【あっと驚くプロ野球の珍記録・大記録】
私が大好きなプロ野球。そのプロ野球が日本に誕生したのが1936年ですから、既に71年が経過しています。そしてこの長い歳月の間には、想像を絶するようなプレーがいくつも演じられてきています。
それでは、その中でも選りすぐりの難問をいくつか、紹介していきましょう。
★第1問★
パッパッとボールが渡って鮮やかに成立するダブル・プレー(2重殺)は、胸がスカッとするもの。しかしこれがトリプル・プレー(3重殺)となると大変珍しく、プロ野球でも年に2、3度しかありません。
ところがプロ野球史上でただ一度、何と4重殺が宣告されたことがあるのです。どんなケースだと思いますか。もちろん、審判の判定はすべて野球規則にのっとって、正しく行われたものです。
▲▼答▼▲
1962年7月12日に行われた南海対東映戦でのこと。南海は1回裏の攻撃で無死満塁のチャンスを掴み、ここで打者は外野フライを打ち上げました。これが犠牲フライとなり、三塁走者がタッチアップして生還。
この時のバックホームの送球を捕手が後逸したのを見て、二塁走者も三塁を回ってホームに突っ込みましたが、バックアップした投手にボールが戻ってタッチアウト。この間に一塁走者も二塁を蹴って三塁に向かいましたが、投手の素早い送球にこれもアウト。
普通ならこれで3アウト成立でチェンジになるところですが、この時東映が三塁走者のタッチアップが早かったとアピール。塁審がこれを認めて三塁走者の生還を取り消し、アウトを宣告しました。
こうして打者をはじめ満塁の走者がすべてアウトと宣告されたために、ついにプロ野球史上唯一の4重殺が成立したのです。
このケースでのキーポイントは、タッチアップがアピール・プレーであるということです。つまり走者の離塁が早過ぎて不正進塁が行われても、審判はその時点では走者にアウトを宣告しません。守備側からのアピールがあって始めて、タッチアップのタイミングが判定の対象となるのです。
従ってアピールの前に行われた三塁走者のホームインは、その時点では正当な得点と認められます。そうなれば、続く二塁走者のホームでのタッチアウトでツーアウト、一塁走者の三塁でのタッチアウトでスリー・アウトですから、ここまではすべてルール通りに判定が下されたことになります。
ところがここで東映側からのアピールがあったので、三塁走者の離塁が早すぎたことを確認していた三塁塁審は、これを受けて始めてホームへの生還を取り消し、三塁走者のアウトを宣告したのです。これもルールにのっとった正当な判定です。
こうして、打者はもちろん満塁の走者全員に、正当な理由に基づくアウトが宣告されたのです。
(公式にはもちろん4重殺はなく、この場合も打者、二塁、三塁の走者の順にアウトの3重殺で無得点、一塁走者は一塁残塁と記録されています。ただし東映側からのアピールがなければ、打者、二塁、一塁の走者がアウトの3重殺となり、三塁走者の生還が認められて、南海が1点得点するところでした)
★第2問★
先頭打者から5人連続ヒットとくれば、大量点を取ってなお攻撃中と思うのが当然でしょう。しかし、5本目のヒットが出たところで、何と無得点のままチェンジというケースが、プロ野球史上に2度もあります。一体どんな経緯でこんな珍事が起こるのでしょうか。
▲▼答▼▲
1963年の対近鉄戦で、阪急の1回の攻撃でのこと。まずヒットで出た先頭打者が盗塁失敗。2番も安打で出塁しましたが、3番の安打の時、三塁を欲張ってアウト。4番も安打しての一,二塁から、5番の安打で二塁走者がホームをついたところ、バックホームに刺されてアウト。かくして5人連続ヒットを打ちながら、無得点でチェンジとなりました。
なお、37年の金鯱対イーグルス戦でも同じ記録が達成されていますが、経過はほとんど同じなので省略します。
★第3問★
前回は連続5安打で無得点の実例を紹介しましたが、ルール上は連続6安打でも無得点というケースが起こり得ます。さて、どんな場合でしょうか。
▲▼答▼▲
一例を挙げます。安打で出た先頭打者が、牽制でアウト。2番も安打するが、隠し球でアウト。3番、4番、5番が3連打しての2死満塁で、6番の打球が走者に当たってしまうと、この瞬間に走者には守備妨害でアウトが宣告されますが、打者には野球規則により安打が記録されます。
これで6連続安打で無得点という怪記録が実現する訳です。
★第4問★
最近のプロ野球では、先発、中継ぎ、リリーフと投手の役割分担が徹底していますが、昔は投手の頭数が足りなかったために、かなり打たれるまでは交代させなかったものです。それを念頭に置いた上で、次の質問に答えて下さい。
1人の投手が1試合で打たれたホームランの最多記録は、果たして何本でしょうか。
▲▼答▼▲
1949年4月26日に行われた対大映戦で、巨人の川崎徳次投手は実に8本の本塁を浴び、13点を奪われてしまいました。これが被本塁打のプロ野球記録ですが、それにしても、どうしてそんなに打たれるまで続投させたのでしょうか。
実はこの川崎投手、この試合で打者としては3ホーマーを含む4安打、9打点と大暴れし、結局15対13で何と完投勝利投手になっているのです。
その結果、この試合で川崎選手は、投手としては完投勝利投手の最多失点、最多被本塁打、打者としては一試合の最多打点の三つのプロ野球記録を樹立しました。
このうち最多打点の記録は、51年に飯島滋弥(大映)によって更新されますが、あとの2つは62年後の今も、不滅の大記録として燦然と輝いています。
★第5問★
一つの内野ゴロを処理するのに、4つのエラーを記録した三塁手がいます。どうしたらこんな事態が起きるのでしょうか。ただしこれは、アメリカの大リーグの話です。
▲▼答▼▲
1895年に行われたある試合で、ニューヨーク・ジャイアンツのマイク・グラディ三塁手は、まず平凡な三塁ゴロを大きくファンブル(一つ目のエラー)。慌てて間に合わない一塁に送球すると、これがベースから3メートルもそれた大悪送(二つ目)となり、ボールが転々とするのを見た打者走者は、二塁を回って三塁に殺到しました。
やっとボールを掴んだ一塁手が絶好の送球をしたにもかかわらず、グラディはこれを後逸(三つ目)。打者走者はさらにホームへ向かい、これを刺そうとしたグラディの送球が再び大悪送(四つ目)となって、走者の生還を許してしまいました。
結局このグラディ三塁手は、全くの一人相撲で4失策を重ねている間に、相手に1点を献上してしまったことになります。
★第6問★
第2問で阪急が5安打で0得点の珍記録を作ったことを紹介しましたが、何とこの阪急はこれとは逆の0安打で5得点というプロ野球記録も保持しているのですから、楽しいではありませんか。この経緯を想像してみて下さい。
▲▼答▼▲
1971年7月4日の対近鉄戦でのこと。阪急は10回表の攻撃でまず福本が四球で出塁、バントで二塁へ進み、すぐに三盗を敢行。近鉄はここで続く二人を敬遠して満塁策を採りましたが、これが全くの裏目と出て、この後四球、四球、死球、四球、犠牲フライと続き、阪急は0安打ながら打者一巡の猛攻(?)で5点をもぎ取ったのです。
なお38年にはタイガースが対イーグルス戦の7回、3四球に4失策をからめて同じ0安打5得点の記録を残しています。
★第7問★
完全試合を達成した場合は当然被安打0、与四死球0の筈ですが、アメリカのメジャー・リーグでは、1917年に与四球1の完全試合が記録されています。
どうして、こんなことが起こるのでしょうか?
▲▼答▼▲
1917年、あのベーブ・ルース(当時インディアンスの投手)が先発した試合で、先頭打者のモーガンに四球を与えましたが、この判定を不服として審判に暴言を吐き、退場となりました。ここで急遽リリーフしたアーニー・ショア投手は、まずモーガンを盗塁失敗させた後、続く26打者をすべて凡退させて、リリーフながら完全試合を達成しました。与四球1の完全試合というわけです。
野球規則の10.19(f)に『1回無死無失点の時に代わって出場した投手が、無失点のまま試合を終わった時に限って、完投投手ではないがシャットアウトの記録が与えられる』とあります。
日本でも、72年の対大洋戦で阪神の上田二朗投手が、1回無死一塁三塁のピンチにリリーフし、以後を無失点に押さえて『交代完了による完封勝利』の記録を残しています。
従ってアーニー・ショア投手の場合も、この規則に該当するわけですが、しかも27アウトを取る間に1人の走者も出さなかったのですから、1人の走者も出さないシャットアウトということになって、これは立派に完全試合として認められていたのです。
しかしその後も与四球があるのに完全試合はおかしいという声が絶えず、現在ではルース、ショア二人によるノーヒット・ノーランという扱いになっています。
★第8問★
野球はスリー・アウトでチェンジ、これは常識。しかし、1イニングに4三振を奪った投手が12人もいるのです。どうして、こんなことができるのでしょう。
▲▼答▼▲
2007年4月3日の対ソフトバンク戦の5回表に、涌井秀章(西武)投手が達成したケースで説明しましょう。
山崎を三振に仕留めた後、次の本間も3ストライク目を空振りさせましたが、このボールをキャッチャーが後逸してしまい、打者は振り逃げで一塁へ。しかし涌井は気落ちすることなく続く城所を三振、川崎には安打を打たれましたものの、多村を三振させたので、これで1イニング4奪三振となったわけです。
このように途中に振り逃げを挟めば1イニングに4奪三振が成立するわけで、これまでに59年に中谷信夫(南海)、69年に幸田優(大洋)、93年に野村貴仁(オリックス)、96年に工藤公康(ダイエー)、97年に西口文也(西武)、岡島秀樹(巨人)、00年にレモン(ヤクルト)、斎藤和巳(ダイエー)、03年に杉内俊哉(ダイエー)、04年に金沢健人(阪神)、松坂大輔(西武)、05年に前田幸長(巨人)、07年に上記涌井秀章(西武)の12人がこの記録を達成しました。 (在籍チームは記録達成当時)
このうち、中谷、野村、西口、杉内、前田の5人は、先頭打者から4人連続三振というのが記録に一層の箔をつけています。
★第9問★
トリプル・スチール(3重盗)を敢行となれば、普通ならスリル満点。なのに満塁の走者がのんびり歩いて進塁するのを、黙って見送っているだけで3重盗されてしまった間抜けなチームがあります。一体、何を考えていたのでしょうか。
▲▼答▼▲
1936年10月24日に行われた対タイガース戦で、大東京は5回の攻撃で2死満塁のチヤンスを掴みました。ここで打席に入った漆原は6球目のボールを見送って2−3となった時、何を勘違いしたのか四球を得たと思い込み、バットを放り出して悠々と一塁へ歩き出しました。その態度があまりにも堂々としていたために、つられて敵も味方もてっきり四球と錯覚してしまい、満塁の走者は押し出される格好でそれぞれ次の塁に歩き、守備側は苦々しい気持ちで呆然とそれを眺めていました。
打者が一塁に着いたところでやっと主審がミスに気付き、漆原を呼び戻しましたが、イン・プレー中の出来事なので進塁した走者を元の塁に戻すことはできません。審判団が集まって協議の結果、3人揃っての盗塁と見なす他はないということになり、こうしてやった当人達もあっと驚く歩きながらの3重盗が成立したのです。
★第10問★
1948年に坪内選手(金星)は、25試合連続安打の新記録(当時)を作って連盟から表彰されましたが、3年もたってから既に46年に野口選手(阪急)が31試合連続安打を記録していたことが判明して、表彰は取り消されてしまいました。
しかしそれにしても、この野口選手の大記録に連盟はもちろん、マスコミはおろか選手本人さえも気が付いていなかったのはどうしてでしょう。
▲▼答▼▲
31試合連続安打を記録した野口二郎(阪急)は、何と通算237勝、5年連続25勝以上、1シーズン19完封などの大記録を残した超一流の投手だったのです。投手なので当然出場試合は飛び飛び、それにまさか投手がという先入観も手伝って、誰も記録をチェックしていなかったというわけです。
★第11問★
アメリカのメジャー・リーグで最大ホームランを打ったのは誰か、これは大変興味のある話題ですが、実は諸説あって確定していません。ボールの落下点がはっきりしているものは正確な測定が可能ですが、外野のフェンスを直撃という当たりは、もしフェンスがなければという推測値なので、厳密な比較ができないからです。
測定できた限りでは、53年にミッキー・マントルが打った172メートル(オープン戦まで含めれば、26年のベーブ・ルースの184メートル)ですが、51年にデーブ・キングマンの一打は左翼席上段12メートルの金網を越えて場外のレンガ壁を直撃する超特大で、189メートルは飛んだのではと言われています。
それではマイナー・リーグまで含めた最小ホームラン記録は、何メートルでしょうか。
▲▼答▼▲
正解は、0.6メートル。1902年7月23日、マイナー・リーグのミネアポリス対セントポール戦が、激しい雨が振りしきる悪コンディションの中で行われました。
9回裏、アンディ・オイラー(ミネアポリス)がバットを一振すると、快音とともに突然ボールが消え失せてしまったのです。あわてふためく野手を尻目に、打者走者はさっさとダイヤモンドを一周してしまいましたが、ボールの行方が分からなくては、審判もフェアかファールかの判定ができません。やむなく両軍の選手、審判が総出で探したところ、何とホームベースの僅か60センチ先の地面に、ボールがのめり込んでいるのが発見されました。
判定はもちろんフェア、打者は既にホームインしているので、改めてランニング・ホームランが宣告され、ここに飛距離60センチの最小ホームランが誕生したのです。
★第12問★
最近のプロ野球は試合時間がやたらと長くて問題になっていますが、昔は試合運びがはるかにスピーディだったもので、1946年には55分という最短試合記録まであります。
プロ野球の最長延長記録を作った試合でも3時間44分しか掛かっていませんが、この時間で果たして延長何回まで闘ったのでしょうか。
▲▼答▼▲
1942年4月24日に後楽園で行われた名古屋対大洋戦は、実に延長28回を闘って4−4の引き分けに終り、これがプロ野球の最長延長記録になっています。
しかし、驚くのはこれから。 この日は今では考えられない超変則トリプル・ヘッダーが行われており、第一試合は延長14回の末に朝日3−2名古屋、第二試合は大洋1−0巨人、そしてこれに続く第三試合が名古屋対大洋戦だったのです。従って名古屋の選手は第二試合を休んだだけで合計42イニング、大洋の選手は2試合ぶっ続けで37イニングを闘い抜いたことになります。
先発した野口二郎(大洋)、西沢道夫(名古屋)がともに28回を完投したというのも、今のひ弱なピッチャーを見慣れた我々にはとても信じられませんが、実は本当に驚くのはこれから。野口は何と前日の朝日戦にも登板しており、それも1安打完封勝ちを演じた上での連投だったのです。その2日前の阪神戦でも完封しているなどと付け加えるのは、もはや興ざめの蛇足というものでしょうか。
★第13問★
プロ野球の最長延長記録が出たついでに、春夏の甲子園大会での高校野球最長延長記録は何回でしょうか。
▲▼答▼▲
1933年夏の大会で中京商ー明石中(当時は中学が5年制で、中等大会と呼ばれていた)が闘った延長25回です。しかし、それがプロ野球珍記録・大記録と何の関係があるかって? まぁ、最後まで読んで下さい。
この試合に中京商の捕手だった野口明はその後明治大学を経てプロ入りしましたが、何という運命の悪戯か、あの歴史的な延長28回の名古屋対大洋戦にも大洋の捕手としてマスクをかぶっているのです。
こうして野口はアマチュアの最長延長試合、プロの最長延長試合の双方を体験したただ一人の選手として球史に残っていますが、高校野球は延長15回、プロ野球はセ・リーグが15回、パ・リーグが12回で打ち切りとなった現在では、野口の記録は永久に不滅ということになります。
★第14問★
投手は先取点を取られ、打線はノーヒットに封じられたとあっては敗戦は必至ですが、何とこれでも勝ってしまったチームがあります。その経過を想像してみて下さい。
▲▼答▼▲
1939年5月6日に行われた阪急対南海戦。それまで無安打に押さえられていた阪急は、0−1で迎えた6回に四球、エラー、犠打、四球の満塁に、外飛が出てまず同点。7回には四球のあと次打者の三塁前バントを名手鶴岡一人が一塁に大悪送、一塁走者が長駆ホームインして逆転。このまま押し切って阪急の勝利になりましたが、結局その後も無安打だったため、先取点を取られ、無安打に封じられてなお勝つという珍記録を達成したのです。
このように、無安打に押さえられながら得点をあげたケースは今までに4回あり、記録マニアの間では“ノーヒットありラン”と呼ばれて珍重されていますが、さすがに無安打で勝ったのは上記の1試合だけです。
★第15問★
サイクル・ヒットなど小さい、小さい。何と一日のうちにサイクル・ホーマー(ソロ、ツーラン、スリーラン、満塁)を放った打者が一人だけいるのです。さて、この快挙を演じたのは誰でしょうか。
▲▼答▼▲
1979年に、スコット(ヤクルト)がダブル・ヘッダーの2試合にまたがって達成していますが、大記録の割りにスコットなんて記憶に無いなぁ。
★第16問★
「ボールを四つ選んだのに三振だって? そんな馬鹿な」とお思いでしょうが、そんな悪夢のような目にあった選手が本当にいるのです。どうしてこんなことが起こるのでしょうか。
▲▼答▼▲
1967年6月14日の東京対東映戦の7回、青野修三(東映)が6球目を見送ったところでカウントは2−4となり、当然主審は四球を宣告すべきところでしたが、何とまだ2−3と勘違いしてプレーを続行させたために、青野は7球目をファール、8球目を空振りして三振を宣告されてしまったのです。(公式記録は3−4の三振)
ボール・カウントはアピール・プレーですが、次の投球と同時にアピール権が消滅してしまうので、後から気が付いて抗議をしても訂正されません。このため主審の勘違いによるミスは結構多く、72年には水谷(広島)、78年には山村(クラウン)が同じ経過で2−4から三振をくらっています。
逆にまだ3ボールなのに四球を宣告されたのは、山田(大映)、遠井(阪神)、柴田(巨人)、掛布(阪神)の4人。一番儲けたのは86年の吉村(巨人)で、2−4から何とホームランを打っています。
☆
追記
07年7月29日に行われたヤクルト対中日戦で、3回に鈴木(ヤクルト)が4ファール、2ボールの2−2からボールを選ぶと、主審の森健次郎は四球を宣告、鈴木は一塁に歩きました。他の審判、公式記録員、中日側も誰も気が付かずに次のプレーに入ったため、公式記録では5人目の2−3の四球になりました。
★第17問★
カウントがツー・スリーともなれば、ピッチャーは誰でも慎重になるのが当然ですが、慎重になり過ぎてまだ第6球を投げないうちに、四球を宣告されたピッチャーがいます。どうしてでしょうか。
▲▼答▼▲
1972年4月14日の東映対阪急戦で、梶本(阪急)は1回裏先頭の大下(東映)に2−3となった後、マウンドを左足で入念にならしてから投球動作に入ろうとした時、二塁審判が突然右手を上げてボールを宣告したので、打者は四球で一塁へ歩きました。
野球規則8.04に『塁に走者がいないとき、投手はボールを手にしてから20秒以内(現在では12秒以内に改正)に投球しないとボールを一つとられる』とあり、これが適用されたものです。言うまでもなくこれはゲームの進行を早めるための規定ですが、他に適用されたケースは無く、今までのところは梶本一人が貧乏くじを引いた格好です。
★第18問★
2002年に松井稼頭央(当時西武、現アストロズ)が“3割、30本塁打、30盗塁”という記録を達成して話題になりましたが、この記録は確実性、長打力、走力という異なる能力が要求されるために、プロ野球史上まだ別当薫(1950年・毎日)、岩本義行(50年・松竹)、中西太(54年・西鉄)、簑田浩二(83年・阪急)、秋山幸二(89年・西武)、野村謙二郎(95年・広島)、金本知憲(00年・阪神)、 松井稼頭央(2002年・西武)の8人しか達成した選手はいません。
しかし実はあの長島茂雄(巨人)がこの記録を事実上完全に達成しながら、いかにも彼らしい大チョンボで取り逃がしてしまっているのです。それではその大チョンボと は?
▲▼答▼▲
1958年9月19日の対広島戦で、長島茂雄(巨人)は5回裏に鵜狩投手から右中間に28号本塁打を叩き込みましたが、ベースを一周したところで広島側は一塁を踏んでいないとアピール、塁審がこれを認めたため本塁打は取り消しとなり、記録上はピッチャーゴロとして処理されてしまいました。
シーズンが終わってみれば、長島の成績は 打率.305,本塁打29,盗塁37だったので、結果的にはこの一塁ベース踏み忘れで、史上ただ一人の新人による“3割30本塁打30盗塁”の達成という大記録を逃してしまったことになります。またどうせ踏み忘れるのならば、ホームを空過しておけば記録は三塁打となるので、長島はこの年の本塁打、三塁打、二塁打、単打の全部門でトップという空前絶後の大記録(メジャー・リーグにも一人しかいない)を達成できるところだったのです。
またこの年の長島は、本塁打と打点でトップ、打率で2位だったのですから、三冠王ももう一息のところで取り逃がしています。こうして長島は同時に三つの大記録を達成しそこなったわけですが、記録を作ったことよりも、作らなかったことで球史に名前を残したというのが、いかにも彼らしいエピソードでしょう。
それにしても、こんな桁外れのルーキーはもう二度と現れることはないと思われます。
これは余談ですが、通算打率.319、504本塁打、319盗塁の記録を残している張本勲(東映、日本ハム、巨人、ロッテ)が、上記のトリプル・スリーを達成していないのは、球界七不思議の一つでしょう。しかし通算成績で“打率3割、300本塁打、300盗塁”を達成しているのは張本ただ一人なのですから、別格のスーパー・トリプル・スリーとして、記録に残すべきだと思います。
★第19問★
1試合最多安打の記録は、59年に大下(東急)が対太陽戦で記録した7打席7安打です。試合後にチーム・メートの祝福に応えて大下は、「何しろボールが3個、バットが3本あるんだ。振りさえすれば、どれか当たるよ」とコメントしましたが、さてその意味は?
▲▼答▼▲
豪快に遊ぶことで有名だった大下(東急)は、11月18日の晩もとある料亭でしっかりと飲んでいましたが、夜が更けるにつれて雨足がどんどん激しくなってきます。翌日の試合(当時はデーゲームが多く、この時の太陽戦も午後1時試合開始予定)は中止と判断した大下は、夜を徹してのドンチャン騒ぎを演じ、明るくなってからやっと眠りに就きました。
ところがふと目を覚まして見ると、雨どころか抜けるような青空が広がっているではありませんか。あわてて球場に駆け付けましたが、勿論まだベロンベロンでとても試合に出られる状態ではありません。仕方なくシャワールームに飛び込むと、11月だというのに冷たい水を頭から何杯も被ってグラウンドに出ましたが、打席に立つとボールが3個、バットが3本に見えます。
これでは持ち前の強打のふるいようもなく、やむなくミートだけの軽打に切り替えたところ、これがかえってよかったのか、おもしろいようにヒットが出て、気が付いた時には7打席7安打の大記録を達成していたのです。
事情を知っているだけにあきれ返っているナインに向かって、大下が平然としてうそぶいたのが冒頭のコメントというわけです。
★第20問★
1964年に王貞治(巨人)が対阪神戦で記録した1試合での4打席連続本塁打は、オールド・ファンならいまだに忘れられない大記録ですが、この試合の16塁打が1試合最多塁打記録と思ったら大間違い。それでは、これ以上の猛打を振るった選手とは、一体誰でしょうか。
▲▼答▼▲
1951年8月1日の対阪神戦で、岩本義行(松竹)は本塁打4,二塁打1の18塁打を放ち、これが1試合最多塁打の日本記録です。同じ年の9月18日には、蔭山和夫(南海)が本塁打2,三塁打3の17塁打を記録しています。2試合にまたがっての記録では、46年に後藤次男(阪神)の連続8打席での25塁打がありますが、それにしても皆さん実に良く打ったものですなぁ。
★第21問★
“野球はツーアウトから”とはよく聞く言葉ですが、それではツーアウト無走者から何点取ったのがプロ野球記録でしょうか。
▲▼答▼▲
1972年6月21日の対ヤクルト戦で、大洋の2回の攻撃は簡単に2死無走者となりましたが、ここで平凡な外野フライをポロリと落球したのがきっかけとなり、この後2四球を挟んで連続8安打、最後にとどめのホームランが飛び出して11点取ったのが最高記録です。
★第22問★
大逆転という言葉はありますが、実際問題として何点差までが逆転可能なのでしょうか。プロ野球70年の歴史上、最大の逆転劇を挙げて下さい。
▲▼答▼▲
10点差を逆転したのが最高で、過去に下の3例があります。
・1949.10.02 大映 109
000 000 10
太陽 000 003 431 11
・1951.05.19 松竹 000 011 353 13
太陽 034 113 000 12
・1997.08.24 ロッテ 550 000 000 000 10
近鉄 001 140 301 001X 11
・ なお大リーグでは、12点差からの逆転が2回記録されています。
9回裏の逆転に限れば、66年5月14日の対南海戦で阪急が、93年6月5日の対ダイエー戦で近鉄が、それぞれ7点取って逆転したのが最高記録です。
★第23問★
9回まで毎回得点という記録は意外に難しく、プロ野球史上まだ4回しかありません(8回まで毎回得点で、後攻のためにX勝ちとなったケースは2度あります)。その中でも1970年6月27日に行われた阪神対ヤクルト戦は、更にもう一つの記録が重なって記録マニアの間では珍重されていますが、さて、その理由は?
▲▼答▼▲
阪 神 241112111 14
ヤクルト 000000000 0
スコアをよく見て下さい。阪神は毎回得点、ヤクルトは毎回無得点なのです!
★第24問★
投手のシーズン最多勝の記録は、皆様ご存じの通りスタルヒン(1939年)、稲尾(61年)の二人が持つ42勝ですが、それではシーズン最多敗の記録は?
▲▼答▼▲
1940年に中山正嘉(金鯱)が記録した29敗(18勝)です。弱いチームのエースはどうしても負け数がかさむ傾向があり、400勝の金田正一(国鉄、巨人)も20敗以上6回という不滅の大記録を保持しています。
しかし最近では投手保護の立場から登板回数がめっきり減っているため、72年の東尾修(西鉄)の25敗(18勝)を最後に、20敗以上の記録は影を潜めました。それにしても、秋山登(大洋)がプロ入りした年(56年)にいきなり25勝25敗したことを思うと、昔の選手は心身ともに実にタフだったものですなぁ。
★第25問★
指名打者制度が定着したパ・リーグでは、交流試合以外には投手の打撃成績は存在しませんが、昔は投手として36本塁打(他に代打で2本塁打)した金田正一をはじめ、強打を振るった投手が結構いたものです。それにしても、投手としては規定投球回数以上を投げ、打者としても規定打数に達した猛者が3人もいたというのには、驚く他はありません。さて、この3人とは誰でしょうか。
▲▼答▼▲
プロ野球創成期の強打者景浦将(阪神)は、藤本定義氏や松木謙次郎氏といった球界の重鎮達が、口を揃えて『戦前随一の天才』と激賞する長距離打者で、短いプロ生活ながら、1936年春には打点王、同年秋には首位打者のタイトルを取っています。
その一方では、重いシュートを武器とする剛球投手でもあり、36年秋季には打者としては打率.275で38打点、投手としては6勝0敗、防御率0.79で最優秀防御率のタイトルを獲得しています。
景浦は翌37年春季にも、打者としては打率.289、47打点で打点王、投手としては11勝5敗、防御率0.93で沢村栄治(巨人)の0.81に次ぐ第2位という堂々たる成績を残しています。
この欄でも御馴染みの野口二郎(阪急)は、通算237勝をあげた大投手ですが、31試合連続安打記録が示すように強打者としても鳴らし、登板しない時には打力を買われて外野を守ることがよくありました。1946年には投手としては13勝14敗、防御率2.63で投手成績の第5位、打者としては.298で打撃成績の9位にはいっています。
呉昌征(阪神)は外野が本職ですが、強肩を買われてマウンドに上がることも多く、同じ46年に投手としては14勝6敗(ノーヒット・ノーラン1回を含む)、防御率3.02で投手成績の9位、打者としては.291を打って打撃成績14位の成績をあげています。
★第26問★
代打満塁逆転サヨナラホームランと言えば、野球の試合に於ける最大のスリリングな出来事として賞賛されています。今までに1956年に樋笠(巨人)、藤村(阪神)、71年に広野(巨人)、84年に柳原(近鉄)、88年に藤田(阪急)、01年に北川(近鉄)、02年に藤井康雄(オリックス)の7人が記録していますが、記録マニアの間では、北川の6号が出るまでは第1号の樋笠のそれこそが最高とされてきました。
さて、その理由は?
▲▼答▼▲
同じ“代打・満塁・逆転・サヨナラ本塁打”と言っても、藤村、柳原、藤田のそれは1点差、広野のそれは2点差の場面で飛び出したもので、本塁打でなくても逆転サヨナラは可能だったのです。それにひきかえ、樋笠の場合は0対3の3点差から打ったもので、本塁打以外では逆転サヨナラがないケースだっただけに、千金の値打ちがあるというものです。記録の神様と言われた故山内以九士氏は、特にこの本塁打に“代打・満塁・逆転・つり銭無し・サヨナラ本塁打”と名付けて、樋笠の偉業をたたえています。
しかし2001年9月26日のオリックス・近鉄戦で北川博敏(近鉄)の放った一発は、“代打・満塁・逆転・つり銭無し・サヨナラ本塁打”であったばかりではなく、これによって近鉄のリーグ優勝を決めた貴重なもので、更に値打ちが上と言えるでしょう。
なお、02年9月30日に藤井が対ロッテ戦で3−6から放った一発も、“代打・満塁・逆転・つり銭無し・サヨナラ本塁打”でした。
★第27問★
ホームランを打てば当然1得点が記録される筈ですが、何と8本塁打を打ちながら7得点しか記録しなかった選手がいます。どうしてでしょうか。
▲▼答▼▲
1969年5月18日の対阪急戦で、2回に登場したジムタイル(近鉄)は左翼スタンドに豪快なホームランを叩き込みましたが、一塁を回ったところで古傷の左足肉離れで転倒し、そのまま担架で病院に直行してしまいました。
やむなく伊勢孝夫選手が代走に出てダイヤモンドを一周しましたが、この場合、ホームランは打ったジムタイルに、得点はホームを踏んだ伊勢に記録されます。このため、この年ジムタイルはホームランを8本打ったのに、得点は7点という珍記録が残った訳です。
なおホームランが出ると味方の選手がベンチ前に並んで歓迎するのが通例ですが、代走のホームインでは気分が盛り上がらないのか、誰も出迎えに出ませんでした。これに発奮した伊勢選手は、8回に回ってきた打席で見事に決勝ホームランを放ち、今度は全員がホームまで飛び出して、手荒い祝福をしたそうです。
★第28問★
優勝するためにはカモのチームを作らなければならないとよく言われますが、それではプロ野球史上最高(最悪?)のカモにされたチームはどこでしょうか。
▲▼答▼▲
1955年に大洋が対中日戦で、67年にサンケイが対巨人戦でそれぞれ3勝23敗したのがカモの双璧です。ただし大洋は翌年にかけて対中日戦に26連敗し、同一カードの連敗記録を達成しているので、こちらの方が一枚上手と言うべきでしょうか。
試合数が異なるので比較はできませんが、50年には国鉄が対松竹戦に1勝18敗、55,56年には大映が対南海戦に2年連続して2勝18敗という驚異的な記録を残しています。野球という偶然性の高いゲームでのこの成績は、プロチーム同士の対戦とはとても信じられませんね。
★第29問★
プロ野球史上、最も短い姓名の選手は誰でしょうか。逆に最も長い選手は?
▲▼答▼▲
一番短いのは、呉波(ご・は)で姓名合わせて漢字も読みも2文字。一番長いのは赤根谷飛雄太郎(あかねや・ひゅうたろう)です。余談ですが1948年の急映にはこの赤根谷飛雄太郎の他にも一言多十(ひとこと・たじゅう)、熊耳武彦(くまがみ・たけひこ)と珍名選手が揃っていました。
★第30問★
桑田真澄(06年まで巨人在籍)がPL学園に在学当時、夏の甲子園に3年連続エースとして登場したのはご記憶の方も多いと思いますが、上には上があるもので、何と4年連続エースとして甲子園で投げた投手がいるのです。さて誰でしょう?
▲▼答▼▲
元祖ミスタータイガースの藤村富美男が、1932年から35年まで4年連続して呉港中学のエースとして甲子園のマウンドを踏み、35年夏にはみごと優勝しています。当時は高校がなく、中学が5年制だったのでこうした記録が可能だった訳ですが、それにしても他にこうした例はありません。現在の中学2年生に高校野球のエースが勤まるかと考えれば、藤村がいかに傑出した投手であったか、想像がつくと思います。
★第31問★
プロ野球名語録も数ある中で、私が一番好きなのは『月に向かって打て!』という言葉ですが、これは一体誰がどんな時に使った言葉でしょうか。
▲▼答▼▲
1965年、当時東映のコーチだった飯島滋弥がこの年入団してきた大杉勝男の長距離打者としての素質を見抜き、ホームランを打つ秘訣を教えるのに使った言葉です。
飯島(当時大映)は51年10月5日の対阪急戦で1回に満塁本塁打、7回に3ランと満塁本塁打を連発し、1試合に2満塁本塁打、1イニング7打点、1試合11打点という不滅の大記録を残した強打者ですが、現役の頃からオーバーな言動で知られ、日本オーバー会副会長(会長はもちろん長島茂雄)と呼ばれていた快男児。
この『月に向かって打て!』という言葉には、いかにも飯島らしい突拍子もない発想が溢れていて、凡百の打撃理論など吹き飛ばしてしまう豪快なスケールを感じさせるではありませんか。
この教えを守って月に向かって打ち続けた大杉は、通算486本というプロ野球史に残る本塁打を量産したのですから、まことにめでたい限りです。
☆附記☆
上記飯島の1試合2満塁本塁打、11打点は不滅の大記録と思われていましたが、06年4月30日の巨人・中日戦で、二岡智宏選手(巨人)は1回に2ラン、4回、5回に2打席連続の満塁本塁打を放ち、5回までに早くも1試合2満塁本塁打、10打点を挙げ、飯島の記録にあと一歩と迫る活躍を見せました。
そして7回裏に回ってきた第五打席ではまたもや、二死一、二塁の絶好機、ここで一発出れば飯島の11打点を凌ぐ13打点となるところでしたが、惜しくも四球で、大記録は夢と消えてしまいました。ピッチャーが、ここまで4打席3ホーマー、10打点の打者とあえて勝負をしなかったのは、分からないでもありません。しかしこの時点で、巨人15−2中日と勝負はもうとっくに決まっていたのですから、ここはプロらしく、力勝負をしてもらいたかったところです。
しかし2打席連続満塁本塁打はプロ野球史上初の快挙なので、ここは素直に二岡の大記録を祝福したいと思います。
★第32問★
1959年、東映にアレキサンダーという投手が入団し、名前にちなんで『大王』と呼ばれていましたが、名前負けしたのか2勝5敗の不成績のため1年でクビになってしまいました。このように、歴史上の有名人と同じ名前の選手は結構多いものです。思い付くままに挙げてみて下さい。
▲▼答▼▲
外人では、ハリス、カストロ、バチスタ、ジョンソン、ワシントン、ジャクソンなど。日本人では、伊藤博文(近鉄)、尾崎行雄(東映)、宮本賢治(国鉄)などがいます。
★第33問★
@9回2死までノーヒット・ノーランを続けながら、あと一人というところでヒットを打たれて大記録を逃すこと2年連続で2回。
A『毎回奪三振で完投しながら敗戦投手』、『2球で連続押し出し』の二つの記録を1試合で同時に達成。
B1試合5被本塁打のパ・リーグタイ記録を樹立。
C逆転満塁サヨナラホームランを打たれたのに、自責点0。
@〜Cのどれか一つをやっただけでも、プロ野球珍記録に名前を残すのは確実ですが、何と一人で全部やった投手がいるのです。さて、誰でしょう。
▲▼答▼▲
仁科時成投手(ロッテ)は、@を1983年8月20日,84年5月29日の対近鉄戦で、Aを85年4月17日の対近鉄戦で、Bを85年5月1日の対近鉄戦で、Cを85年6月16日の対阪急戦でそれぞれ達成しました。
(2球連続押し出しとは、満塁のピンチにまず四球、次打者の1球目に死球を与えたものです)
★第34問★
「一人では野球はできない。大切なのは、チーム・ワーク」とプロでもアマでも指導者はよく言いますが、1973年8月30日に行われた阪神対中日戦のヒーロー・インタビューで、江夏豊投手(阪神)は「野球なんか一人でできる」と広言し、しかもそれを聞いた阪神ナインは返す言葉もなく、ただうなだれるばかりだったといいます。さて、どんな試合だったのでしょうか。
▲▼答▼▲
この試合で、江夏豊投手は9回までノーヒット・ノーランに相手を封じていましたが、打線の援護がなく延長戦に突入。しかしその後も気落ちすること無く11回までノーヒット・ノーランを続ける一方、その裏に回ってきた打席で自らホームランを放って、劇的なサヨナラ勝ちをおさめたのです。これでは、江夏が「一人で勝った」と自慢するのも当然でしょう。
なお、延長戦でノーヒット・ノーランを達成したのは、この時の江夏ただ一人しかありません。
★第35問★
一つの試合で、一人のピッチャーが勝ち投手とセーブ投手の両方になったケースがただ一度だけあります。どうしたらこういう事態が起こるのか、考えてみて下さい。
▲▼答▼▲
1974年8月18日、日生球場で行われた近鉄対日本ハム戦でのこと。6回裏の近鉄の攻撃が2アウト一塁で打席にジョーンズを迎えたところで、日ハムの中西監督は先発の高橋直樹投手を三塁に回し、投手に中原を起用。
高橋がジョーンズに弱いところから取ったこの作戦が図に当たって、中原はジョーンズを討ち取ってこの回を無失点に切り抜けました。そこで7回からは高橋が再びマウンドに戻って最後まで投げ切ったので、先発投手としては勝ち投手、リリーフ投手としてはセーブ投手になったのです。
しかしこの後、自分で自分をリリーフしたのにセーブが付くのはおかしいとしてルールが改訂されたため、勝ち投手とセーブ投手を兼ねたケースは、この時の高橋がただ一度の記録になりました。
★第36問★
「1イニングに二人連続して併殺打? それじゃ4アウトになってしまうじゃないか!」とお思いでしょうが、でもプロ野球史上に3度も、現実にそうした珍事が起きたことがあるのです。さて、そのいきさつは?
▲▼答▼▲
1962年8月1日、東映対南海戦でのこと。1回裏に南海は無死満塁と攻め立てましたが、ここで5番ハドリはセカンド・ゴロ、ボールは4−6−3と回って当然併殺が成立するところを、一塁手の吉田勝豊がボールを後逸。ハドリは一塁に生きましたが、エラーが無ければ当然併殺が成立したと判断されるこうしたケースでは、野球規則により吉田にエラー、ハドリには併殺打が記録されます。
ところがこの直後に次打者の井上登がまたセカンド・ゴロ、今度は確実に4−6−3のダブル・プレーが行われたため、井上にも併殺打が記録されました。
こうして、1イニングに二人続けての併殺打という珍記録が成立したのです。
歴史は繰り返すといいますが、1964年6月7日、ナゴヤ球場で行われた中日対大洋戦で、まったく同じシーンが再現されました。中日は2回裏、無死で一塁に走者を置いて葛城がセカンド・ゴロ、ボールは4−6−3と回って当然併殺が成立するところを、一塁手の近藤和彦がポロリと落球。葛城は一塁に生きましたが、これも前のケースと同じく、近藤にエラー、葛城には併殺打が記録されました。
ところがこの直後に次打者のアスプロモンテがこれもセカンド・ゴロ、今度は確実に4−6−3のダブル・プレーが行われたため、アスプロモンテにも併殺打が記録されました。
珍記録に花を添えるように、2回とも、2つのセカンド・ゴロに一塁手のエラーが絡むというまったく同じパターンでした。
なお中日は89年6月20日の対広島戦で、仁村がキャッチャー前のゴロで併殺になるところを、一塁にカバーに入った二塁手のエラーに救われた後、小松崎の三塁ゴロで併殺され、1イニングに2併殺打の新しいパターンを開拓しています。
★第37問★
『円城寺 あれがボールか 秋の空』(詠み人知らず)
これはプロ野球史上最高の名句といわれる俳句(?)ですが、これが生まれた背景をご存じですか。
▲▼答▼▲
1961年の巨人対南海の日本シリーズ第4戦は、巨人の2勝1敗の後を受けて10月29日に後楽園で行われました。南海4−3巨人で迎えた9回裏、巨人は2死満塁のチャンスを掴みましたが、打者宮本は力投するスタンカ投手にたちまちカウント2−1と追い込まれてしまいます。
そして運命の4球目、スタンカは外角低目に決め球のフォークボールを投げ込みましたが、判定はボール。激昂したスンカはマウンドをかけ降りて主審の円城寺に詰め寄り、球場内が騒然とする中で、3分後にようやく試合が再開しました。そして次の5球目を宮本はライト前に痛打し、三塁ランナー国松に続いて二塁ランナーの藤尾までがホームを踏み、南海は土壇場で逆転サヨナラ負けを喫してしまったのです。
この時、スタンカは捕手野村のカバーに入ると見せかけて、198センチ、98キロの巨体で円城寺に体当たりをかませ、そのために円城寺は引っくり返って秋空を見上げたまま、藤尾のホームインにセーフの判定をするという珍事になりました。
この試合を見ていた関係者の間では、問題の4球目はストライク説が強く、テレビの解説をしていた金田正一投手(当時国鉄)などは、「あの判定は、セの一員として恥ずかしい」とまでコメントしています。
2勝2敗の筈が一転して1勝3敗となった南海のショックは大きく、結局この判定がこのシリーズの帰趨を左右する結果となってしまいました。
現在ヒューストンで刺繍工場を営むスタンカの家の居間には、日本のファンから送られた色紙が飾られており、それには冒頭の『円城寺 あれがボールか 秋の空』の句が書かれているそうです。俳句としての出来はともかく、『円城寺、お前なんかに審判の資格があるものか、引っくり返って空でも見ていろ!』というスタンカの無念の気持が、痛いほどに感じ取れるではありませんか。
一方の円城寺は、『審判は自分が下したジャッジに対して、一切弁解すべきではない』という信念から、この判定について一度も言及することはありませんでした。しかし22年後の83年7月12日、肺癌のために死の床に就いた時、意識が朦朧としたなかで最後に「ボールだ、ボールだ!」と二度叫んでから、息を引き取ったということです。
★第38問★
ペナントレースでは、6ゲーム、7ケームの差がつくと、もう逆転は不可能などと思い勝ちですが、プロ野球史上、10ゲーム以上の差をひっくり返した大逆転劇が3回もあるのです。しかもそのうちの2回は、同じチームが同じチームを相手に逆転したのですから、まさに因縁の対決というべきでしょう。
それでは、その大逆転劇の主役とは?
▲▼答▼▲
1963年7月10日の時点で、西鉄は首位南海に14.5ケーム差の4位でしたが、残る65試合でこの大差をはね返し、見事に優勝しています。
これに次ぐものとしては、58年に同じ西鉄が南海につけられた11ゲームを逆転した例があります。
それにしても、54年から63年にかけての西鉄、南海の対決は、他チームを全く寄せ付けない強さの一騎打ちという点で、すさまじい迫力がありましたね。
最近の例では、96年に巨人が中日に11.5ゲームの差をつけられていたのをひっくり返し、長島監督の『メイク・ミラクル』の言葉が有名になったのは、まだ記憶に新しいところでしょう。
★第39問★
プロ野球の連勝記録は?
▲▼答▼▲
63年に南海が、70年に大毎が18連勝したのが最高です。特に南海の場合は、18連勝−西鉄に1敗−8連勝をしているので、西鉄に勝っていれば27連勝の大記録が達成できていたところでした。しかもこの年、南海は西鉄に0.5ゲーム差で優勝をさらわれているのですから、かえすがえすも惜しい1敗でした。
なおメジャー・リーグでは、ニューヨーク・ジャイアンツが1916年9月に26連勝した記録があります。この年のジャイアンツは5月にも17連勝を記録していますが、ペナントレースが終わってみれば、首位に7ゲーム差の4位だったというのですから、驚く他はありませんね。
★第40問★
プロ野球の記録を調べていると、打者に比べて投手はかわいそうだなと思うことがよくあります。投手がどんなによく投げても、味方が点を取ってくれなければ、勝ち投手にはなれないからです。
それでは、プロ野球史上最悪の無駄働きをさせられたピッチャーは誰でしょうか。
▲▼答▼▲
54年10月10日に行われた近鉄・東映戦で、東映のエース米川泰夫は22回までに265球投げて無失点という超人的な好投をしましたが、味方が点を取ってくれないままさらに次の回に入ったところで、見かねて投手を交代させたところ、あっけなくさよなら負けを喫してしまいました。
22回を無失点ならば、普通なら3勝は固いところですから、それが負け試合(米川が負け投手ではありませんが)とあっては、米川投手の胸中は察するに余りあるというものです。
なおこの試合の延長23回は、第12問で紹介した大洋対名古屋の延長28回に次ぐもので、パ・リーグ記録となっています。
★第41問★
前回は米川投手(東映)が22回を無失点に抑えながら、勝利投手になれなかったケースを取り上げましたが、それでは最長イニングを投げたシャットアウトの記録は、何回でしょうか。
▲▼答▼▲
42年4月12日の阪急・大洋戦で、阪急の笠松実が19回を投げ抜いて1−0で勝ったのが、シャットアウトの最長イニング記録です。
それにしても、19回裏に味方が1点を取ってくれた笠松は、シャットアウトの最長イニング記録としてレコードブックに名前を残したのに、米川はそれを上回る22回を無失点に抑えながら、味方が点をとってくれなかったばかりに、何の記録にもならないというのは、あまりに気の毒に思われます。
★第42問★
第7問で、阪神の上田二朗投手が1回無死一塁三塁のピンチにリリーフし、以後を無失点に抑えてリリーフによるシャットアウトを記録したと書きました。この時の上田投手はリリーフながら27アウト、つまり9回を投げきったわけで、これがリリーフの最長記録だろうと思ったら大間違い。
それでは、リリーフの最長記録は何回でしょうか?
▲▼答▼▲
52年9月7日に行われた松竹・大洋戦は延長20回を戦い抜いて、2−1で松竹が勝ちを収めました。この試合で、松竹の片山博投手は1回無死満塁の場面でリリーフに立ち、このピンチを1点に抑えると(自責点は先発の鈴木に付く)、以後20回まで無失点で切り抜け、勝ち投手になりました。
この20回がリリーフの最長記録ですが、その間に自責点0というのが、記録に一層の箔をつけています。
なお現在では延長戦の回数に制限があるので、この片山の記録は永遠に不滅ということになります。
★第43問★
第14問で、阪急がノーヒットで南海に勝った試合を紹介しましたが、このようにヒットをたくさん打ったほうが勝つとは限らないのが、野球の面白さでしょう。
しかしそれにしても、全員安打で完封負けとなると、ちょっと首を傾げてしまうのではないでしょうか。
▲▼答▼▲
『全員安打で完封負け』したのは、93年5月29日、対西武戦での日本ハムです。西武の郭泰源投手から全員安打の10安打を奪いながら、決定打を欠いてシャットアウトされてしまいました。
これに類する珍記録を、いくつか書き並べてみましょう。
『毎回安打で完封負け』したのは、47年3月16日、対阪神戦の東急と、88年8月3日、対中日戦の大洋です。阪神の場合は二人の投手による完封でしたが、中日の米村明投手は先発完投だったので、『毎回安打を打たれながらシャットアウトしたただ1人の投手』として、球史に名前を刻みました。
『17走者を出して完封負け』したのは、39年4月19日、対ライオン戦での南海です。
『13安打で完封負け』したのは、89年8月4日、対大洋戦の巨人で、かつての僚友・新浦寿夫投手の粘り強い投球に手を焼き、再三のチャンスを潰しているうちに、はっと気が付けばシャットアウトされていました。
なお81年の日本シリーズの第3戦で、巨人の西本聖投手が日本ハムを相手に、同じ『13安打を打たれながらシャットアウト勝ち』を収めています。これなどは、打たれ強い西本の面目躍如といった記録でしょう。
『13安打が2安打に負けた』のは、46年8月11日、近畿グレートリング4−2阪急の試合です。試合巧者のグレートリングは、少ない安打に相手のエラー、バント、盗塁を絡めて4点をもぎ取りましたが、阪急は6度も得点圏に走者を出しながら、拙攻を重ねて僅かに2点、一方的に押し捲っていた阪急が負けるという結果になりました。
★第44問★
日本プロ野球界のホームラン王といえば、もちろん王貞治(巨人)ですが、それでは三振王は?
▲▼答▼▲
秋山幸二(西武、ダイエー)の持つ1,712個の日本記録を、04年になって清原和博(西武、巨人)が追いつき、08年に引退するまでに1955個まで伸ばしましたが、この二人の記録はいずれも2,100試合以上かかって達成したもの。
これに対してブライアント(近鉄)は1,186個を僅か773試合で達成したもので、彼こそが真の三振王と呼ばれるにふさわしいでしょう。
東京ドームの天井のメイン・スピーカーにぶつけて、特別ルールでホームランと認定された一打(これがなかった場合の推定飛距離は、170m。このスピーカーは打球の到達は不可能と考えられた高さに設置されており、その後スピーカーのメーカーから、このスピーカーにぶつけた選手に300万円の賞金を贈呈すると発表されました。しかし、その後現在に至るまで、このスピーカーを直撃した打者は出ていません)を見ても分かるように、彼の打撃の特徴は超人的な長打力にあり、当たれば場外、当たらなければ三振というまことに豪快なものでした。
89年、93年、94年と3度もホームラン王になっていますから、ホームランバッターとしても超一流でしたが、その反面三振の多いことも桁外れで、両リーグにまたがる歴代のシーズン三振記録のうち、1位204個(93年)、2位198個(90年)、3位187個(89年)、4位176個(92年)までを、ブライアントが独占しています。
シーズンの打席数は普通500前後ですから、彼の三振率は実に4割に近いわけで、全く他の追随を許さない迫力がありました。
しかし、彼の場合は三振しても罵声を浴びせられるどころか、思い切りのよいスィングが空を切る度に、スタンドから大きなどよめきが起きた程で、ファンに愛された点から見ても、彼にこそ三振王の称号を贈りたいと思います。
04年7月31日に行われたプロ野球OB戦・モルツ対ワールドパワーズに登場したブライアントは、村田兆治投手が力一杯に投げ込むストレートを右中間スタンド中段に叩き込んで、往年のパワーの健在振りを見せてくれました。
54歳にして138キロの直球を投げる村田兆治、それを軽々とスタンドに放り込むブライアント、いずれ劣らぬ見事な千両役者ぶりでしたね。
★第45問★
連続安打の最高記録は、レイノルズ(大洋)が91年に記録した11打席連続ですが、それでは連続三振の記録は?
▲▼答▼▲
これもお馴染みのブライアント(近鉄)が、90年8月21日の西武戦の第1打席から26日のオリックス戦の第2打席にかけて、4四球を挟んで14打席連続三振したのが最多記録です。
しかし14打席三振後の第3打席、酒井投手の投球を強振すると、打球は西宮球場のバックスクリーンを越えて場外に飛び出す、桁外れの大ホームランとなりました。
14打席連続三振もいかにもブライアントらしい大記録ですが、これを断ち切ったのが決勝場外ホーマーというあたり、ブライアントの面目躍如といったところですね。
★第46問★
三振の記録が続いたところで、もう一つ。
連続試合三振記録を持っているのは誰でしょうか。
▲▼答▼▲
誰もがもちろんブライアントと思うでしょうが、正解は79年にスタントン(阪神)が記録した34試合なのです。さすがのブライアントも、そこまでは行かなかったのだと思ったら大間違い、それには深いわけがあるのですよ。
90年のブライアントの三振の多さには目を見張るものがあり、8月21日に当時のパ・リーグ記録・22試合連続を簡単に更新した後、さらに伸びて8月29日には31試合に達しました。たまりかねた仰木監督は次の試合はブライアントをスタメンから外し、7回にビンチヒッターとして起用したところが内野安打を打ったので、急いで彼をベンチに下げたために、記録は31試合にとどまったのです。
しかし、こんなことでブライアントの三振が止まるわけがありません。次の8月31日の西武戦から10月13日のダイエー戦まで、今度は21試合の連続三振記録を積み上げました。
仰木監督の温情がなければ、実に53試合連続三振の驚異的な大記録が達成されたのは間違いありません。どうせならば、ブライアントの名前を不朽のものにするためにも、いっそ下手な小細工などせずに、思う存分三振させてやりたかったと思うのは、私だけでしょうか。
★第47問★
日本シリーズは、当然セ、パ両リーグに分かれた1950年に始まったと思ったら大間違い。プロ野球が発足した36年には早くも第1回の日本選手権試合が行われています。この年は現在のようなリーグ戦ではなく、1つの球場に全チームが集まってトーナメント式の大会をいくつか行い、単独首位には1点、同率首位には0.5点のポイントを与えるという方式でしたが、シーズンが終わってみると巨人、阪神が2.5点で同ポイントのトップになりました。
そこでどちらが真の日本一かを決めるために、急遽当時東京・向島にあった洲崎球場で決定戦が行われたのです。この初の日本選手権は、先に2勝した方が勝ちという方式でしたが、伝説の名投手・沢村栄治の3連投によって、巨人が2勝1敗で優勝しています。
37年、38年は春、秋の2シーズン制のリーグ戦が行われましたが、いずれも巨人、阪神が春、秋の優勝を分けたために、どちらかが4勝するまで戦うという現在と同じスタイルで日本選手権が行われ、2回とも阪神が優勝しました。
39年からは1シーズン制となったために、日本シリーズは無くなり、50年のセ、パ分裂によって復活したというわけです。
従って日本シリーズは第1回を除いては、すべてどちらかが4勝するまで戦うという方式で行われてきています。従って最短では4試合、最長でも7試合と思いがちですが、史上ただ1度だけ、第8試合までもつれ込んだことがあります。
86年の西武―広島の日本シリーズは、第1戦が引き分けのあと広島が3連勝し、もう1つ勝てば優勝が決まるところまできました。ところがここから西武が4連勝して、大逆転に成功したのです。
8試合戦ったのはこの時ただ1度とあって、8試合にまたがる記録は全てこの時のものですが、中でも貴重なのは、8試合連続安打と8試合連続三振の2つでしょう。
それでは、その2つの記録を作ったのは、それぞれ誰でしょうか。
▲▼答▼▲
8試合連続安打は石毛宏典(西武)、8試合連続三振は衣笠祥雄(広島)です。巧打者の石毛、常にフルスイングの衣笠、いずれも面目躍如といった顔ぶれでしょう。それにしても、第8戦までいったのは57回の歴史の中でこの1回だけなのですから、これらの記録はタイ記録すら難しく、まして更新することなどほとんど考えられません。
今話題になっている1リーグへの移行が現実のものになれば、日本シリーズそのものが消滅してしまう可能性もあり、そうなれば石毛、衣笠の記録も永遠に不滅ということになります。
なお石毛選手はこの前後の年の日本シリーズでも安打を打ち続け、85年の第5戦から88年の第1戦まで、実に17試合連続安打の日本記録を作っています。
★第48問★
終身打率(4,000打数以上)のトップはリー(ロッテ)の.320ですが、この4,000打数以上という規定を外すと、もっと高い打率を残した選手が何人もいます。
では、その中でも最高の打率を残した選手は誰でしょうか。
▲▼答▼▲
7年連続首位打者で通算打率.353のイチローに決まっているとお思いでしょうが、実は塩瀬盛道(東急)が残した1.000なのです。
50年5月11日の対大映戦で、0−18の敗戦処理投手として登板した塩瀬は、6回表2死でプロ入りしての初打席で何とホームランを打ちました。ところが6回裏には2失点、7回裏にも無死満塁のピンチを招き、あえなく降板。以後は1度も公式戦のマウンドを踏むことなく球界を去りました。
その結果、塩瀬は打者としては、1打数1安打、1本塁打、4塁打、打率10割、長打率40割という驚異の記録をレコードブックに刻んでいるのです。
★第49問★
サイクル・ヒットといえば、もちろん1試合で安打、2塁打、3塁打、本塁打のすべてを打つことですが、ご丁寧にもさらに内野安打を加えて5種類のヒットを打ち分けた選手が3人もいるのです。
さて、誰でしょうか。
▲▼答▼▲
48年に藤村富美男(阪神)、80年に平野光泰(近鉄)、82年に松永浩美(阪急)が達成しています。なお藤村は50年に、松永は91年に通常のサイクル・ヒットも記録しており、この2人だけが2度のサイクル・ヒットの達成者となっています。
★第50問★
プロ野球では個人記録も大事ですが、時として記録のための小細工が目に付くのは、まことに興ざめなものです。
たとえば最多連続無四球の記録は長らく白木儀一郎(セネタース)の74イニングでしたが、白木は40イニングを越えるあたりから記録を意識して、1、2球目から好球を投げ込んで打たせるようになり、1球目で19安打、2球目で43安打も打たれる始末で、記録を全く価値のないものにしてしまいました。
この記録を更新したのは73年の安田猛(ヤクルト)の81イニングですが、この記録はその終わり方によって、さらに高い評価を受けることになりました。
さて、その連続記録に終止符を打った四球とは?
▲▼答▼▲
73年9月9日の対阪神戦、2−2に追いつかれた9回裏2死2塁のピンチに4番の田淵を迎え、ベンチから敬遠のサインが出て、安田はためらうことなく自ら記録を捨てて四球を出したのです。チームの勝利あってこその個人記録なのですから、この時の安田の潔い態度は、まさに賞賛に値するといってよいでしょう。
★第51問★
現在のピッチャーはめっきりコントロールがよくなって、四球で自滅するようなケースは少なくなりました。しかし昔は球はめちゃくちゃに速いが全くのノーコンで、三振の山を築くかと思えば四球の走者で塁を埋めるという、独り相撲を取るピッチャーがよくいたものです。
それでは、この『三振か四球か』タイプの元祖であり、しかもいまだに並ぶものもいない怪投手は誰でしよう。
▲▼答▼▲
亀田忠は、1938年にイーグルスに入団したハワイ出身の二世選手ですが、剛速球と落差の大きいカーブは、容易にヒットを許さない球威があって、ばったばったと三振の山を築きました。しかし一方ではノーコンも極意を極めていて、何しろ日本の与四死球記録の1位から3位までを独占している程です。
論より証拠、在籍期間は正味3年しかないのに、38年には268個、40年には296個の三振を奪って奪三振王、かたや四死球の方は38年に271個、39年に283個、40年に282個で三年連続の与四死球王なのですから、この実績は並大抵のものではありません。
40年の296個の奪三振は1リーグ時代の最高記録、40年の283個の与四死球にいたっては、いまだに破られていない日本プロ野球記録なのですから、そのレベルの高さが分かっていただけると思います。
本来なら亀田はさらなる大記録を作る筈でしたが、日米間の状況の悪化から、アメリカ国籍の選手に帰国命令が出て、41年6月(日米開戦の6ヶ月前)にハワイへ帰ってしまったのは、返す返すも残念でした。
なお37年のプロ野球は春、秋の2シーズン制で、沢村栄治(巨人)は春に196個、秋に129個の三振を奪っています。この合計325奪三振が、実質的には1リーグ時代の最高記録と見るべきでしょう。
★第52問★
通算最多勝はもちろん金田正一投手(国鉄、巨人)の400勝ですが、それでは通算最多敗は?
▲▼答▼▲
やはり金田の298敗がレコードです。しかし、そりゃ400勝もする間には298敗くらいは仕方ないよなと、軽く片付けてはいけません。
金田は1950年に高校を中退して国鉄に入団し、翌51年から14年連続20勝という不滅の金字塔を打ち立てますが、この当時の国鉄は極め付きの弱いチームでした。
何しろ金田が14年連続20勝している間のチーム成績は、3位1回、4位5回、5位5回、最下位3回というBクラスの常連で、金田の初登板から退団までにわずか744勝しか勝ち星がありません。この間の金田の成績は353勝267敗ですから、金田はチームの勝ち星の実に47%を1人で稼いでいたことになります。
14年3ヶ月にわたって、1人の投手がチームの勝ち星のほぼ半分を稼ぐなどということが、今のプロ野球で想像できるでしょうか。
そんな弱いチームにあって、金田が353勝を挙げたのはもちろん彼の超人的な実力の賜物ですが、267敗の方は、打線の援護ができなかったチームに大きな責任があります。
その証拠に、完投して負けた試合の中に、0−1が21回、0−2が9回、1−2が17回もあります。自責点で見ても、0点が13試合、1点が63試合、2点が62試合と、負け試合の実に46%が2点以下なのです。
こうしてみると、金田がもしAクラスの常連チームに所属していたならば、彼の通算成績は460勝238敗程度になっていたのは、まず間違いの無いところでしょう。
余談になりますが、私にとって最大の幸福は、58年の開幕試合の巨人・国鉄戦で、あの長嶋茂雄が金田の前に4打席連続三振という屈辱のデビューをした場面を、テレビ観戦ながら、リアル・タイムで見られたことです。
押しも押されもしないプロの第一人者が、学生野球きってのスラッガーにプロの実力を見せてやるという気迫をこめて全力投球すれば、一方の長島もまったく臆するところなく正面から立ち向かいました。結果は金田の圧勝でしたが、他のバッター達が金田の球速に恐れをなしてバットを短く持って当てに行くのに対し、バットを長く持って全打席とも渾身の空振りで三振をする長島の姿には、観客のどよめきを誘う程の迫力があり、まさに大スターの誕生を予感させる名場面でした。
★第53問★
04年のシーズンの初めから岩隈久志投手(近鉄)が無傷の連勝を続け、どこまで続くかが大きな話題になりました。岩隈投手は結局12勝で土が付いてしましましたが、それでは開幕以来の連勝記録はいくつでしようか。
▲▼答▼▲
81年に間柴茂有投手(日本ハム)が達成した15連勝が、プロ野球記録です。しかもこの記録は開幕から閉幕まで掛けて作られたので、シーズンを15勝無敗で終えたことになり、年間勝率10割というセ・パを通じて唯一の偉業を成し遂げています。
(1リーグ時代のシーズン勝率10割ならば、年間2季制だった36年秋に景浦将(阪神)の6勝0敗、37年秋に御園崇男(阪神)の11勝0敗、42年シーズン途中入団の藤本英雄(巨人)の10勝0敗などがあります)
ただし、間柴投手の15勝の内訳を見ると、2位の阪急、3位のロッテ、4位の西武からは各1勝、5位の南海、6位の近鉄から12勝と下位球団から荒稼ぎしており、記録の中身が薄い印象は免れません。
2005年には、斎藤和巳投手(ソフトバンク)が開幕から14連勝して記録更新の期待が掛けられましたが、9月7日の対オリックス戦で敗れ、大記録は夢と消えました。斎藤はその後も2連勝し、結局16勝1敗でシーズンを終えているので、返す返すも惜しい1敗でした。
本当の価値という意味では、59年の杉浦忠(南海)の38勝4敗こそが、最高の記録といえるのではないでしようか。この年の杉浦は、2位大毎に7勝2敗、3位東映に7勝無敗、4位西鉄に7勝1敗、5位阪急に9勝無敗、6位近鉄に8勝1敗と万遍なく勝ち星を挙げて、南海に優勝をもたらしています。
何しろ杉浦はこのシーズン、勝数、防御率、勝率、奪三振、完封勝利の投手成績全部門で首位を独占したのですから、まさに超人的な活躍というべきでしょう。
またこの年の日本シリーズでも、4連投で4勝を挙げ、見事日本一に輝いています。
ところで、当時杉浦とバッテリーを組んでいた野村克也捕手は、こんな興味深い裏話をしています。
杉浦はまことにプレート・マナーがよい選手で、審判のジャッジに文句をつけることなど1度もありませんでした。そのうえ知的で温和な風貌をしていたことから、常に球界きっての紳士と呼ばれていました。
ところが野村に言わせると、杉浦はおとなしそうな外見とは裏腹に人一倍気が強く、野村のサインに首を横に振ることがしばしばあったのだそうです。野村はピッチャーがサインに従わないのを極端に嫌う人で、彼に言わせると、
「若いピッチャーは、勝負どころになると自分が1番自信を持っている球を投げたがる。しかしベテランのバッターになると、そんなピッチャーの心理はとうにお見通しで、その球に的を絞って待ち構えているんだ。だから俺がその裏をかいて別の球種を要求しているのに、そこでピッチャーに逆らわれては、全てがぶち壊しじゃないか」
ということになるのです。
そこで杉浦が頷かなくても、野村はまた同じサインを出します。するとまた、杉浦は首を横に振ります。野村も意地になってまた同じサインを続けると、やがて杉浦は微笑して頷きます。
『やっと納得してくれたか』と野村が安心した次の瞬間、杉浦は野村のサインとは全く関係無しに、自分の投げたい球を投げ込んできたというのです。
「その球が打たれるんだよ。負けた4試合は、全てがそれが原因なんだ。惜しかったよ、杉浦が俺のサイン通りに投げてさえいれば、あの年は42勝無敗だったんだ」
杉浦に野村のサインに逆らう程の気の強さがあったからこそ、38勝もできたのだと私は思うのですが、さて、皆さんのご感想はいかがでしょうか。
★第54問★
先発投手が先頭打者から連続27人をアウトにすれば、当然完全試合を達成したと思うでしょうが、9回終了まで1人の走者も出さなかったのに、気の毒にも参考記録にされてしまった投手がいます。誰でしょうか。
▲▼答▼▲
2005年8月27日の西武対楽天戦で、西口文也投手(西武)は9回終了まで1人も走者を出さない完全試合ペースでしたが、味方の打線の援護がなく、延長戦に突入。10回の先頭打者・沖原にピットを打たれてしまい、結局記録は1安打完封にとどまりました。
第40問で、米川投手(東映)が22回を0点に抑えながら、シャットアウトどころか勝ち投手にもなれなかったケースを紹介しましたが、今回のケースもピッチャーには何の責任も無いのに大記録が達成できなかったのですから、何らかの救済処置がほしいところです。
それにしても、西口投手のファンならば、彼が28人目の打者にヒットを打たれた時、『魔の28』という言葉を思い浮かべたのに違いありません。
『魔の28』と西口投手の最初の出会いは、96年9月22日の対近鉄戦で、先頭打者・水口栄二にヒットを打たれた後、連続27人を凡退させて完封勝ちした試合です。結局対戦した打者は28人で終わったわけですが、2人目からは完全試合だったのですから、返す返すも痛い水口のヒットでした。
02年8月26日の対ロッテ戦では、9回2死まで1四球のみのノーヒット・ノーランを続けていましたが、28人目の打者・小阪誠にヒットを打たれ、あと1死のところで大記録を逃してしまいました。
そして05年5月13日の対巨人の交流戦では、またしても9回2死まで1死球のみのノーヒット・ノーランを続けていましたが、28人目の清水に右越え本塁打を打たれてしまい、ノーヒット・ノーランどころか、完封まで逃しているのです。
こうして西口投手は完全試合2回、ノーヒット・ノーラン2回をあと一歩のところで達成しそこなっているのですが、逆に言えばこんなことは余程の実力が無ければ考えられないこと、盛大な拍手を贈ってあげたいものです。