武田勝頼

武田勝頼

まだ甲斐・信濃を攻略していないにもかかわらず、いろいろな所で名前を見かけます。
長篠に「逆桑」という木があり、「怪力・大男の武将が、大地に刀を突き刺したところ、そこから生えた桑は全て葉が逆さに生えるようになった。武将は勝頼だった」 という言い伝えがあることから、新田次郎の書く「色白で病弱な感のある若者」とは違うかもしれません。

足助・武節攻めにあたって、城を落すだけで甲斐へ帰ってしまったことから家臣の心が離れたとも聞きます。

事実、牧の原(諏訪原)城を見ると川向こうの敵地にポツンと城を作らせたりするところを考えるとやっぱり家臣のことを考えていなかったのかな・・・と思います。 だって川ったって有数の交通の難所「大井川」ですぜ。
しかも、縄張り(設計)は宿老馬場美濃守信房。
設計ったって現地に行かなくちゃ作れないでしょう。

今で言えば創業者の跡を継いだ二代目社長が、オヤジとともに苦労した高齢の副社長に
「今度紛争地に工場建てるから行ってきて。応援はできないけど頑張ってね」
と命令するようなもんでしょう。
馬場はどう思ったでしょう。
ましてや、「そこを守れ」と言われた家臣は捨てられたと思ったでしょうね。

高天神城を見たときは
「なんでこんな城に拘ったのかな」
というのが感想。

史跡の項にも書きましたが、本当に海っぺりで本街道から離れている。
徳川勢と雌雄を決するなら青崩れ峠を越えて天竜川沿いに浜松を攻めるルート(信玄の上洛戦と同じルート)をとればいいし、
遠州を獲りたいなら、駿河から牧の原に出て・掛川・久野と本街道沿いに陥としていけば、高天神はいずれ降らざるを得ない位置にある。
高天神は結構な山城ですから、攻めるなら平山城の掛川の方が簡単そう。
位置的にいって高天神と掛川は唇歯の間柄ですから、無理に堅城を攻める必要があったのでしょうか。
(あるいは、城主の器―掛川は宿老石川家成・高天神は東三河の菅沼氏―、戦力に差があったのかもしれませんが・・・)
掛川を落せば、高天神への補給は小笠山越えの馬伏塚城と横須賀城からのみ。
久野城まで落せば前記両城も立ち枯れしてしまうでしょう。

やはり、かつて父信玄が駿河から遠州をうかがった際に落せなかった城を自分が落としたという(その頃とは状況が違う。東から遠州を窺うには高天神の位置は戦略的価値あり)子供っぽい自負心の顕れだったのでしょうか。

信玄には信濃併合とか、駿河を取って領土を拡げるという目的、晩年には上洛というビジョンがあってそれに沿った戦をしたと思いますが、勝頼は意地とか見栄で戦をした、いわば点の戦しかしなかったという謗りは免れないような気がします。