能力と努力

 最近私が読んだ発達心理学の本に以下のような記述がありました。

<抜粋文>
「大人はよい結果をだすために、努力するのは能力が低いから、努力しないのは能力が高いからと考える。このように、能力と努力は反対の関係にあると考える。しかし、幼い子供の場合、大人と考え方が違う。子供は、能力が高いから努力できると考えるのである」

 では、私は幼い子供ですね。私も能力が高いからこそ努力ができると考えています。多分上の文章は、現状レベルでの話をしたかっただけでしょうが、文面からでも、作者たちが根本的問題として、能力と努力は反対の関係であると思っていることが読み取れます。

現状レベルでの努力と能力
 現状レベルで考えれば、これは間違いではないでしょう。今、課題を達成するために必要な数値を100とします。AとBの二人がいるとして、Aの能力を80、Bの能力を40とします。努力で足りない分を補えることを前提をしますと、それぞれ20、と60の努力が必要となります。

目標とする数値 現在の能力 必要な努力
A君 100 80 20
B君 100 40 60


 確かにこれを見ると、能力の低いB君の方がたくさん努力が必要です。しかしこれは、努力した分だけ能力を補えることが前提となっています。

努力とは何か?
 まずは努力の定義について、考える必要があると思います。多くの人が、主観的努力(イメージ)と、客観的努力(定義)についての分化ができていないと考えるからです。

●主観的努力
・きついこと
・したくないこと
・レベルの低い人が行うもの
・なんか暗い
・他に趣味がない人が行うもの
・自分の意志を持たない人が行うこと
・嫌なことを強制されること
・なんか一生懸命だ(鉄拳風に)

●客観的努力
・反復すること
・工夫すること
・分析・研究すること
・継続させること
・能力を高めること
・知識を増やすこと

 だいたいこんな感じでしょうか? 主観的努力の方を見てみますと、どうも勉強のイメージが強いように思われます。まあ、仕方のないことですね。

楽しみながらやる努力
 努力とは主観的努力の方だと考えている人は、楽しみながらする努力は、その時点で努力ではないと考えるみたいです。
例えば、ブランド品が大好きで、毎日ブランド雑誌を見ることが日課になっている女性がいるとします。その行為自体は努力ではないのでしょうか? この行為を上の客観的努力に当てはめてみます。

・反復する・・・基本的に一度しか読まないことはなく、似たような雑誌を読む機会も多い。
・工夫する・・・より良い雑誌を探したり、調べたりする。
・分析・研究する・・・どういうのがはやりか、自分に似合うかを考える。
・継続させる・・・毎日時間を作って見ている。
・知識を増やす・・・まあ、雑誌だし。

 このように客観的努力にほとんど当てはまります。もう少し否定的に割り振ってみても、結構当てはまると思います。しかし、これは主観的努力に当てはまるでしょうか? 
他にもカラオケによく行く、暇なときにスポーツをする、本を好んで読む、毎日ゲームをするなども努力行為です。すなわち、好きでやっていることのほとんどがなんらかの努力行為だと言えます
 そしてなかには勉強することが好きな人もいます。まあ、学力が高い人のほとんどが、脳みそを使う行為を好むことが分かっていますが。この勉強好きの人が「毎日5時間勉強している」と言ったとします。これは努力でしょうか? それとも努力ではないのでしょうか? 

努力と才能
 ここで能力と努力が全く別のものであるかどうかについて考えたいと思います。まず、どうして努力できるのか? という点に注目してみます。その大きな理由のひとつは「好きだから」でしょう。この時点で様々な利点があります。

●努力するに当たり、「好きである」ことの利点
・それを行うエネルギーが少なくて済む。(苦にならない)
・積極的に時間を作って行う。
・人は興味があることについては、記憶力が良くなる。
・ほぼ毎日、継続して行う。

では何故好きになったのでしょう? 生まれついての好みの差、環境の差があると思いますが、私はその大きなファクターに能力が足りていることが上げられると思います。人はその行為を繰り返すに当たって、毎回不快な刺激を受けると、損得がない環境では、それを止めることが分かってます。

●例:勉強
・問題を解いてみる⇒解けない⇒不快
・授業受ける⇒チンプンカンプン⇒禁固刑のような状態⇒不快
・成績が悪い⇒怒られる⇒不快
・成績が悪い⇒劣等感を抱く⇒不快

ちなみに能力が高い場合は
・問題を解いてみる⇒解ける⇒面白さが分かる⇒好きになる
・授業受ける⇒理解できる⇒とても充実した時間⇒好きになる
・成績が良い⇒褒められる⇒快感⇒好きになる
・成績が良い⇒成績が良い人たちが集まる環境へ⇒勉強の話題が娯楽⇒好きになる

こうして比べてみると、能力が高いと努力に対して、「正の循環」をしているのに対し、能力が低いと「負の循環」をすることが分かります。
次に、同じ「好き」でも努力に差がでることについて考えます。同じくらい「好き」ならば、その努力も同じになるはずです。しかし、そうはなりません。何故でしょう? それは努力とは時間との勝負だからです。一日で人が使える時間は限られています。同じに時間で差がでるとすれば、それは効率の差になります。簡単に言えば、一時間で10の努力ができる人と、1の努力しかできない人では、努力効率の差が歴然です。そしてその差が個人の能力の差に正比例することは、間違いないでしょう。
さらに自由にできる時間が同じ10時間あったとします。同じ「好き」でも、10時間まるまる努力する人と、2時間しか努力できない人がいます。集中力という生まれるついての『才能』によると思わるかもしれませんが、主にこれはその努力をするに当たって、どれくらいエネルギーを消費したかによると思います。その消費量は次の式で表せます。

その努力をするのに消費するエネルギー×時間=消費エネルギー

すなわち、努力に費やすエネルギーが少なければ、長い時間努力できるのです。当然ですね。そしてその費やすエネルギーが個人の能力によることも容易に想像できます。全然分からない問題について、一時間考えるのと、すいすい解ける問題を一時間考えるの、どっちが楽かは大体分かると思います。これは上で述べた「好きであること」と似たような関係にあると思います。

まとめますと、努力を「好き」になるには、「生まれついての趣向+理解できる能力」、実質的な努力量は、「生まれついての頭脳持久力+容易に行える能力」が大きな要因になっていると思います。簡単に言いますと、努力するためには『才能』が必要ということです。かつては努力は誰にでもできるものと考えられていましたが、実際にその努力ができる量は、才能により大きな階層ができているのです。

努力のフィードバック
 人の能力は生まれてからずっと一定なのでしょうか? 能力が高い人は、死ぬまでずっと高いままで、能力が低い人はずっと低いままなのでしょうか? 現実問題として、そういった実験を行うことはできませんので、正確には分かりません。しかし、特定の分野で、その分野で努力した人と、していない人の差は歴然ですし、人は使わない能力は退化していき、よく使う能力は進化していくこが分かっています。それに、関連する能力が高いと、少ない努力で大きな効果が得ることができます。例えば、ある学問を全然予備知識がない状態で聞いたとしても、半分も覚えることができませんが、ある程度知識を付けてから同じ内容を話したら、すいすいと理解でき、また簡単に覚えることができることが知られています。スポーツでも、本ばかり読んでいて、一度も運動したことがない人は、どんなスポーツをやらせても下手なことが多いですが、特定のスポーツである程度の実績を上げた人に、それ以外のスポーツをさせてみると、上手だったりします。
 特定の分野で力を発揮するのに、明確にどの能力が必要かなんて分かりませんから、全く何の努力をしていないなんて、簡単には断言できません。例えば、テスト前に一週間勉強した人と、一日しか勉強しなかった人がいたとして、後者の方が点数が良かったとします。ここで前者の人が、「やっぱり努力しても才能には適わないんだ」と思ったとします。しかし、それは本当にそうでしょうか? 前者の人は暇なときは、寝てばっかりいて何もしていません。後者の人は、暇なときはパズルを解いたり、物理学の本を趣味で読んだり、歴史小説を読んだりしています。直接的な努力をやっていないからといって、必ずしも努力していないとは言えません。実際、勉強ができる人は、暇な時は頭脳を使うことを好んでやりますし、運動が得意な人は、暇な時間によくスポーツをやっています。
 このように考えますと、人は自分が努力した結果を、自分の能力にフィードバックしているのではないでしょうか? すなわち、

自分の能力=現在の能力±努力した結果×フィードバック能力

です。そうすると、歳をとるほどフィードバックの回数は多くなりますから、大人になってからの能力とは、その人が行ってきた努力の結晶、歩いてきた人生そのものなんでしょうね。私たちが自分の元からの才能とか能力とか思い込んでいるもののなかに、実際は努力によって得た才能や能力があるかもしれませんね。

05/02/24 presented by Misawa Yusyou

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