<サンノゼ綺譚>
ウィンチェスター奇館と二笑亭(2) 数日前に書いたサンノゼ綺譚のつづきである。
昨年秋、サンノゼから戻ったあと、子供のときの記憶にある本『二笑亭綺譚』がどこにあるかと考えた。あの本を面白がっていた父も34年前に他界して訊くよしもなく、インターネットで調べても高価な古書があるばかりで、図書館から借りてくることにした。
見つかったのは『二笑亭綺譚――50年目の再訪記』という表題である。式場隆三郎の原著に何人かの文章が加わったもので、平成元年12月25日発行とあった。
そのもとになった原著は昭和14年発行。本の最初に沢山の写真があるが、昔のことだからモノクロの、ややぼやけたようなものばかりでいささか寂しい。本物の家が残っていれば見に行くところだが、とっくの昔に取り壊されてしまった。本の版権を侵すことになって申しわけないが、やむを得ず何枚か複写させていただいた。
![]()
![]()
この写真は二笑亭の正面で、真ん中の格子づくりの入り口がそれである。門前仲町の電車通りに面していて、式場隆三郎は「表から見た感じは寺院のような、神社のような、また倉のような、何ともいえぬ異様なもの」と書いている。
上の写真をもとに水木しげるが描いた二笑亭
(「奇っ怪建築見聞」2001年刊より)![]()
この奇怪な家を見て、近所の人は「牢屋」と呼んでいたとか。間口は3間半。2階に「三稜形の大きなガラスの嵌殺し(はめごろし)の異形窓がある。硝子は外国製の上等なもの」と、家の作者は自慢していたらしい。
作者というのは赤木城吉。精神異常者であると、精神科医の式場博士が明確に書いている。しかし、この人やこの家を「果たして笑い切れるだろうか。私は畏怖し、驚嘆する。……圧倒されそうだ」と賛嘆する。
「あの家はひとりの狂人によって建てられたことは事実である。しかし、それだからすべてを狂想の具現として見てはならない。あのなかには、もっと複雑微妙な人間の心理がおりこめられている」
![]()
ここで赤木城吉と二笑亭の時間的な経過を整理しておこう。城吉は明治10年(1877年)、佐山新二の庶子として生まれた。足袋仕立ての老舗、赤木家に奉公し入り婿となる。45〜46歳までは「ただ変人とよばれる程度で、日常生活に差支えなかった。それが震災後、徐々に変調があらわれてきた」
震災とはむろん関東大震災で、大正12年(1923年)9月1日のこと。この震災によって付近一帯の区画整理をすることになり、大地主の赤木家には多くの困難な問題が発生した。にもかかわらず、それらの問題を放り出して突然、城吉は世界一周の旅に出てしまう。みんなのとめるのも聞かず、長男と次男をつれて横浜から欧州航路の船に乗りこんだ。地震から1年余りの頃である。
服装はシャツと股引。ボーイに100円ものチップを与えたりして、船内でも評判の奇人富豪として扱われた。旅はマルセイユ、ロンドン、アメリカ、カナダと半年余り続き、大正15年4月に帰朝する。そこへ降りかかってきたのは区画整理のための立ち退き要求だったが、頑として応ぜず、家屋の一部が強制的に取り壊された。
そのとき残った100坪弱の土地に建っていたバラックを本建築に改めようとしたのが二笑亭である。その建築材料をそろえるために自ら木曽山中の御料林に行くなど、木材、鉄材、石材など良質のものばかりを集め、10年以上にわたって10万円を超える出費をしながら、狂った頭で異様な建築を続けた。
式場博士によれば、城吉は生来の異常性格者で「関東大震災後に精神分裂病が発生し」「彼の制作になる建築は、その病気の発症とともに進められ」、そのために城吉は家族と財産を失くしてしまった。
建築が未完のまま終わったのは昭和6年。無理やり脳病院に入院させられたときであった。
![]()
![]()
家の中に大きな「二笑亭」の扁額がかかっている。城吉の自筆で赤褐色の塗料を使い、筆太に書かれている。
「二笑」というわけは、城吉の父親の名前、佐山新二の二と「茶がかった意味をもたせるため」と説明してあるが、私にはよく分からない。それよりも当時活躍していた噺家、三笑亭可楽が城吉のひいきだったのではないかと思うが、そんなことはこの本には書いてない。
![]()
式場博士はゴッホを初めて日本に紹介し、山下清を長年にわたって保護し、芸術的な才能を開花させた先生で、二笑亭についても芸術的な観点から見ているところが多い。
下の写真も、家の中の大きな洋風のホールの高いところに飾られた浮彫(レリーフ)で、城吉みずから「石」という文字をデザインしたもの。同じ図案を風呂敷に染め抜いたりして、作者としては大いに得意だったらしい。
![]()
「欧米で見てきた寺院やホールなどの印象が残っていたものか、なかなか雄大な感じのする構図である」。それに新しいアブストラクト的な要素もあって「なかなか美しいが、その大きさと描かれた場所の関係から、折角の美が消えて少しく病的の印象を与える」。とはいえ、博士はわざわざその下に立って写真を撮り、この本にも掲載している。
![]()
![]()
上の写真は、下の土間から2階の倉庫へのぼる梯子。のぼった先は天井で、式場博士は「どうして、こんなのぼれぬ梯子をつくったのだろう」と首をかしげている。
![]()
節穴窓。厚い檜の板の節穴にガラスがはめこんである。この節穴から見えるのは自分の家の中庭だから、別に隠れて覗く必要もないような気がするが、「こうしてガラスを節穴にはめこんで庭を眺めようとする城吉の心理は、尋常ではない。よしやそれが覗き窓でなく、採光の面白さを悦ぶためとしても、異常な神経ではないか」と式場博士はいう。
![]()
このように「二笑亭綺譚」の紹介をしているときりがないので、最後にウィンチェスター奇館との対比を考えてみたい。
実は、この本を読んでいて驚いたのは、突然「メリケン二笑亭綺譚」という文字が出てきたことであった。ただし、これは『二笑亭綺譚』の原著ではなく、式場博士の「二笑亭後日譚」という追加の文章の中に出てくる。それによると本来の『二笑亭綺譚』が発表されたのは昭和12年の「中央公論」11月号と12月号であった。それを読んだ誰かが昭和13年の「中央公論」何月号かに外国の事例を思い出し「アメリカの無限に増築していった化物屋敷を二笑亭主人が見てきたのではないか」と書いているとか。それがウィンチェスター・ミステリー・ハウスのことかどうか、全く分からないが、ひょっとしたらそうだったかもしれない。
むろん私が両者の対比を考えたのは、この後日譚を読む前だが、同じようなことを考える人もいたらしい。そこには、どんな対比が書かれているのか、70年前の雑誌を探してみたいような気もする。
さて私の方の対比だが、二笑亭をつくった主人は精神異常者だったと式場博士は書いている。ウィンチェスター未亡人サラも同じようなものだったかもしれぬが、この奇館を説明したアメリカの文書の中にそういう言葉は出てこない。夜な夜な交霊室にこもって怨霊の指示を聞いていたというから、いわゆる霊感の強い人で、精神異常とはいわないまでも紙一重というところであろう。
建築期間は二笑亭が関東大震災(1923年)の後から昭和6年(1931年)頃まで。式場博士は10年以上と書いているが、『再訪記』は後に建築確認書や完成届などを調べて、10年足らずとしている。一方のウィンチェスター館は、先にも書いたように、未亡人が1884年サンノゼに移転したときから1922年に死去するまでの38年間。いずれも異常に長い。というよりも、一方は入院させられるまで、他方は死去するまで、自ら終わることはなかった。
建物の大きさは、二笑亭の土地が100坪弱で、部屋数は明確に数えることはできないが、17〜20部屋くらい。ウィンチェスター館は160室というから、数にすれば約10倍。期せずして日米の国土面積の違いが出たのかもしれない。
建築資金は、二笑亭主人が足袋の老舗であり、その界隈の大地主だったこと。当時の金額で10万円以上を使ったと式場博士は推定している。ウィンチェスター館の出費は亡夫のライフル製造の遺産で、550万ドルだそうである。莫大な金額であろうが、今の価値に直してどのくらいになるのだろうか。
建物の構造はどちらも増築に次ぐ増築で、間取りなども異常の一言に尽きる。そのうえ行き止まりの扉やのぼれぬ梯子または階段など、共通しているところが面白い。なお、ウィンチェスター館には2階の扉を開けるとそのまま庭に転落してしまうような恐ろしいドアもある。
またウィンチェスター館には物の入れられぬ戸棚があったが、二笑亭の押入れも間口3間、奥行き1尺余で、なにも入れられない。その横の床の間には斜めに傾いた違い棚があって、物が載せられなかった。
さらにウィンチェスター館には薄暗くて奇妙な構造の交霊室があるが、二笑亭2階の居間も電灯がなくて薄暗く、9畳という奇妙な大きさで、家族に逃げられた主人はそこで孤独な幻想にふけっていたという。
![]()
そうかと思うと、ウィンチェスター館にはきらびやかなグランド・ボール・ルームがあり、二笑亭にも大きな吹き抜けのホールがあった。そのホールに飾られていたのが「石」の字を図案化した巨大なレリーフである。
こうした装飾について、ウィンチェスター館には高価なステンドグラスが見られるが、二笑亭にも上述のように正面の異形窓があり、さらに厚いガラスをはめこんだ節穴窓が並んでいる。これも、外を覗くためというよりは、節穴から射し込む陽光を楽しむ飾りではないだろうか。
両者には発明品も少なくない。ウィンチェスター館で面白いのは大きな洗濯槽の手前内側の壁面に波のような凹凸を刻んで、つくりつけの洗濯板になっていること。また階段踊り場の隅に三角垂のような金具をはめこんでごみが溜まらず、掃除をしやすくしたり、窓の留め鍵に銃の引き金を使ったりしている。
さらにメイドの呼び出しベルは、すべて女中部屋で鳴るようになっているけれども、未亡人がそれをどこの部屋で鳴らしているか、今ならばIT技術によって簡単にできることだろうが、100年前にそれが分かるようになっていた。
二笑亭の発明は、和洋合体風呂で、和式の五右衛門風呂と洋式のバスタブがつながっている。五右衛門風呂で沸かしたお湯があふれ出すとバスタブに流れこみ、そこで横になって体を洗い、五右衛門風呂にたっぷりとつかることができる。
また玄関の壁は「黒砂糖と除虫菊の粉末を混合したものが塗りこめられている。これは盛夏に襲う蚊や虫を遠ざけようとする彼の独創になるもので、左官はこの奇想の犠牲になって、ひどいくしゃみに襲われ、両眼から涙をぽろぽろ出しながら仕事をつづけたという」
以上の異同を表にまとめると次のようになる。
二笑亭 ウィンチェスター館 国
日本
アメリカ
主人公
精神異常者
霊感異常者
性別
男
女
資金源
足袋仕立てと地代
ライフル銃の製造遺産
建築費
推定10万円以上
550万ドル
建築期間
8年間(1923〜31年)
38年間(1884〜22年)
規 模
17〜20部屋
160室
異常構造
のぼれぬ梯子
物の入らぬ押入れ
傾いた違い棚天井にぶつかる階段
物の入らぬ戸棚
行き止まりのドア
2階の外へ開くドア大部屋
洋式ホール
グランド・ボール・ルーム
窓
節穴窓
異形の嵌殺し窓ステンドグラス
発 明
和洋合体風呂
虫よけの壁洗濯槽
ごみよけの三角錐
銃の引き金の応用
メイドの呼び出し鈴![]()
最後に、アメリカのウィンチェスター奇館は、国の歴史遺産として保存され、今も多くの観客を集めている。
日本の二笑亭についても、式場隆三郎博士は「あの家の保存に努力すべきである」と、著書の中で主張した。「学問の上からも、また芸術の上からも意義の深いあの家を取りこわすのは惜しい気がする」と。
しかし、博士の願いもむなしく、昭和13年頃取りこわされて、今は跡形もない。
![]()
サンノゼの明るい陽光の下、
きれいに保存されているウィンチェスター館(西川 渉、2010.1.25)
(表紙へ戻る)