闘う男は美しい

「へへっ、見ろよボコボコだぜ」
「主将のラッシュの前に、手も足も出ないんだ!当然だろ」
 後輩たちが見守るリングでは、ボクシング部主将・山城昭宏が得意の連打を見舞い続けていた。
その山城のグローブが次々に向かう相手とは…紺色ブレザー姿の女子生徒だった。
ボクシング部員のほぼ全員が、この女を許せなかった。
ただの美術部のくせに自分たちをバカにした態度を取り続けた、この身の程知らずな女を。

 事の発端は、こうだ。
彼らボクシング部の部室に現れた美術部部長・賀川清流(しずる)。
「いきなりで悪いんだけど、誰か私たち美術部のデッサンのモデルになってくれない?」
 突然の申し出だったが、その時点ではボクシング部の誰もが悪い気はしなかった。
ボクシング部なら引き締まったいい体をしているに違いないからきっと美術部のみんなもやる気になってくれると
お願いしてくる、校内でも上位に属する美貌の持ち主である清流。
加えてこの学校の美術部はそんな清流以下、彼女にも引けを取らない美少女ぞろいの『女の園』と言える集団。
その先に対して妙な下心まで抱いて、主将の山城が名乗りを上げた。
「みんな、ボクシング部のキャプテンさんが直々に題材になってくれるわよ。
ビルドアップされた肉体がモデルなら、みんなも気合が入るでしょ?」
 山城は美術室に案内され、清流から紹介された。
見渡せば噂どおり、美術部はレベルの高い女子生徒オンリーの華やいだ集まりだった。
20人近い美少女たちに拍手で迎えられ、有頂天になる山城。
「早速始めたいんだけど、用意してくれる?」
 清流に促されて山城は堂々とシャツを脱ぎ捨てた。ウェイト調整とトレーニングの毎日で磨かれた無駄のない肉体を見れば
ますます惚れられてしまうかも…と、調子のいい想像までしながら。
だが…その体を見せた直後から、美術室内の空気が一変してしまう。
 誰も何も言葉を発しない。一様に冷ややかな視線を送ってくるだけの美術部員一同。
静寂を打ち破ったのは、その嫌な空気に耐え切れなくなった山城だった。
「おい、何だその反応は!俺がせっかく忙しい合間を縫って…」
「あら、忙しかったの?だったらごめんなさい。もう帰っていいわ」
 モデルを頼みに来た態度から打って変わって冷淡な態度となった清流が、手で払いのけるような仕草とともに言う。
それが、ますます山城を傷つけた。
「こ、こいつ…!」
「ボクシング部だって言うから、彫刻みたいな美しい肉体を期待してたんだけどね…あなたはただガリガリなだけで迫力がないわ。
先週はラグビー部にお願いしたんだけど太いだけで全然締まってなかったし、その前の相撲部は問題外。
なかなか理想のモデルには出会えないわね…やっぱりうちの学校の男子に期待するほうが無理ってことなのかな」
 開封したプレゼントが自分の期待したとおりのものと異なっていたような残念な表情を、美術部全員が湛えている。
「こんなこと言うと失礼かもしれないけど…弱そう」
 山城に背を向けながら歩いていく清流が一言だけ残したその台詞に、
やがて静まり返っていた美術室がクスクスと小さな笑いに満たされていった。
「て、てめえ!!ちょっと来い!!」
 怒りのままに山城は清流の肩を掴むと、彼女を引きずるようにしてボクシング部の部室へと連行した。
体型を美術の題材として貧相だと言われたことはどうにか許せたとしても、
ただの美術部の女にボクシング部主将の自分が弱そうだの何だのと言われては黙っていられなかった。
思い知らせてやる、その一心だった。運動部の男子部員が文化部の女子部員を力でどうこうすることの是非など考えていられない。
「お前は俺たちボクシング部を侮辱したんだよ!
どうせろくにスポーツもまともにやったことないくせして、知ったような口ききやがってよ…
教えてやろうじゃねえか、俺たちが毎日やってることってのをな!おら、さっさと上がれ!」
 山城は清流を恫喝しながら、ボクシンググローブを渡してリングに上がるよう強要した。
笑いものにされた屈辱を、拳で晴らすつもりだったのだ。
しかしボクシング部の主将が文化部の女子生徒を相手に実戦を行うとは…
許せないのはわかるがそれは危険すぎるのではないか、何かがあってからでは遅いと副主将・金子は制止しようとしたのだが…
「うるせえ!お前は悔しくねえのか!こいつだけは実際にボクシングを叩き込んでやらねえと気が済まねえんだよ!!」
 山城は全く聞く耳を持たなかった。
そして山城もグローブをはめ、臨戦態勢に。
「おい、ゴングだ!」
 下級生を促し、ついに本気で始めてしまった。
(山城の奴、頭に血が上りきってわからなくなってるが…これは大変なことになったぞ。
素人をリングに上げて実戦形式で殴ろうなんて…大怪我させたら、その後どうなると思ってんだ。
しかしそれにしても…)
 リングサイドから見守っている金子は不安に包まれていた。すぐにカッとなる山城の性格は入部当初から知っている。
これまでにも他の部とトラブルになったことは少なくない。
無茶なことをして、問題にならなければいいが、と。
そしてもう一つ、引っかかることがあった。
激怒した山城に迫られたとはいえ、意外なほど素直にリングに上がり、非常に落ち着いた表情のままグローブを装着して
この野試合に臨んだ美術部の女。
なぜそんなに、平然としているのか…と。
 
 試合は開始を告げるゴング直後から、一方的な山城ペースとなった。
全くディフェンスにしか用いられていない清流のグローブを、山城が猛ラッシュで叩き続けている。
手出しをする余裕もなくただ身を丸めながら殴られ続ける女、そのように映った。
やっぱりこういう展開になったか…ボクシング部の下級生たちは、一様に半笑いでその様子を見ていた。
「こりゃスパーっていうよりリンチだよな。惨めなもんだ」
「でもあの女、ガードしてるぜ」
「亀みたいになって守ってるだけなら誰でもできるだろ。あれ以外に何ができるってんだよ」
「主将の心肺能力はズバ抜けてるからな、一度始まったラッシュは止まらないんだ。
多分あの生意気な女も、時間の問題だろ。このパンチの雨が、永遠に続くんじゃないかってビビってるに決まってる。
必死に守ってるけど、一発もらったら終わったようなもんだ。ですよね、金子さん」
 山城の後輩が軽い口を叩きながら、反対側の隣にいるボクシング部副主将の金子にニヤつきながら話しかけた。
文化部の女がリングに上がって俺たちの主将に喧嘩を売ること自体身の程知らず、そんな笑いを湛えた顔で。
しかしそんな後輩とは対照的に、金子のほうはシリアスな顔つきでリングを見つめ続けていた。
金子は気付いていた。様子がおかしいことに。
(…山城のパンチは、全部殺されてる!)

 2分が経過しても、山城のラッシュは続行していた。
一切殴り返して来られない状況で、ミット打ちのように。
…だが、ただの1発も有効打はない。全部、完璧にガードされていた。
ボディはもちろん、女相手とはいえ顔面にも容赦せず上下にパンチを打ち分けている。
(この女は…!)
 金子は妙に嫌な予感を覚えた。
ただ怖がって、身を屈めているだけではないことが金子にはわかった。
次々と繰り出される山城の拳から全く目を逸らすことなく、全てしっかり見た上で、グローブで受けている。
このボクシング部のほとんどの後輩部員も、山城にラッシュを仕掛けられればものの数秒で下を向いてしまい丸くなって
後は打たれるままになるというのに…
それを2分以上、打ち返すことはないもののまるでそのガードに破綻を見せることのないまま堂々と防ぎ続けている。
「おい、やり返せねえのかよ!」
「殴られっぱなしだぜ!」
「不細工になる前に泣いて謝ったほうが身のためじゃねーか!?」
 後輩たちはこの様子を見て、山城がただ一方的に攻めていると勘違いして危機感のない野次を飛ばし続けているが…
(こいつは、もしかするとお前らなんかより…)
 男たちの歓声で沸きかえるコーナーサイドで、金子1人が複雑な表情で見つめていた。

 1ラウンドが終了。
戦いというより、山城1人がラッシュの練習をしただけのような3分間だった。
「山城」
 金子が用意した椅子にも、山城は座ろうとしなかった。言葉も発しない。
やはり怒りでテンションが上がったままなのだろう…金子は察した。そして山城が、同時に抱いているであろう思いも…

 2ラウンド目のゴングが鳴る。
前のラウンドは自分だけがパンチを繰り出し続けた、素人目に見れば一方的な展開だったが
そんな単純な問題ではないことは戦っている山城自身がよくわかっていた。全然、効いたパンチを与えられなかったことは。
(一発入りさえすれば、こっちのもんだ。たまたま、逃げるのが得意なだけの女だろ。
ボクシング部の男のパンチ食らって平気でいられるわけがねえんだ…見てろ)
 山城は心の中でそう言い聞かせ、このラウンドから仕切り直して一気に始末しようとリング中央へ向かった。
そしてまた、山城得意のラッシュが始まる。
ボクシング部主将のパンチを受け続ければ、ガードしていたとしてもダメージは蓄積するはず。
次第に腕が下がり、そうなればこんな女などパンチの的にしかならなくなる…と、ここの男たちのほとんどがそう思ったはずだ。
だがこのラウンドから、清流の動きが変わった。山城のコンビネーションが、空を切るようになり始めた。
パンチを出しながらの前進でプレッシャーを掛け、コーナーに追い詰める山城。そこから一気にと仕掛けたところで
清流はスルリと抜け出して、広々としたリング中央に戻ってしまっている。
このラウンドに入ってから1分間に、このやり取りを何度繰り返しただろうか。
(やっぱりこの女は…)
 ロープを握り締めながら見守る金子の拳から、滲んだ汗が滴り始める。
押し込んだはずの的が、風のようにすり抜けて反対側に逃れていってしまう。信じられないスピードだ。
また山城が細かいパンチで追い詰める。そしてまた、清流は軽くくぐり抜けて間合いを遠く離す。
結局は無駄に終わるのに追い詰めてくる様子が面白くて、何度も見て楽しんでいるかのように…
(無駄にパンチを出させて、疲れさせてるってのか!?)
 事実、山城のスピードはかなり落ちていた。足もついていかなくなり始めている。
清流の位置を把握してからコーナーに追い詰めるまでの時間も、次第に延びてきた。
焦り、苛立ち、疲れ、様々な要素が積み重なることが、山城のパンチからキレを奪っていっていた。
相変わらずラッシュは続く。だが見た目、山城が込める気合ほど、現実のパンチは精度もスピードも威力も
1ラウンド前半までの勢いは望めない状況だ。

 そして2分を過ぎた頃だ。清流がガードを下げ、ほぼ棒立ちのような姿勢をとり始めた。
当たらないからガードの必要がない、そう言いたげに。
それが山城を余計に熱くさせる。

 部室に拍子木の音が響く。2ラウンド目も、残り10秒を切った合図だった。
ほぼ丸々2ラウンド一方的に攻め続けておきながら有効打を1発も奪えていない、じれったく恥ずかしい展開。
怒りを乗せた拳が全くぶつからないフラストレーションに業を煮やした山城が、
「いい加減、寝とけや!!」
 渾身の右ストレートを繰り出す。
 バシン!
 これまでと違う重い音が奏でられ、ついにクリーンヒットが生まれたかと色めき立つボクシング部の男たちだったが、
彼らの目に映ったのは大きく上へと弾き飛ばされた山城の右だった。
「!?」
 ボクシング部一同が言葉を失う。パンチを仕掛けたはずの山城のほうが大きくのけぞってバランスを崩している姿に。
「くっ…!」
 一瞬ヨタッと体勢を乱した山城だったが、弾き上げられた拳を引き戻して素早くファイティングポーズを取る。
しかし落ち着きは取り戻しきれていなかった。何が起こったのか、まだ把握できていない。
全力で倒しに行った得意の右ストレートが…何かに衝突したように吹き飛ばされた!?
 カーン。
 ここで3分が経過、2ラウンドが終了。
振り返ってコーナーへと戻る山城は背後から、
「そろそろ、いいかな。こんな具合で」
 そんな清流の声を聞いた。
何かを企んでいる…山城にも得体の知れない不安が巣食い始めてきた。

 コーナーに座る山城に対し、後輩たちが口々に声をかけてくる。
「山城さん!」
「山城さん…」
「うるせえ!!お前らは黙ってろ!」
 セコンドを務める金子に一喝され、静まり返るボクシング部一同。
「山城…!」
「……」
 金子もこの事態に、かけるべき言葉が見つからなかった。山城も何も言えず、赤コーナーに重い空気が漂う。

 カーン。
 インターバルはあっという間に過ぎ去り、3ラウンドに入った。
リング中央に向かって遠ざかる山城に、ようやく言葉を見つけた金子が精一杯のアドバイスを送る。
「山城…!その女は只者じゃない!遊びは抜きで本気で叩き潰すんだ!」
 言われなくても山城もそうするつもりだった。しかし…相手から1発の攻撃も出されないうちから、山城は疲れきっていた。
女たちの前で恥をかかされたことへの怒り、この女への憎しみ。感情的になり、いつもよりラッシュに力を込めすぎた。
しかもそれを100%無効化されてしまった。無駄なパンチは有効打の10倍スタミナをロスするという。
そして、自分の土俵に連れてきておきながら片付けるのに手こずるどころか逆に遊ばれる形となった屈辱。
心理的な負担も、重くのしかかってきていた。
先のラウンドまでのようなラッシュが繰り出せないのなら、細かいジャブで少しずつ体力を奪うやり方は捨てざるを得ない。
一発大きいのを当てて、男の力で倒してしまうしかない―――山城は作戦を切り替えた。相手は女だ。

 しかしそれは、全くの間違いだった。
素早く出すジャブでさえかすりもしなくなっていたところで、大振り中心の攻めに切り替えて功を奏するはずがなかった。
2ラウンド終盤と比較しても、ますます当たる見込みがなくなっている。
焦りからボクシングを見失っている山城は、それでも『男の力で1発当てれば変わる』と思い込みパンチを振り回し続ける。
それを清流はボクシングのフットワークというよりむしろ、小さな子供との追いかけっこのような楽しげな足取りで
リング内を回りながら、山城に空を切らせますます疲れさせていく。
「山城!よく見て確実に当てろ!そいつは何か考えてる!」
 何とか落ち着かせなければ話にならない…金子は状況を打開させようとアドバイスを送るが山城の耳には届いていない。
山城自身は気付いていない。自分が次にどんなパンチを出し、そしてどこを狙っているのかを、
呼び動作の大きなパンチの動きが教えてしまっていることを。
1ラウンド目の素早いジャブの連発でも有効打を与えられなかったのが、疲れてからの大振りでどうにかなるはずがない。
ついには自分のパンチでバランスを崩しかけるほど疲労の色が濃くなってきた山城。
(くそっ…お前は、遊ばれてるだけなんだ!)
 単純な山城のことだ、こんなことを言えばまた逆上して余計悪い結果にもなりかねない。
金子もアドバイスに詰まる状況の中、下級生たちにも動揺が広まっている。
自分たちの誇りであるキャプテンが…運動部でもない女を追い掛け回して勝手に疲れている間抜けな姿を目の当たりにして。

「清流、どう?頑張ってる?」
 ここで外から続々と、制服姿の女子生徒たちが部室内に立ち入り始めた。
…美術部の部員たちだ。
「大体準備はできたわ。これなら、1年生の子にも動きは捉えられると思うけど」
 スタミナを使い果たし動きのレベルが格段に落ちた山城から完全に目を離し、美術部仲間の少女のほうを向いて話す清流。
「くっ…このっ!!」
 その隙を、逃すわけにはいかなかった。リング上で女によそ見をされる屈辱を打ち消す意味でも。
清流の横顔目掛けて、渾身の大振りストレートを放っていく山城。
 ヒュン。
 間違いなく当たる確信のあったストレート、それが全く手ごたえなく空気を殴っただけに終わったと感じた瞬間には、
「こっちのほうはOKだから、みんなも準備してね」
「はあい」
 リング外を見て同級生や下級生の美術部員たちに指示をしている清流の声が真後ろから聞こえた。
(そ…そんなバカなことがあるか!!)
 この一瞬で後ろに回りこんだ…!?しかもこっちを向かずに話をしていながら!
もしこのまま永遠に試合が続くとしたら…この女には1発たりとも当てられず永遠の晒し者に……
今さらにして『違い』を思い知らされ、一気に肥大してきた幻想、恐怖に心を侵食され始めた山城。
「くっ……くっそおおおおおっ!!」
 恐れを打ち消したいのか、叫び声を轟かせて山城はまた殴りかかる。
だが…結果など目に見えていた。
下で絵を描き始めた、格闘技など普段見る機会さえなさそうな美術部の女子生徒たちの目にも。

「どう、みんな?動きのある絵もこれぐらいなら楽に構図が決められるでしょ?」
「はい。この程度のスピードなら」
「清流が疲れさせてくれたおかげよね」
「でもさすが部長ですね。ボクシング部のキャプテンを、闘牛士みたいにきれいに捌き続けるなんて」
「ま、この程度の存在だったってことじゃない?」
 美術部の副部長を務める少女と下級生数人が、リングを見つめてそんな会話をしていた。
スケッチブックに鉛筆を走らせながら。
「な、何してるんだお前ら…」
 驚いて尋ねる金子に、副部長は当然のように答える。
「わからない?さっき頼んだとおり、私たち美術部のモデルになってもらってるんだけど」
「何だと…?」
「こんな貧弱な体つきの人じゃただ立ってるだけの絵を描いてもつまらないからね。
どうせなら格闘技の部活らしく、戦ってる最中の鬼気迫る力強さみたいなのを題材にできればと思って
清流に少し頑張ってもらって、うちの1年生の子にも動く対象を絵として捉える練習にもしてもらえれば一石二鳥ってことでね」
 金子のほうも向かずに、自分の絵の下書きを進めながら平然と説明する副部長。
彼女の向かう画用紙には、スタミナを使い果たして鉛のように重く感じる自らのグローブを必死に振り回している
汗びっしょりの男がモノクロで克明に描かれていた。表情、体勢ともにリング上の山城の現状を見事に再現した、
さすが美術部No.2の女と言える描写力だった。
同じ学年の、また下級生の美術部員たちもサラサラと音を立てながら、無様な一人相撲を続けて勝手に疲弊していく山城の姿を
画用紙に再現していく。

「みんな大体下描きは終わった?」
 もはや何の脅威も感じないのか、またも山城から視線を外して美術部一同のほうだけを見ながら清流が問いかける。
「うん、あとの仕上げは美術室に帰ってからでもできるし」
「部長、ありがとうございます」

「こ…このっ!!」
 底まで手を伸ばして精一杯すくってきたようなスタミナを振り絞り、山城がストレートを繰り出した。
一度ならず二度までも、リングで相対する男を放っておしゃべりなどしている女に、なめられ続けていいはずがない。
(手間かけさせやがって…これで決まりだ!!)
清流目掛けて伸びていく山城の腕、拳。
そこで、横を向いたままの清流の目だけが山城の方向に合わされて…

 バシーン!!

 この試合が始まって以来の大きく乾いた打撃音が部室内に響き渡る。
唾液の尾を引いたマウスピースが手裏剣のように空を飛び、部室の天井を叩いた。
それを吐き出した山城自身も大きく吹き飛び、全身を捻るようにしてマットに飛び込んで…
4段目のロープに首を引っ掛けた、まるでこれからギロチンにかけられる死刑囚のごとき体勢で眠りについた。
ロープの反動にまかせてユサユサ揺られながら、白目を剥き、口からほとばしる大粒の泡をリング下にこぼし続ける山城。
金子も他のボクシング部員一同も、何が起こったのか把握できなかった。
殴りかかっていったはずの山城が、次の瞬間にはマウスピースを吹き飛ばしながら、
まるで車にはねられたように飛んでいったようにしか見えなかったのだ。
しかし、自分たちの部で実力No.1の男が文化系の女子生徒に徹底的に翻弄された挙句
一撃でKOされたという現実だけは嫌でも認識させられた。

「さてと。私の絵がまだ終わってないのよね」
 グローブを外してリングから降りた清流がスケッチブックと鉛筆を手に取り、リングサイドを進む。
そしてたった1発のパンチで沈められ、最下段のロープで首を吊るようにしてダウンしたままの山城を正面から見つめながら
その惨めな負け姿を白いキャンバスに忠実に記録していく。さすが美術部部長と言える、美しい筆さばきで。

「これ、着色したら明日にでもあなたたちボクシング部にプレゼントするわ。絵の練習に付き合ってくれたお礼よ。
部室の一番目立つところにでも飾っておいてあげる。キャプテンさんの、最高に輝いてる瞬間を切り取った一作だからね」
 自分たちの頂点に存在するキャプテンの醜態が写実的に描かれたモノクロの肖像画を見せ付けられながら、
ボクシング部の男たちは誰一人としてそれを非難することも、そして殴りかかっていくこともできなかった。
「この絵を励みっていうかバネにして、もっと強くなってね。貧弱ボクシング部のみんな☆」
 続いて副部長の少女が発した、明らかに蔑みを含んだ調子の励ましの言葉に、
美術部員たちの吹き出す声、小さな笑いが次々とあちこちから湧き上がった。
屈辱、羞恥、敗北感、喪失感に何も言えず、誰も彼女たちに視線も合わせられず俯いたままの男たちを、
全方位から情け容赦なく降りかかるクスクス笑い、ひそひそと囁かれる罵声が冷酷に突き刺し、えぐり続けていた…


 おわり