<サンノゼ綺譚>

ウィンチェスター奇館と二笑亭

 カリフォルニア州サンノゼ。IT技術やハイテク産業のメッカ――いわゆるシリコンバレーの中心地である。その町で昨年秋、国際航空医療学会AMTC2009が開催された。

 サンノゼは、かつて私のいとこ藤村紀明さんが電子技術者として8年ほど在住していたことがある。今は引退して東京住まいだが、私のサンノゼゆきに際して何か見るべきところはないだろうかと訊いてみると、観光地ではないけれども、ウィンチェスター・ミステリー・ハウスが面白いのではないかという示唆を受けた。

 その説明によると、これはれっきとした歴史的建築物で、ライフル銃で有名なウィンチェスターの未亡人が、当時は田舎だったこの地に何十年もかけて増築した不思議な館である。未亡人は身長が低かったらしく、ドアは小さく、廊下も階段もせまく、階段を上がったところが天井につっかえて行き止まりだったり、扉をあけると壁だったりする。といって面白半分で作ったわけではなく、銃で死んだ人の怨念に取りつかれた異常人がオカルト的な感覚で作ったらしいとのこと。

 私はこの話を聞いた途端、昔の『二笑亭綺譚』を思い出した。子供のときに父(精神科医)が面白がって読んでいた本で、日本に初めてゴッホを紹介したり、山下清の保護などで有名な精神科医の式場隆三郎博士の書いたものである。奇妙な屋内の写真が多く、子供でも面白く、父の説明を聞きながらこわごわ眺めた記憶がある。

 その記憶と、アメリカのウィンチェスターハウスがどう違うか、どんな共通点があるか、私は興味津々でサンノゼに出かけて行った。AMTCの学会では沢山の講演や研究発表を聴いたが、その合間に問題の家へ行って見ると、160室もある大きな建物である。もっとも外観は木立の中に赤い屋根が見えているだけでさほど大きいとも思えぬが、これを作ったウィンチェスター未亡人サラも家の中で迷子になるほどだったという。したがって中を見るのも20人ずつのグループになって、案内人がつく。ツアーの途中でも、案内人が迷子にならぬようにと念を押し、「こっちですよー」「急いでくださーい」と何度も声を張り上げた。入館料は1人23ドルである。

 

 一つひとつの部屋は比較的小さい。壁やドアでこまかく仕切られ、階段を上がったり下がったりして、ぞろぞろついてゆく。特徴やいわれのある部屋にくると案内人が大声で説明するが、私の英語の聴き取り能力ではよく分からない。それに写真を撮るにしても、せまいところに大勢が入りこんでいるので、話題の部分がよく撮せないのである。心残りのまま、1時間ほどの屋内ツアーが終わってしまった。それでもまあ、かろうじてカメラに残った場面もあるので、それを見ていただくことにしたい。

 先ず本頁冒頭の写真は、奇館の前の街灯の柱にくくりつけられた赤い旗印で、大きな口をあけた黒猫がギャーとばかりに叫んでいる図である。

 下の写真はウィンチェスターのライフル銃。年代順にだんだん進歩し、精巧になってゆくのが分かるように展示されている。これらの銃で撃たれ、殺された人の怨霊(spirits)が未亡人に吹き込んで、この奇妙な館をつくらせたという解釈になっている。

 ツアーコースの最初の部屋にあるドアを開けると、そこには上の写真のように壁があるだけ。さらに別の部屋の戸棚は、戸をあけると中は下のように壁があるだけだった。

 別の部屋には下のように、外へ出るための2種類のドアがあるが、ひとつは無闇に小さい。いずれも把手(ノブ)が低い位置にあるのは、未亡人の背が低く、147センチしかなかったためとか。したがって小さい方のドアでも出入りできたのではないかという。

 これは天井にぶつかって行き止まりになった階段。つまりドアも戸棚も階段も、実用にならないものを真面目につくっているところが不思議である。大工は、しかし、未亡人の指示を忠実に守ったらしい。

 また、この未亡人は「13」という数字にこだわりがあったらしく、ほとんどの階段が13階段になっている。さらに帽子や衣服を掛ける金具も、下の写真のように壁のくぼみの中に13個ついているし、写真には撮れなかったが、手すりの柵なども13本ずつになっていたりする。

 このような奇妙な家を、ウィンチェスター未亡人は1884年頃からつくり始めた。それまでウィンチェスター家はアメリカ東部のコネティカット州ニューヘブンに住んでいたが、娘が1866年に生まれて間もなく死亡、その15年後に夫も結核で他界する。それから3年後、未亡人は西部のここサンノゼに移転、8部屋の未完成の農家を買い取り、死ぬまでの38年間にわたって、農家の完成に執念を燃やした。

 言い換えれば、増築に次ぐ増築を続けたわけで、建設工事の槌音は毎日、昼も夜も絶えることがなかった。増築の内容は怨霊の指示によるもので、夫人は夜ごと交霊室に入ってお告げを聴いては、それを大工に伝えたという。

 結果として1922年、夫人の死ぬ日まで160室がつくられたが、その中には未完成の部屋も沢山あり、建物としても未完のままで残った。これらの部屋は、ウィンチェスター銃で殺された怨霊たちが住むためだったという解釈もなされている。

 この間、1906年に付近一帯がサンフランシスコ大地震に見舞われた。増築中の館もあちこちが崩れたが、殆どは簡単な応急修理をしただけで、崩れ落ちた壁は今もそのまま残っている。

 未亡人の寝室。ベッドの横に案内人が立って説明している。1922年9月5日、彼女はここで息を引き取った。就寝中の心臓発作だったらしい。その死亡時、同じ家には妹のほか、沢山の姪や甥が一緒に暮らしていたが、莫大な現金と株券などの遺産はその人びとに譲られた。

 下の寝室は、同居していた姪かだれかの寝室であろう。

 

 上の写真は、この家で最も高価な窓ガラス。ニューヨークのティファニーから購入したもので、当時の価格は1,500ドル。最初は陽のあたる窓に取りつけられたが、のちに屋内に移された。

 ステンドグラスの窓はあちこちにあるが、いずれもヨーロッパやアメリカ東部から取り寄せたもの。上の写真に描かれたヒナギクはウィンチェスター未亡人の最も好んだ花で、それを特別注文してつくらせた窓である。 

 日本画もちゃんと飾ってあるし、日本の竹でつくった椅子その他の家具も見られた。

 グランド・ボールルーム。写真の撮り方がうまくないが、天井からシャンデリアの下がった大広間で、華やかなパーティが開かれたかに思われる。けれども実際は一度もそんなことはなく、1906年の大地震のあとは未亡人が死ぬまで閉鎖されたままだったという。

 さて、この不思議なウィンチェスター奇館に対して、日本の二笑亭はどう対置されるのだろうか。長くなってしまったので、いったんここで区切って、あとは日を改めて書くことにしたい。

(西川 渉、2010.1.23)

【追記(2010.3.29)】

 先日、司馬遼太郎の『ニューヨーク散歩(街道をゆく39)』(1994年)を読み返していたら、ブルックリン橋を渡りながら考えたことの中にウィンチェスター銃の話が出てきた。以下に引用し記録しておきたい。

 ……南北戦争がおこったとき、銃砲もこの地でつくられた。

 むろん、工業の本家はヨーロッパだったが、それらはこの新大陸で根づくことによって、大量生産され、急速に技術改良された。

 たとえば、小銃の場合、銃身の腔内に螺旋(らせん)を刻むことによって弾丸が回転する、そうすると弾道が一定して命中率がよくなる。

 そういう理論を考えたのは十八世紀半ばの英国人だったが、百年後のアメリカの南北戦争のとき、アメリカ製の小銃や大砲に、この理論が応用された。

 この戦争はわずか四年間にすぎなかったが、アメリカの兵器工業を巨大にした。

 もっとも、当初、アメリカ製の小銃の質は劣っていたらしいが、戦いがおわるころには、ヨーロッパの銃を追いぬくものがあらわれた。

 コネティカット州のニューヘブンのウィンチェスターエ場で製造されたウィンチェスター銃が、アメリカの工業の躍進性をよくあらわしていた。

 とくに南北戦争がおわるころに開発された型――弾倉そのものを元込(もとごめ)にする型――が有名で、西部開拓時代、ライフルの代名詞にさえなった。

 そういうウィンチェスター銃が、西部開拓民のどの家の壁にもかかっていたころ、一方ではアメリカの都市文明の勃興期の象徴としてブルックリン橋が登場するのてある。

 

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