近で彼を見下ろして笑顔を見せた。

 再び一輪車に跨った沼田を、今度は後ろから支える愛子。
「両手をこう、まっすぐ横に広げて…これでバランスを取りながら進んでいってください。さぁ、行きますよ」
 言われるままに両手を広げた沼田、そして彼の脇の下辺りに両手を添えて軽く支えてあげながら
一緒にゆっくりと前進してあげる愛子。
それは完全に、教師と生徒が逆転してしまった奇妙な光景だった。
また転んでしまう恐怖にブルブルと震えビクビクとペダルを踏み出していく沼田。
「その調子ですよ、先生。それじゃ、もう少しスピードを上げてみてください」
「ひっ、ぁぁ、み、宮田さん、ダ、ダメ、まだ手を離さないで…危ない…」
 沼田がそんな情けない言葉を言い終わる頃には、沼田はもう愛子から5m近く遠ざかってしまっていた。

「わっ…わっ…あぁ」
 ヨロヨロとおぼつかないながらも、両手を広げた沼田は一人で前へと進み続ける。
「も、もうダメ!」
 ズサッ! ガシャン…
 限界を感じ、とっさに片足を付いて降りた沼田。一輪車だけが音を立てて転げる。
ふと振り返ってみると、今までつかまえてくれて一緒に来てくれていると思っていた愛子の姿が
30mほど離れた位置に立っていることに、沼田は目を疑った。
「きゃぁっ、やったぁ先生!!乗れた!やればできるじゃないですか、沼田先生!」
 愛子はまるで自分のことのように喜び、うれしくてたまらないという笑顔で沼田の元に駆け寄ってくると
沼田の手を取り、彼の周りを周回するようにして何度も飛び跳ねながら歓声を上げた。
握り締めてくる愛子の手の感触を受けながら、沼田もじーんと熱いものを感じ始めていた。
乗れた…あれだけできなくて途方に暮れていた一輪車に…宮田さんのおかげで、こんな長い距離進めた!
何度も繰り返し先生からの指導を受けて、解けなかった問題が解けた子供のような気持ちに沼田は戻されていた。

 いつしか太陽はもう遠くの山の陰に隠れ、あたりは夕方から夜へと移り変わり始めていた。
学校の周りにあるあちこちの電柱にはもう電灯がついている。
「み、宮田さん…悪いね、こんな遅くまで…ありがとう」
「ううん、私は家近いから別にかまいません。それより先生、乗れるようになってよかったですね」
「あ、ああ…」
 沼田はそれしか返すことはできなかった。
沼田は目の前の少女が先生で、自分が出来の悪い生徒として入れ替わってしまったようにも感じて、
恥辱と達成感の入り混じった思いに心の中を掻き乱されどう返事をしたらいいのかわからなくなってしまっていた。

「明日の男子たちの補習、私も手伝います。やっぱりみんなにも上手になってほしいから…
先生もがんばりましょうね!もう一息で完璧に乗りこなせるようになれると思います。
それじゃ私、帰ります。さようなら、沼田先生」
 笑顔のまま最後にぺこりと頭を下げると、愛子は近くに置いてあったランドセルを背負って下校していった。
12歳の少女教師と中年男子児童の居残り補習授業は終了した。
校門を通り過ぎて愛子の姿が見えなくなったのを確認してから、一人残った沼田は倒れたままの一輪車を拾い上げると
茫然と広いグラウンドに立ち尽くし…
「ぇぐっ、ひぅっ、うぶぶぶ……」
 泣いた。
とめどなく、涙が溢れてくる。
渦を巻いていた様々な感情が、愛子が去り一人になった途端に堰を切って流れ出してしまったのだ。
小学6年生の女の子に手取り足取り教えられる屈辱、しかしそれがあったからこそ一輪車に乗れるようになったという事実、
そしてこのみっともない運動音痴の担任に対し嫌な顔一つせず進んで指導を買って出て、
成功したことに対し本当にうれしそうに祝福を送ってくれた愛子に対する、憧れとも言える微妙な感情…
愛子がとても優しくニコニコと、普通にクラスの男子と接するかのように教えてくれたことが、
ますます沼田の心に深く突き刺さっていた。
(ぼ、僕は…僕は、3組の男子たちとほとんど一緒の…子供扱いなんだ!)
 明日の放課後、自分はクラスの5人の男子児童と一緒に、宮田愛子先生の補習授業を受けるんだ…
恥ずかしすぎる光景が頭に浮かび、沼田は涙の勢いをより激しいものに変えていった。

 顔を泣き濡らし、鼻水を啜り上げる沼田の姿を、月明かりが照らし続けていた…


 つづく